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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-10-19 08:04:53 (0 ヒット)
メッセージ

『感謝を優先させるなら』 聖書箇所ルカの福音書17章11〜19節
  説教者 澁谷 友光師

「感謝します」という言葉は、クリスチャンになってからよく使う言葉ですが、一般的にはあまり耳にしないようです。私たちはイエス様を信じてから、感謝することを教えられ、また感謝するよう命じられています。これは神様の愛の導きなのです。なぜなら神様が私たちをもっと豊かに祝福するために、天の窓を大きく開く一つのカギが感謝をささげることだからです。ですから私たちはより意識して感謝をささげる者になっていこうではありませんか。
「感謝を優先させる者に」
何を優先させるか、人それぞれに選ぶ順序、優先順位がありますが、神様は何よりも感謝を優先させるように教えておられます。そのことを教えているのが今日の箇所です。
イエス様がサマリヤのガリラヤの境を通られた時、10人のツァラアトにかかった人がイエス様に叫んでいました。当時、ツァラアトにかかるのは大変なことで、罪深い人や律法を破った家系の人がかかるのだという偏見がありました。罹患してしまうと家族や友人から離れ、町はずれの寂しい所で隔離生活を送らなければなりませんでした。もし人が通るようだったら遠くから「私は汚れています、近寄らないで下さい」と叫ばなければならなかったのです。そんな彼らの近くにイエス様が来られた、自分たちがいやされるチャンスは生涯に一度、この機会しかないとばかりに懸命に叫びました。これは私たちに祈りの姿勢を教えているのかもしれません。必死に主を呼んでいると、イエス様は「行きなさい、そして祭司に見せなさい」と言われました。祭司の役割は礼拝を司るほかに、ツァラアトにかかっているかどうか判断するというのが律法で定められています。規定の手順では治ったら祭司に見せるとなっていますが、イエス様が彼らに近づきなぐさめ、彼らに触れて祈ったりはしませんでした。それでも彼らはイエス様の言葉通り祭司の所に向かっていると、途中でツァラアトが消えてしまいました。不治の病と考えられていたのにいやされたのがうれしくて、その中の一人は祭司に見せるどころではなくなりイエス様の元に戻って来て、ひれ伏して礼拝しました。「10人きよめられたのではないか、神をあがめるため戻って来たのは1人なのか」この言葉から神様は感謝の礼拝をささげる者を求めておられることが分かります。

機仝羝斥佞鮗けた時、御業は始まっている
今日の聖書箇所で、なぜイエス様は彼らに近づいて、手を置いて天を見上げて祈られなかったのでしょうか?それは、御言葉があるから十分だからです。今日、私たちは最高の所にいます。神の御言葉が語られている所にいるからです。この所こそ地上における最高の場所です。主の御言葉が語られる所に必ず神の御業は現わされるからです。
<イザヤ55章10.11節>
天からの雨が地をうるおし、美味しい作物を実らせますが、それ以上の恵みが神の御言葉です。神の御言葉はむなしく落ちることはなく、命に替えられるからです。その御言葉が毎週語られる教会に私たちは来ているのです。だから私たちは胸を張って多くの人をお誘い、福音を伝えようではありませんか。ツァラアトにかかった10人は、イエス様の言葉の力を信じて、御言葉に従って祭司の所に向かっている時、いやされたのです。イエス様は近づいてくれなかった、触れて祈って下さらなかったといじけてはいませんでした。主の御言葉に聞き従う、私たちもその信仰に習おうではありませんか。

供ヾ脅佞鬚気気欧襪海箸鰺ダ茲垢襦夢脅佞修里發里、神への最上のささげもの〕
「残りの9人はどこにいるのか」ここにイエス様の心があります。神の御業が現わされた時、まずは主を賛美すること、主に感謝し礼拝するため神の元へ戻ってくることがイエス様の願いなのです。
聖書は事あるごとに感謝することを優先順位の第一にしなさいと言っています。しかし私たちのやっかいなところは感情を持っていることです。うれしい時には笑い、喜び、悲しい時には泣き、頭に来た時は怒る、感情それ自体は神様が与えて下さった素晴らしいものです。けれども感情というものは時により移り変わるものです。こうして御言葉を聞き学んでいるけれども、感情の起伏により感謝できない・感謝することが難しい時があります。そのような時は意志をもって、感謝することを優先すると決めるのです。感謝しにくい時、<詩篇50篇14節><92篇1節><詩篇107篇1.2節><テサロニケ5章18節>などの御言葉が助けて下さいます。感謝へと導いて下さいます。すると天の窓が開き、豊かな恵みが降り注がれるのです。
なぜ神様はそれほど感謝を願われたのでしょうか。

掘ー腓牢脅佞領蘿匱圓鮟吠,気譴
感謝は状況を変えます。感謝を主にささげる時、そこは神様の領域(エリア)に変わるのです。神様がご支配され、神様が触れて下さるのです。主の愛を知って感謝をささげるならば家庭が、職場が、あなたが所属するコミュニティーが変わるのです。神様は今日そのことを教えて下さっているのだと、この御言葉を受け取ろうではありませんか。
<ヘブル人への手紙4章14、15節>
聖書はイエス様こそ祭司の中の大祭司であると書いています。私たちの弱さに同情できない方ではない、天から来られた大祭司であるイエス様に認めていただければ大丈夫なのです。
<詩篇100篇>
時には感謝できないような出来事がありますが、そのことを通していやし、解放、回復の御業のあかし人として用いられるのです。神様が新しい扉を開いて下さったことを感謝しようではありませんか。「感謝する」という大いなる武器を、豊かに用いてこの状況を切り拓いていくなら、そこに神様のご支配をもたらすのです。多くの人の目を開き、神様の御名があがめられ、御業があきらかにされるため、主は感謝を教えて下さったのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-10-11 04:26:32 (7 ヒット)
メッセージ

 「主に伺うダビデ」 サムエル上23章
サウルとダビデは、それぞれ主に選ばれ油注がれイスラエルの王となりましたが、2人を分かつ信仰観、生き方の違いは「主にうかがう」ことでした。実はサウルという名はシャーアル「主にたずねる」から来ていますが、サウルが主にたずね、主に問うても、夢においても預言者からも神からの応えはありませんでした。そこで彼は女性の霊媒師に占ってもらうという愚挙に出ました。それに対してダビデは彼の人生において何度か失敗をしてもその都度、悔い改めて主に帰り、主にたずね求めたのが特徴的です。逃亡していたダビデの元に、親族や貧しい人やサウルに不満を持つ者たちが400人程集まっていた時、ケイラの町がペリシテの略奪隊に襲われているとの情報が入ります。本来ならサウル王のイスラエル軍が対応するべきですが、ダビデは手勢を率いて救出に向かうべきか「主にうかが」います。神は「行って、ケイラを救え」と答えますが、ダビデの部下は消極的です。再度、主に伺いを立てると「ペリシテ人をあなたの手に渡す」と答えられ、ダビデは奮起し味方を励まし、略奪隊に勝利しケイラの住民を守りました。しかしケイラの人々にとってはサウル王にダビデとの関係を疑われる難しい立場となり、ダビデもサウル王に居場所が特定されてしまいます。主の声に従ったのに、サウル王がダビデを殺すために兵を率いてやってくるという危険にさらされます。そこでダビデはどう行動すべきか主にたずね、ケイラを出てあちこちをさまよいます。ダビデは命をねらわれ続けるストレスと戦いながらも、自分を慕ってついてくる600人の人々の生活も考えなければなりません。荒野で王としての訓練があったのです。主は、意味のない苦しみは与えられません。サウルが岩ひとつ隔てた所まで追い詰めた時、ペリシテ軍が侵入したと報告が入り、ダビデの追跡を断念します。人々はその場所を「分かれの岩」と呼びました。まさに神がダビデとサウルの間に入って「仕切り」となられたのです。主に伺い主と共に歩んだダビデを守られた神は、今、主にたずね求める私たちも守られるお方です。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-10-11 04:23:56 (9 ヒット)
メッセージ

 「逃亡者ダビデ」 サムエル上21章
ダビデは宮廷で楽器を演奏している時にサウル王に槍を投げられ殺されかけたり、王の娘ミカルと共に家にいても兵士に捕らわれそうになったり、預言者サムエルのもとに隠れても安全でないことを知り、最後の手段として親友ヨナタンに父サウルの真意を確認してもらいました。嘘の説明をして父サウルを試すような芝居をしたところ、サウルの怒りは息子を殺す一歩手前まで爆発します。サウルの敵意は気まぐれや思いつきのものではなく決定的となり、ダビデを確実に殺そうと執念深く追うようになりました。このことはダビデの信仰による勇気も委縮させました。そして空腹をかかえ祭司アヒメレクに相談した時、逃げのびるための方便として「王の用事で来ました」と伝えます。そこには聖別されたパンしかないと言われ、「私も部下たちも清い」と、一つついた嘘のために作り話を重ねるしかありませんでした。武器を携帯していなかったので、奉納していた巨人ゴリアテの剣をもらい武装しました。そのことを居合わせたエドム人ドエグがサウルに報せ、アヒメレクと祭司たちがダビデの陰謀に加担したとしてサウルは激怒し、祭司の町の住民もろとも皆殺しにしてしまいます。いっぽうダビデは、サウル王の支配下には安全な場所はないという判断から、大胆にも敵地ペリシテの王アキシュを頼りますが、王の部下たちがダビデを覚えていて受け入れられる空気ではないと感じ取り、気が狂ったふりをして町の外へ追い出されました。サウル王への恐れ⇒嘘、偽り⇒逃亡という負の連鎖から脱け出せないダビデの元に、アヒメレクの子エブヤタルが来ます。自分が逃亡している間に関わった人々を死へ追いやったことを聞き、ダビデは後悔します。恐れと不安におびえる時こそ、信仰の武具によって身を固め、自分も人もあざむくことなく平和の内に問題解決ができるよう主に知恵を求め、聖書から学ぶことができますように。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-09-21 13:12:27 (36 ヒット)
メッセージ

「愛されたダビデ」 サムエル上18章
ペリシテ軍との戦いにおいて勝利したイスラエル軍。その戦の勲功者は強敵ゴリヤテを打倒したダビデでしょう。イスラエル軍の凱旋の際、人々は「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と歌い兵たちを喜び迎えます。それを聞いてサウル王は激怒し、ダビデに対する妬みと猜疑を募らせます。神の霊がサウルから離れ、悪い霊がサウルのもとに来て彼の心を頑なにさせました。神はダビデと共にあり、自分は神に捨てられたとサウルの心は恐れと不安にさいなみます。ダビデは勝利の度に民衆の人気を得ましたが、サウル王からは殺意を向けられました。サウルが気に入らないことは身内の中にもあります。ダビデに危害を加えようとすると息子のヨナタンがとりなし、娘でダビデの妻であるミカルがダビデを逃亡させたことや、預言者サムエルはサウルと会うことは拒むが、ダビデを殺害するために差し向けた兵士からダビデを守ったことなどです。家族やかつて信頼していた人が自分の意のままにならず、自分を裏切るかのようにダビデをかばうことに益々腹をたてるのです。サウルとダビデの間にあって苦しむのがヨナタンです。彼はダビデと友情誓約を結んでいます。ヨナタンの方が年長ですが年齢に支障なく、自分と同じ性質をダビデの中に見たのでしょう。心の奥底にある共感できるもの、それは神に対する信仰です。ダビデもヨナタンも信仰の勇者です。二人は心の深いところから神によって結ばれていたのです。ヨナタンは苦心しますが友情を貫き通して父サウルの殺意からダビデを守りました。聖書における至上の友愛の表現に「人がその友のために自分のいのちを捨てること、これよりも大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)とあります。主イエスは私たちのために犠牲となられました。「心を尽くし〜あなたの神、主を愛せよ」とはイエス・キリストの恵みを受け取り、その愛に応答しようとする者の心に生じる愛です。人々に愛されたダビデは、誰よりも主なる神を愛した人でした。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-09-13 11:00:21 (26 ヒット)
メッセージ

 「サウル王の失敗」 サムエル上15章
指導者の働きは「決断する」ことですが、恐れと不安は判断を鈍らせます。聖書はその判断の失敗に多くの項を割きます。神に選ばれ油注がれた人物であっても、「神を恐れ、神に信頼し従う」という原則を誤ると、神の御心から離れたことを行ってしまうのです。サウルは神に選ばれ、油注がれた人物です。知性と霊性、信仰の勇気に富む人物でした。その彼も判断を間違えることがありました。一つはペリシテの大軍に圧迫されて勝利を祈願するいけにえを捧げる時、サムエルに7日待てと言われたのに約束の期日までに脱走が相次ぎ残った兵は600名、これ以上待てないとサウル自身が燔祭をささげたことです。神聖同盟から王政へ移行する過渡期であり、サウル王に反対する人々もいました。民衆の心が離れてしまう、王の立場が危うくなる不安とあせりが、祭司の働きを勝手に行い「主の命じられた事を守らなかった」のですが、自分では不従順の罪を犯したと気づきません。やがてサウル王は勝利を積み重ね勢力を拡大し、イスラエルの信頼を勝ち得、20万もの兵が集まるほどになった時、神は「アマレクを聖絶せよ」と命令されます。しかし命がけで戦うイスラエルにとって恩賞や戦利品の望めない戦いは「益」がないようです。犠牲に対する報いを欲したサウル王と民たちは、アマレクの持ち物を滅ぼし尽くせという命に背いて家畜の良いものを残し、アガク王を生け捕りにします。サムエルに「主の声に聞き従わなかった」と指摘されると、サウルは「兵たちが主にささげるため、良いものを取り分けた」と責任転嫁し、言い逃れます。そのサウル王の振る舞いを悲しまれ、神は「あなたが主の言葉を捨てたので、王位から退ける」と言われます。神を信じる私たちもサウルと同じです。私たちが立つ原則は何でしょうか。「主の御言葉に聞き従うことを喜ぶ」のはイエス・キリストの十字架による神の愛に拠るところです。私たちを突き動かす動力は恐れに対する服従ではなく、神の愛に対する応答なのです。 


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