「主のわざと妬み」サムエル記上18章1~11節
サウルもダビデも神に選ばれ油注がれた者でしたが、神はサウルを王位から退けるとサムエルによって通告し(15章)、主の霊がサウルから離れ(16章)サウルは精神のバランスを崩し、たびたび発作に苦しむようになります。サウル王が悪い霊にさいなまれる時、気を静めるために琴の名手であるダビデが遣わされ、奏楽によってなぐさめを得ていました。サウル王の息子ヨナタンはそんなダビデを戦士としても尊敬し「自分自身のように愛した」と書かれるほど強い友情を持っていました。当時、イスラエル軍の装備は敵のペリシテ軍に比べ貧弱なもので、鉄製の武器や防具は王家のみ、他は青銅製の武具でした。ヨナタンは自分の上着や大切な防具類もダビデに与えるほど、魂の深い所で共感し合っていました。兵力、装備共にイスラエル軍は敵に劣っていましたが、ダビデはサウルに遣わされるところ必ず勝利するので、戦士の指揮官として任命され、兵士たちにも信頼され、民衆にも支持されました。「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」ともてはやされ、それを聞いたサウルは激怒し、不快に思い、ダビデに猜疑心を募らせます。サウルは自分の出番は終わったと察知してダビデに引き継ぎ王位を任せ、田舎に帰って静かな余生を過ごすことも可能だったのですが、それが出来ませんでした。サムエルの預言を聞き流し、神の方法より世の価値観や自分の思いを優先して、人々の目を恐れ、人気をとろうとしていたサウルにはもはや神の御心に従う謙虚さはなく、王位に執着し、ごう慢で自己中心的な生き方から離れることはできませんでした。ダビデが手柄を立てたのは「主が共におられたからである」と聖書では書かれていますが、サウルはなぜ自分が神から排斥されたのか承服しかねるまま、イスラエルの全ての人々がダビデを愛するのを知り、ますますダビデを恐れ、嫉妬し、敵愾心を燃やします。神の愛は人との比較で推し量るものではありません。一人ひとりに向けられた絶対的な愛であり、世の価値観や評価はたえず変動しても、神の愛は変わることはありません。サウルは民衆の歓心を買うことに重きを置いたため、不安や恐れで情緒不安定になりました。神の御心を求める者には信仰による平安が与えられ、全き愛を受け取ることができるのです。