4/14メッセージ要約

 

「見ないで信じる幸い」ヨハネ20:24~29

「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」トマスの持った疑いは、復活のイエスを見て信仰へと変わるのでしょうか?まずイエスの復活についての誤解を解かなければなりません。①イエスの体はどこへ行ったのか:墓の中から誰かが遺体を移した、またはイエスは完全には死んでおらずどこかで息を吹き返して移動したのだ、おおよそ考えられる理由は、状況がそれを否定します。ここでは弟子たちが戸を閉め切ってとじこもっている中にイエスが入って来たとあります。イエスの復活の体は以前と同じような肉体ではない、栄光の身体で現れたのだと福音書は語ります。肉体が壁をすり抜けるはずがない、あれは誰かが戸を開けたのだと、自分の理解できる次元に置き換えようとする人たちもいます。しかし栄光の体に変えられたイエスは堅牢な墓の封印も、死という縛めも解いて移動されたのだというのが信仰的な理解です。②幻か幽霊ではなかったのか:「そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ」復活のイエスは実体のあるもので、空想や想像力によって生み出された物語や幽霊ではありません。トマスは実際にイエスに触れ、自分の言動が主に見られ、聞かれていた恐れとともに自分を知って下さっていたという喜びをもって「わが主よ、わが神よ」と信仰告白出来たのでしょう。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいけないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである」(Ⅰペテロ1:8-9)イエスを実際に見てはいない私たちも、輝きに満ちた喜びをもって生きていけるのです。「わが主よ」と信仰を告白し生きる者で在りたいと思います。