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投稿者 : ryokos2004peter 投稿日時: 2012-12-07 19:49:45 (1026 ヒット)
メッセージ

『インマヌエルの主』


 スリヤと北イスラエルが同盟を組んだ。というニュースを耳にして、南ユダのアハズ王や民の心は、恐れでいっぱいになる。しかし主は、敵の敗北を宣言し、アハズ王たちに心を静めて、恐れてはならない。と言われる。 しるしとして与えられた‘おとめがみごもって男の子を産む’というのは、人の力では成しえない神様のしるしを現されている。また全人類の救いのしるしであり、この方が、インマヌエル(神がわれらと共にいる)というしるしである。


 

 危機的な状況の中にこそ、主は介入し、働いて下さる方である。アハズ王は、信仰的な言い方をしていたが、実際はアッシリアに傾いて行った。私たちは、主に信頼し、主に目を向けてまいりましょう。インマヌエルの主は、私たちと共にいて、共に闘い、助けて下さる主である。

                         イザヤ7:3〜14


投稿者 : ryokos2004peter 投稿日時: 2012-11-29 18:14:16 (962 ヒット)
メッセージ

『勝利の生活』


クリスチャンは、二人の自分があると言える。生れながらの自分とイエス様によって、救われ神様の性質にあずかる者とされた新しい自分である。しかし、救われたと言っても、古い性質と新しくされた性質のはざ間で、闘っているのも事実である。

信仰を持って、クリスチャンになったのに、罪の誘惑に負け、‘自分は救われていないかも?’と落ち込んでしまう人もいる。けれども、イエス様が私たちのために、十字架に架かり勝利して下さった事を忘れないでいたい。

新しい命に生きるため、私たちは、古い自分を捨て去る事が必要である。様々な罪の誘惑との闘いの時に、自分の頑張りで、勝利する事は出来ない。私たちを助けて下さる聖霊の力によって、日々強められて、日々新しくされる事が必要である。

                            ガラテヤ5:1617


投稿者 : ryokos2004peter 投稿日時: 2012-11-23 18:37:59 (984 ヒット)
メッセージ

『与える者の幸い』


 


ザンビアで『孤児院』を建築し、現地の子供たちのために働く日本人女性の証を読み、その捧げ尽くしておられる姿に感動した。私は、どれだけ捧げる歩みをしているか、反省させられた。

パウロは、困難の中で、多くを捧げ続け、もう会う事の出来なくなるエペソ教会の長老たちにメッセージを残している。群れを見張る者として、み言葉が彼らを整え、み国を継がせる力を持っている事を語る。

 パウロは生活を通して、受けることより与える事の大切さ、幸いを示してきた。それは、十字架に至るまで、与え尽くして下さったキリストの教えそのものである。私たちは、ともすれば‘受けること’ばかり求めてしまう。しかし、誰かのために、祈りや愛の業や言葉…与えることが出来るのではないだろうか? それこそが主に喜ばれることではないだろうか?            


                             使徒20:2835


投稿者 : ryokos2004peter 投稿日時: 2012-11-16 20:18:16 (959 ヒット)
メッセージ

『幼子のように』


目の前の現実は、ほど遠いものであったが、宮を再建し、エルサレムに帰る回復の預言が語られる。老人たちが座し、子供たちが戯れている光景は、平和の到来を預言している。今の状態が、どうであっても、回復を約束された主は必ず成し遂げて下さる。

イエス様の周りには、子供たちが集まり、それを弟子たちにも妨げることを赦されなかった。教会にとっても社会にとっても子供たちは、宝であり、彼らのようにならなければ、‘神の国に入る事は出来ない’、福音を知る意味において良いお手本である。

ゼカリヤの預言にあったように、教会は、救われた者が、子供から年配者に至るまで、共に祈り合い、礼拝するところであり、主はそれを喜んで下さる。                  ゼカリヤ8:1〜8


 


投稿者 : ryokos2004peter 投稿日時: 2012-11-09 19:07:55 (1038 ヒット)
メッセージ

『主を求める』


アモスは、牧者であり、いちじく桑畑をしている農夫でもあった。専門職の預言者として、専属していたわけではなかったが、彼は、主の召しを受け、職業を持ちながら、預言者として活動した。

当時、アッスリヤが弱体化している時であったので、平穏で、イスラエルも比較的豊かであった。そのため、献げ物も豊かにささげてはいたが、心の伴わないものであった。主を忘れ、偶像に走る人々に、主は`わたしを求めよ、そして生きよ’と主を尋ね求め、主と共に生きることを求められる。

 私たちも日曜日が来たから、ただ何となく礼拝をしている時がある。主に心を向け、主を尋ね求めつつ礼拝を捧げたい。ただ当たり前のように、読んでいるみ言葉も、‘み言葉のききん’が来ると言われている。今のうちに、心を主に向け、主を尋ね求める礼拝をしましょう。                           アモス1:1〜2


 


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