「死んでいたものが生きる」エゼキエル37章
第一次バビロン捕囚ではエルサレムは王たちが捕らえられても、まだ王国としては存続していました。しかしゼデキヤ王の反乱を経て11年後、エルサレムは滅ぼされ、捕囚された民は本当に帰る所を失ったのです。「われわれは望みを失った」神に見放され見殺しにされた、自分たちにはもう未来はなく生きていても死んだような者であると感じ、嘆いていました。しかし実は、神の御心を知ろうとしないイスエラエルに対する裁きであり、神のご計画のうちに起こったのです。そのような中でエゼキエルは預言者として召命を受け、一つの幻を見ます。多くの人が殺されたか死体を捨てる所として枯れた骨が埋まる谷があり、風雨にさらされた沢山の人骨に向かって預言せよと神は言われます。エゼキエルが命なき骨に預言すると、骨と骨がつながり始め、肉と皮膚がつけられ人のような形となりました。しかしまだ生きた人間ではなく死人のようでした。神は再び語るように命じられエゼキエルが預言すると「息」が体に入り、命の灯が宿り大勢の生きた人間の群れとなりました。これは捕囚によって生ける屍のようになったイスラエル、造り主から離れ、いのちの豊かさが枯れてしまった民たちに、神の息=いのちと希望を受けると信仰により新しいいのちが与えられる、人生は主の御言葉によって生きることができる、ということが示されたのです。またエフライム(北イスラエルの別称)と南ユダは一つにされ、争いによらず平和のうちに一人の王が立つと預言されます。イスラエルは苦境にあり望みも枯れ、このまま子孫は絶えるだろうと思っていました。しかしイスラエル王国はひとりの牧者が治め、永遠に主の祝福があると預言されます。この牧者とはイエスキリストであり、キリストを信じる者はその祝福の約束にあずかるのです。将来のイスラエルの帰還の約束だけでなく、遠い未来の人々の救いのご計画まで示されたのです。
7月30日 メッセージ要約
- 2023-07-30
- メッセージ2023