「ここに遣わされたのは神です」創世記44章
ヨセフ物語は、信仰の家の平和の崩壊と和解・回復がテーマです。17才の時に奴隷として売られ、20年の月日が経過して目の前に現れた兄たちは、かつて自分を陥れた妬み深い、保身のために身内を欺く卑怯者の姿はありませんでした。年老いた父の嘆きを軽くするため、自分がベニヤミンの身代わりになると申し出るほど、自己犠牲もいとわず父親を気遣いいたわる心情に、兄たちも変わったのだと知り、ヨセフは涙をこらえきれなくなりました。兄たちに正体を明かし、「わたしをここに売ったことを嘆くことも、悔やむこともいりません。神は命を救うために、あなたがたより先にわたしを遣わされたのです」という告白に、ヨセフの考え方、ものの見方、聖書的な人生のとらえ方が現れています。この箇所では「神がわたしをここに遣わされたのです」と三度繰り返されています。ここに至ってヨセフは自分の人生の意味、目的、価値を理解することができたのです。創世記最後の50章でヨセフの信仰告白が結論として繰り返されています「あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変わらせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました」ここに創世記、聖書全体のテーマが言い表されているのです。人間は罪によって悪を企み、悲劇と混乱を招きます。しかし神は人々の救いの計画を推し進められ、そのご計画に用いられる私たちの人生は、涙の多い過程であっても、神によって善いものと変えられるのです。「神は、神を愛する者たち、すなわちご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」(ローマ8:28)病気や事故、不条理なこと、解決が困難な問題や悩み、それを信仰を働かせて受けとめることができたら、不幸と思われる出来事から神の恵みを、人生の希望を見出し、勇気をもって進むことができます子どもの問題は、親が先回りして解決してしまったら、いつまでたっても子どもは自分で乗り越える能力を身につけられません。失敗も成功も、子ども自身が問題を解決するための力を蓄える糧となるのです。親が全て守ってやっていては、子どもが経験する機会を奪い、成長を阻害することになります。私たちが信仰の経験を積み重ね、より信仰を働かせることができるように、神は様々な出来事を用意されています。神は人を良きものとして造られ、幸いになることを願って導いて下さっています。その神に信頼し、神のご計画の内に生かされていることを感謝しながら命の道を歩んでまいりましょう。