「神の義によって」ローマ9:30~10:4
神の義とは何でしょうか。正義、と言っても自分の正しさを主張するものでは、神の御心に沿わないことがあります。聖書の信仰の偉人と呼ばれる人たちも、信仰観の違いがありました。士師記のエフタはならず者のリーダーでしたが長老たちに懇願されて士師となり、アンモン人との戦いを指揮することになりました。壮絶な戦いが続き、エフタは勝利するために神に「願いを叶えられたら家の者を燔祭にささげる」と誓願を立てました。望み通り敵に勝利しましたが、唯一の愛娘をささげなければなりませんでした。取引としては報酬のわりにあまりに大きな犠牲を払うことになってしまいました。一人息子を燔祭にせよと神から言われたアブラハムは、苦悶の末イサクに手をかけようとしましたが、神ご自身に止められ代わりの雄羊まで用意されました。エフタとアブラハム、2人の違いは何なのでしょうか?イエスのたとえ話の中に、ぶどう園で働いた農夫の話があります。朝から働いた者と同じ賃金を、昼過ぎに雇われた者も同額もらいます。契約に不当なことはないが、不公平ではないのでしょうか。聖書の「正しさ」は神との関係性にあるのです。アブラハムは神を恐れ神の御心に従おうとしたその信仰を良しとされました。さらに神は燔祭を求めているのではなく、神を知ることを望まれているのです(ホセア6:6)エフタは信仰によらず行いによって報酬を得ようとしました(ローマ9:32)。求める義の方向性が自己利益の実現に向かうと、「こんなに犠牲を払うから…これだけ祈るから…」祈願成就が当然のように思い、ご利益がないと神を信じない、という姿勢が主の御心から遠のいていくのです。神の義とは、神のあわれみ、いつくしみです。罪の赦しと永遠のいのちは、私たちが犠牲を払って得る報酬ではなく、信仰によって与えられる恵みの賜物です。