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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2020-05-01 05:49:52 (85 ヒット)
メッセージ

「罪と死の問題の解決」ルカ24章1〜12節
人は皆、いずれ死にます。いかに生きていくべきか、自分の死後はどうなるのか、というのは古今東西の人が抱いた切実な問いです。その死の問題に解答を与えることができるのが、復活の主イエス・キリストです。イエスの復活が意味することは何でしょうか。まず「本当に神の子であった」証明、そして罪の無い神の御子により、全ての人々の罪が赦され、全ての人々が救われるための贖いが完了したことにより、人生における罪の問題の解決をも意味します。そして永遠のいのちの希望、死が終わりではないことを示されました。いずれも神の御子イエスでなければ果たせない、神の御業です。しかし、このイエスの復活を告げられたとしても、素直に信じることが出来ない人もいます。イエスを直に知っている弟子たちでさえも、最初は信じることが出来ませんでした。人は自分の聞きたいように聞きます。また経験と培った知識に基づいて理解しようとします。自分の知性を越えたものに対する無理解は、危機に対しても人を油断させ、物事を過小評価させる要因にもなります。それは災害や疫病の度に考えさせられることです。弟子たちはイエスが十字架の前に幾度も復活を予告していたにも関わらず、思い出すことが出来ませんでした。自分たちの理性を越えて神がそのような大いなる奇蹟を行われるとは到底考えもしなかったのでしょう。臆病で不信仰な彼らが、大胆に世界へ福音を告げに行く者となったのは、死から復活されたイエスとの出会いがあったからです。復活の主から力を受け励まされ、赦された喜びと永遠のいのちの希望を胸に、福音を携え世に出て行ったのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2020-04-17 10:01:29 (98 ヒット)
メッセージ

「父よ、彼らをお赦しください」ルカ23章26〜43節
「父よ、彼らをお赦しください」十字架上で死に行くイエスが言われた彼らとは誰でしょうか。3者(長老・律法学者・議員たち、兵士たち、民衆)と、イエスを認めず信じようとしない人々のことです。この箇所に出てくる3者は身分や立場は違えどイエスをあざけるところで共通しています。指導者たちはイエスを殺害するだけでなく、その存在をおとしめるため民衆をあおります。ローマの圧政によるストレスのはけ口として仕向けられたイエスに、民衆はイエスを十字架刑という最も残酷な処刑方法でもって殺すことを望みます。ここに人間の残虐性を見ます。理知的と思われる立場ある人でも、自分たちの権威を守るために愚かな方法をとり、またその過ちに気づくことなく群衆心理に流されて行くのです。「時代の流れ、空気感、みんなそう言っている」を言い訳にする人は、集団の中に入ると責任感や判断力が低下します。戦争や疫病や災害の時に、欲求不満やストレスでヒステリー状態になった人々が思慮分別を失うと、一気に集団パニックに陥る危険があります。イエスは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」と執り成され、人の罪を一身に受け十字架にかかられたのです。人の罪深さ、愚かさ、弱さを知るほど、父なる神の愛と主イエスの恵みが私たちの心を打つのです。私たちの身代わりとなられ死なれた主イエス。死で終わるのではなく、よみがえられた主イエスに感謝をおささげしましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2020-04-11 07:12:51 (84 ヒット)
メッセージ

「悲しみ悩みの末に」マタイ福音書26章36〜46節
進学、就職、異動…春は生活の変化を伴います。それが喜ばしい出来事であったとしても、今までの生活を変えることが知らず知らずの内にストレスとなることがあります。そういった精神的負荷につぶされないためには、過ごす場所や生活様式が変わっても継続する「習慣」が心の安定を保ってくれます。イエス様は祈ることを習慣としていました。どんな場所にいても、周りを取り巻く人が変わろうと、イエス様はいつも一人で神様と向き合う時間を作られました。捕らえられる前、弟子たちは眠ってしまっている間もイエス様は祈りました。ゲッセマネの園はオリーブ油の精油所の意味ですが、そこで血のしたたりのような汗を落としながら、悲しみ悩みのあまり死ぬほどの気持ちをふりしぼるようにして、神様に祈られました。イエスが十字架で死に、命をもって人々の罪をあがなう犠牲が必要であることが「神の御心(神の望み)」であることもご存じでした。それでも、罪のない者が罪を背負うこと、霊的な死によって神と断絶することへの苦痛は耐えがたく、「できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください」と祈られました。旧約で「杯を飲む」という言葉は、その人に定められたこと(所有)を受け入れることを表したり、神の怒り(審判)の比喩で用いられたりします。イエスは二度目には「この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか御心(神の意志)が行われますように」と祈られました。「わたしの望むようにではなく」人々の救いのために御子を世に遣わされた方の御心が行われますように、と祈られたのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2020-04-03 13:36:18 (98 ヒット)
メッセージ

「神から来た人」ヨハネ9章13〜41節
生まれつき目の見えなかった男は、イエスの言葉の通りシロアムの池で目を洗うと目が開かれ見えるようになりました。癒されたのが安息日だったことでパリサイ派の議員たちはイエスの行動を問題視し、彼に尋問します。「お前はあの人をどう思うか」「預言者です」「安息日を守らない者は神から来た人ではない」とイエスの言動を否定するパリサイ人に対し、彼は「神は〜神を敬い、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります」「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もお出来にならないはずです」と反論します。自身の体験を通した証言は強いものです。議員たちは罪人と見下していた男に自分たちの主張が間違っていることを指摘されたようで面白くありません。イエスをメシアと告白する者は会堂(共同体)から追放すると決めていたので、彼を追放します。「生まれつき目が見えないのはこの人の罪の為か?」「この人の父母・先祖の罪の為か?」いずれにしても罪があるから見えないのだ、と先入観(偏見)をもって人や物事を決めつけたり、自分は色々知っていて正しく、相手が間違っている、と真理から目をそらそうとする頑なな人を聖書は「うなじの固い民」と表現します。強い自我が打ち砕かれないと自身の霊的な飢え渇きにも気づかずに生涯を終えることになるでしょう。イエスはそのような人を、見えているが見えていないと指摘します。これを聞き捨てならないと思ったパリサイ人が「我々も見えないということか」と言うとイエスは臆せず「『見える』とあなたがたは言っている。だから、あなたがたの罪は残る」と告げます。神のもとから来られ人々の罪を贖う主イエスは、人々の罪をも明らかにするお方です。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2020-03-27 10:17:55 (223 ヒット)
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「父のみこころ」マタイ18章1〜14節
この中で誰が一番偉いのか。何をどのようにすれば神様は評価してくださるのか。神の国での席次を上げるための方法はあるのか。それが弟子たちの関心事でした。共感できないこともないのですが、彼らが神の御心から外れたところで血眼になっていることも分かります。そうではない、発想が違う。イエスは幼子を真ん中に立たせ話されました「心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の国でいちばん偉いのだ」徳や実績で神の国に入れるのではない。神の国に入れられるのは、御前に何も誇ることが出来ない子供のような者だ。自分にはその資格が無いと気づくことが出来た者が、神の恵みをいただくことが出来るのだと。そもそも人は競争社会の中で常に比較され続け、経験則から世の原理を基準とし、人を(自分をも)測りがちです。信仰が強いか弱いか、その基準さえ人であるゆえに間違えることがあるのです。人との関わりにおける相対評価ではなく、神との関わりにおける絶対評価が基いとなるべきです。神は「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛し」てくださっているのです。幼子は“資格の無い者”、誰かに守られ助けられなければ生きていけない弱い存在の象徴として話されたのです。迷い出て見失った羊はその愚かさ故に滅んでしまっても自業自得なのでしょうか。真の羊飼いはそれを見捨てません。見つかるまで探し、見つかったら大喜びするでしょう。神の御心は人々の救いです。世の人に小さき者と見下され軽んじられたとしても、その者が滅び行くことは神の御心ではないのです。


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