9/15説教

「ダビデ契約」サムエル記下7章

私たちは日頃、誰かにお世話になったり、苦労をかけたりした時、感謝の気持ちを伝えます。しかしお礼はこれで十分だろうか、少ないと相手の気を悪くするのではないか、でも多すぎるのも気を遣わして受け取ってもらえないかもしれない、などと受けた恩に見合った感謝を表すのは難しいものです。神様に対してはどうでしょうか。ダビデは全イスラエルの王として認められ、ついに平穏な日々を手に入れます。しかし自分は高価なレバノン杉の王宮に住んでいるのに、神の契約の箱はエルサレムに運び上げてからは天幕に安置されたままであることに気づきます。モーセが与えられた十戒の石板が納められた箱は、荒野をさまよい旅を続けるイスラエルの民と共に神がおられる「しるし」でした。ダビデは自分が受けた恵みと祝福に対して主に最大級の感謝を表すため、神にふさわしい立派な神殿を造ろうと計画し、預言者ナタンに相談します。しかし神はナタンを通じて「『なぜあなたがたはわたしのために香柏の家を建てないのか』と一度でも言ったことがあるだろうか」と断られます。かわりにダビデとその子孫の祝福を約束され、「彼はわたしの名のために家を建てる。わたしは長くその国の位を堅くしよう」と預言されました。やがてダビデの子ソロモンが神殿を建てることになりますが、その神殿もやがてエルサレムとともにバビロンによって滅ぼされます。後の時代建てられた神殿もローマに破壊されます。神の家の永遠性は、人が建てた神殿には無かったのです。神の家とは、神がおられるところ、神が臨在されるところを指します。主イエスは十字架に架けられ死なれましたが、3日目によみがえられました。生前、「わたしは神殿を3日で建てる」と言われましたが、ご自身の復活のことを言われたのです。神の恵みと祝福はあまりにも大きすぎて、お返しすることなど出来ないものです。また見返りを神はお求めにはなられません。だから恵みなのです。お返すことの出来ない恵みをイエス様は負債だとたとえ話にされましたが、なぜ負債の大きさに大喜びできるのしょうか。キリストの恵みをお返しできる人はどこにもいないのです。どんなに恵みを受けても負担にならないのは、父なる神の一方的な、自由な選びの愛だからです。