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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-01-25 14:18:11 (106 ヒット)
メッセージ

「御国を受け継ぐ者」エペソ1:11〜14
本年の教会標語は【御国の継承】です。キリストの十字架の贖いによって罪が赦されたと信じる私達は、御国を受け継ぐ者として神に定められています。神のご計画によると、1.愛において聖く傷のない者となるため、2.神の子となるため、3.神の栄光が褒め称えられるため、私達は神に選ばれたのです。「御国を受け継ぐ」というヘブル語は「所有」「くじによって分け前にあずかる」という意味で、後に「神の嗣業・約束の地」を指すようになりました。旧約においてはイスラエル部族に目に見える形で土地が与えられ、新約では信仰によって神の子とされ、恵みによって霊的嗣業の相続人となるのです。キリスト者に将来起こることとして神が約束して下さったことですが、その保障として聖霊による証印が押されます。証印とは「封印する」ことです。差出人から送り主へ間違いなく届けられるように、また持ち主を明らかにし誰も荷物を損なうことがないようにするためのものです。救われた者に、神の国と全ての祝福を確かに受け継ぐためのしるしとして聖霊が与えられるのです。保証というギリシャ語は手付金、内金という言葉や、婚約指輪のことも指します。来たるべき御国を受け継ぐための保証として聖霊が与えられたのは、神が誠実に愛をもって私達と関わって下さる証拠です。受け手側(信じる者)の努力の成果ではなく、「福音を聞き、キリストを信じた結果」与えられた恵みです。「聖徒たちよ、主をほめうたえ、その聖なる御名に感謝せよ」(詩30:4.5)「私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をほめたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」(ヘブル13:15)


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-01-18 12:05:51 (115 ヒット)
メッセージ

「御国を受け継ぐ者」ピリピ2:12〜18
本年の教会標語は【御国の継承】です。信仰の継承というと意味は通じますが、厳密にいうと信仰は神と人との関わりであり、他人の信仰を受け継ぐというのは神学的にはそぐわない表現です。新約聖書には「御国を受け継ぐ者」という表現があります(エペソ1:11、14)。キリストの愛を告げ、自分が救われた喜びを伝えることで、家族が友人が神を信じ信仰を持ったとすれば、それは幸いです。その人も神の国を受け継ぐ者となります。親がクリスチャンだから仕方なく信仰を継承したとなると、それは宗旨の踏襲です。私たちはこの地上において深い関わりを持つ家族・友人・知人が救われることを願います。地上の家族が天においても神の家族となり、共に神へ賛美をささげることができればなんと幸いなことでしょう。しかし身近な人ほど、その人の弱さや未熟さや汚さを知っているでしょうから、過去にその人がどのように生きたかの痕跡で汚点や至らなさばかり目につくと、私では家族に証しにならない、と困難に思われる方が多いのも事実です。しかし私の努力の結果を見せることで人が救われるわけではありません。イエス・キリストが何をしてくださったのかをほめたたえ、告げ知らせるのです(ピリピ2:6〜8)。神は人に救いを求める意志を与えて下さり、それだけでなく溢れるばかりの恵みの中で生きる力も与えて下さるお方です。人々を救いへ導いて下さる方は神ご自身です。私たちは御国を受け継ぐ者として神の愛を、主イエスの十字架を伝えていこうではありませんか。神のみことばを霊的な糧として血肉とした信仰者は、その歩みが主の恵みの証しなのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-01-10 13:55:16 (386 ヒット)
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「新しい生きた道をとおって」ヘブル10:1〜25
2018年はヘブル10:20の「新しい生きた道をとおって」を標語に歩んでまいりました。この道は十字架の犠牲によって開かれたものです(マタイ27:51)。イエス・キリストが身をもって、誰のためでもないこの私のために開いて下さった神への「道」。キリストのあがないにより神と人を隔てる罪という壁が取り除かれたため、旧約時代は至聖所へは年に一度、大祭司しか入ることができなかったのが、イエスを信じ救われた者は大胆に神のもとへ近づくことができるのです。この神の恵みを無駄にしてはいけません(競灰螢鵐6:1)。赦されたことを信じ、神に愛され受け入れられていると知った時の感動は間違いなく、私と神との真実な出会いからもたらされるものです。その信仰告白した希望に疑いを持たずに、主と共に歩み続けることができれば幸いです。しかしそれを阻む出来事が日常の中で起こります。自分がクリスチャンであるがゆえに人との価値観に摩擦が生じ、家族の中で孤立したり、社会の中で浮いてしまったり、周囲から反対があったり等のストレス。また、神に従い歩んでいるのに、問題が絶えない。祈りは本当に聞かれているのだろうか‥信仰を動揺させる人々(自分)の声。しかし、その問題、悩みと誠実に向き合わせ乗り越える勇気・愛・力をもたらして下さる源泉は神様なのです。私達が生ける新しい道を備えて下さったイエスご自身が「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と言われました。生涯担わなければならない十字架も、イエスが共に背負い歩んで下さるのが新しい命の道です。ですから真心をもって信仰の確信に満たされつつ、互いに励まし合い歩もうではありませんか。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-01-04 11:10:21 (137 ヒット)
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「異邦人を照らす啓示の光」ルカ2:21〜38 慈しみ深くあわれみに富まれる神は罪人を捨て置かれません。「かわいそうに思う」という言葉は聖書の中に幾度か出てきます。その言葉が出てきた時イエスは必ず行動を起こされました。子を亡くした母親をあわれんで子を生き返らせ、福音を宣べ伝えていた折、群衆をかわいそうに思い十二弟子を各地へ派遣しました。またイエスは憐れみに富む父なる神のご性質を、放蕩息子のたとえ話の中で語られました。散財した息子が帰って来るのを遠くから見つけた父親は「かわいそうに」思い走り寄って、彼を抱き口づけし、息子の帰還を無条件に喜んだのです。聖書の「かわいそう」という言葉がどこから派生したかというと「内臓」です。心臓、肺、肝臓‥が震えるような、胸が熱くなる、体の奥底から来る思いなのです。神様は自分の弱さ・至らなさに嘆く者、罪深さにおののきへりくだり悔い改める者の叫び、祈りを聞かれ、胸がしめつけられ、ほっとけないのです。シメオンはローマの圧政にあえぐイスラエルのなぐさめを長年待ち望んでいました。聖霊は彼の祈りにあわれみをもって答え、「主のキリスト」を見るまで決して死なないことを告げられます。8日目のきよめのため父母に抱えられ神殿へ入ってきた幼子イエスを見たシメオンは御霊に示され、神を賛美します。「御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です」全ての人にとってイエスが救いだと歌っています。滅びに向かう人々をほっとけない神様は、ご自分のひとり子である御子イエス様をこの世に遣わされました。ここに、神の愛と真実が示されたのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-12-24 14:32:41 (119 ヒット)
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「大いなる喜びの知らせ」ルカ2:8〜20
皇帝アウグストの勅令により人口登録のためベツレヘムへやって来たヨセフとマリヤは、その小さな町で出産をしました。この夫婦のもとに羊飼いたちがやってきました。彼らは御使いより救い主がお生まれになったことを知らされ、探しに来たのです。目印は飼い葉桶に寝かされている嬰児。家畜小屋の飼い葉桶に寝かされている赤子など普通は考えられないことですが、反ってそれがしるしになったのです。羊飼いたちは仕事柄、屋外で過ごすことが多く安息日や礼拝を守りにくい上に、貧しく無学な者として裁判の証人として立つことの出来ない、社会から外された人たちでした。人口調査の対象にすらならず、ローマからすると人として認められていないかのようです。そんな彼らに救い主がお生まれになったという福音が真っ先に伝えられたのです。マタイ福音書によると、同じ頃に東方の博士たちによって救い主の誕生がエルサレムの指導者たちにも知らされましたが、一つの情報として受け取っても、信仰をもって良き報せとして聞くことが出来ませんでした。羊飼いたちは、神の使いを見た時に最初は非常に恐れましたが、天の大軍が神の栄光をほめたたえて賛美したのを聞き、互いに話し合って「主が知らせて下さった出来事を見に行こうではないか」と語られたことを信じ、急いで出かけました。そして幼子イエスを探し当てた体験から神様の不思議な導きとあわれみに感謝し、神をあがめ賛美する者へと信仰が引き上げられました。クリスマスに登場する人物は、職業や年齢や立場は違えど、神様は一人ひとりと深く関わり、イエスの元へ近づくように導かれるのです。


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