11月19日 メッセージ要約

「主の声に従うことは」エレミヤ書42章

苦しみや痛みが続く時、神はそれを「忍耐」を学ぶために強いておられるのでしょうか?私たちを存分に痛めつけて掟(おきて)とは何か思い知らせるためでしょうか?神の御心がどこにあるのか、エレミヤ書を見てまいりましょう。イスラエルの民は国を滅ぼしたバビロンの支配下にありました。ユダヤ政府高官のシャパン一族は被害を小さくしたいとバビロンに水面下で交渉していたのでしょう。能力も買われて一族は敗戦後もバビロンで信任されました。バビロンに降りそこで生きよと預言していたエレミヤも、バビロンの王に庇護されました。面白くないのは元王族や親エジプト派の生き残りです。バビロン軍に包囲される前に他国へ逃れていた王族イシマエルが反乱を起こしますが、失敗。イシマエルがバビロンの役人たちを殺した報復が自分たちに降りかかるであろうと途方にくれた民たちは、エジプトへ逃れるべきかエレミヤに問います。無理にエジプトへ逃れようとする者には災いが降りかかる、と神の言葉を伝えるエレミヤに対して民たちは「我々は良くても悪くても、我々の神、主の声に従います。(そうすれば)我々は幸を得るでしょう」と言います。しかしその後、様々な政治関係や恐慌などから、彼らはエレミヤを「嘘つき」呼ばわりし、彼らの最善の判断として「神の声に聞き従わない」ことを選択します。しかし神の御心を問うのではなく、自分たちの願望を承認してもらうつもりだった彼らは、結果、神の御心に背くことになったのでした。神はバビロンを用いてエルサレムに裁きを下し、また回復も神のご計画の内にあるという真の御心を見失わないために、神の声に耳をすまし続ける必要があるのです。