「神の賜物は永遠のいのち」ローマ6:15~23
聖書を読んだことのない人たちには、聖書は偉人や聖人といった自分とは遠い存在の、異国の立派な人たちによる素晴らしい教訓が書かれているのだろうと想像します。しかし、聖書に親しんでみると、登場人物たちが活き活きと躍動し始め、身近に感じます。創世記は罪の起源が書かれ、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフといった信仰の祖たちの家族・兄弟間の問題、出エジプト記から士師記、サムエル記に登場する魅力的な人物による罪の物語‥それらは現代に生きる私たちが抱える問題と変わりありません。文明は発達し、文化が成熟しても人間の本質は何も変わっていないからです。イエスの周りに集まって来るのは、ユダヤ人の共同体から罪人と見なされる人でした。そんな罪人と関わるなんて、いかがわしい…あの男も罪人だと揶揄されます。しかしイエスは一向に気にしません。むしろ「私は罪人を救う為に来たのだ」と言います。ここに福音の本質、イエスの目的があるのです。不信心な者でもイエス・キリストを信じる者には例外なく神は義としてくださいます。アブラハムは信仰の偉人ですが、失敗も多い人でした。なにゆえに神は彼を義とされたのか。それは信仰によるのです。人として立派でなくても信仰により義とされます。聖書が教えるのは死に向かう罪の道と、いのちに至る義の道です。二者択一で、どちらかしかないのです。たとえば自分を信じて誰の奴隷にもならないというような「三つ目の道」はないのです。いのちに至るためには人の努力や修行、才能によってどうこう出来るものではありません。罪が支払う報酬は死でした。しかし神が下さる賜物は永遠のいのちです。