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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2022-12-02 14:02:28 (166 ヒット)
メッセージ

「安んじて行きなさい」列王記下5章1〜19節


思いもよらない病気や突然の事故は、人生の進路を余儀なく変更させ、未来に対する不安を生じます。その傷は他人には測り知れない痛みを伴い、孤独感と悩みを増幅させます。しかし神は不幸にさせるためにご計画されたのではなく、その痛みを通して見えるもの、気づくものがあると語りかけて下さいます。スリヤ軍(アラム)の将軍ナアマンは国外にも知れ渡る優秀な軍人でしたが、重い皮膚病を患っていました。将軍の妻のもとに、かつてスリヤの略奪隊がイスラエルから捕虜として連れて来た少女が仕えていました。その少女が女主人に「ご主人様がサマリアにいる預言者の所にお出でになれば、その病をいやしてもらえるでしょうに」と言いました。ナアマンにとっては暗闇に光を見たような良い知らせでしたが、隣国イスラエルとは常に友好な関係というわけではないため、主君に相談します。スリヤ王は親身になって紹介状をしたため、ナアマンは金銀など贈り物を携えて行きました。手紙を読んだイスラエルの王は「病気をいやす力など私にはない、これは言いがかりをつけて我が国と争う口実にするつもりかもしれない」と怒りました。その話を伝え聞いたエリシャは自分の元へ来るように伝えます。ナアマンが喜んでエリシャの家を訪ねると、戸口のところで使者が「ヨルダン川で七度身を洗いなさい」と告げました。エリシャが直接対応してくれると期待していたのに、思っていた方法と大きく異なるため、憤って帰国しかけました。しかし部下の進言もあり、言葉通りヨルダン川に七度身をひたすと病はきれいにいやされました。もしナアマンが重い皮膚を患っていなければ神と出会うことはなく、もしイスラエルにいた少女が他国に捕らえられなければ異邦人の救いはありませんでした。それぞれに人生の傷を持ち痛みを知った者に、神は不思議な方法でご計画のために用いられ、平安を与えられるのです。これから神を信じる生き方をしたいと願うナアマンに、エリシャは「安心して行きなさい」と告げました。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2022-11-25 20:17:25 (156 ヒット)
メッセージ

「主は今も生きておられる」列王記下4章8〜37節


「主は今も生きておられます」(:30)子を亡くした母が預言者エリシャにすがって言った言葉です。エリシャ物語を読むと、以前もどこかで読んだような奇蹟が行われます。過去と同じ話が繰り返されているのではありません。「主は今も生きておられる」ことを聖書は人々に知らしめているのです。シュネムという町に裕福な夫人がいました。主を恐れる敬虔な彼女は、主の預言者のために休憩所として自宅の一部を用意しました。神の人を敬い、ねぎらうと意外なことが起こり、人生が変えられます。創世記のアブラハム、士師記のマノア夫妻がそうでした。エリシャは夫人の親切に何か報いたいと思い、従者ゲハジに問うと彼女には子がなく、夫も高齢の為、子を持つ望みが無いことを知ります。そこでエリシャは夫人に一年後、男子を産むことを預言します。彼女の反応は「偽り(気休め)を言わないでください」というものでした。奇しくもアブラハムの夫人サラが、男子の誕生を預言された時と同じ反応です。「そうなったらいいね」というその場かぎりのなぐさめとして受けとったところ、妊娠・出産は現実のものとなり預言は成就します。望外の喜びに、戸惑いながらも主に感謝したことでしょう。しかし喜びが大きいほど後に起こる悲しみは大きいものとなりました。その子は健やかに成長していましたが突然、病気で死んだのです。彼女は愛する息子の死を夫に告げることもせず、悲嘆に暮れる間もなく単身エリシャの元へ急ぎ、「私を欺かないで下さいと言ったではありませんか」と訴えます。こんな辛い思いをするくらいなら初めから与えられなければよかった、と悲しみ をぶつけながらも、神の人なら何とかしてくれるという期待と信頼をもっているのです。彼女の懇願に折れて、エリシャは自ら子どものもとへ赴き祈り、子どもは息を吹き返しました。主は今も生きてご自身の栄光を現されるお方です。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2022-11-17 11:04:44 (156 ヒット)
メッセージ

「残るものは何か」列王記下4章1〜7節


エリシャの預言者仲間の家族が生活に困窮し、借金のかたに息子を奴隷にしなければならない状況でした。夫人はエリシャに助けを求めます。これと似たような場面が列王記上17章にあります。干ばつが3年続いていた時、心中しようとしている母親にエリヤが会って、最後のパンをもらってから瓶の油と壺の小麦が増えていった話です。神が遣わした預言者を敬う人を、主は見捨てられません。また律法には「夫を失った女性と、父を失った子どもを大切にしなさい」という教えがあります。相談にのったエリシャは「あなたの家に残っているものは何ですか」とたずねます。家財道具などはほとんどなく、油を入れる瓶しか残っていないというと、エリシャは近所からできる限り多くの器を借りて来るよう命じます。すると瓶から注がれた油はどんどん増えて、ついには借りて来た全ての器が油で満ちあふれる奇蹟が行われました。イエスさまも婚礼の宴で6つのかめの水が葡萄酒に変わる奇蹟を行いました。また5つのパンと2匹の魚から5000人に行き渡る食事を用意されました。困窮している人たち、人生の危機的状況に、主が関わることで祝福に変えられるという奇蹟なのです。油を売って借金を支払い、残りのお金で暮らして行きなさいと言いました。少し先の未来を考えると、残った油もやがてなくなることでしょう。イエス様の奇蹟でも、葡萄酒は飲み干して終わりました。目に見えるものはやがてなくなります。物質的なものは消えて行きますが、残るものがあります。なんでしょうか?信仰・希望・愛です。その中で最も偉大なものは愛です。信仰は残るものでしょうか?自然災害や家族の危機があるごとに心は揺り動かされます。目の前の困難と向き合い、神は状況を作り変えてくださる、いつかそれを用いられて祝福へと変えて下さると思うのが、信仰を働かせることです。主がして下さったことを思い出し感謝の心で、主に期待しましょう。 


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2022-11-11 11:57:52 (155 ヒット)
メッセージ

「主の言葉の真実」列王記下2章19〜3章20節


エリヤの後継の預言者としてエリシャは活動を始めます。今日の箇所では2つの奇蹟と1つの呪いが記されています。共通するのは「主はこう仰せられる」という神の御言葉が実現すること、主をあなどり蔑む者は罰せられるということです。「神を信じたところで何になるのか」「神以外にも頼るものはある」という慢心に対し、主の力が思い知らされる場面です。まずエリコの町では、場所はいいが水が原因の病気などでいのちが消耗する土地であることを人々が相談し、エリシャが塩を水源に投げ入れて清める奇蹟を行いました。その塩に強力な殺菌作用があったというわけではなく「わたしはこの水を清めた、もはやそこから死も不毛も起こらない」という「主の宣言」により、いやしときよめがもたらされたのです。その後、ベテルへ上って行きますが、そこでエリシャを嘲った子どもが42人、熊に襲われて死亡しました。ベテルはイスラエルの信仰にとって重要な場所ですが、ヤロブアム王によって金の子牛が安置され、偶像礼拝化が進んでいました。主の預言者に対するあなどりが人々にまん延していたことに対し、神の裁きが下されたのです。もう一つの奇蹟は涸れた地に水が湧き出るものです。アハジヤが病死した後、兄弟のヨラムがイスラエルを継ぐと、南ユダ王国のヨシャパテ王とエドムの王を誘い、3人でモアブを討とうとします。モアブ王メシャがイスラエルに貢物を納めなくなり離反したからです。しかし連合軍は回り道をしている間に、兵士や家畜に飲ませる水がなくなってしまいます。ヨシャパテが「主の預言者に伺いを立てよう」と提案し、エリシャに会うと 「(イゼベルの家系で偶像から離れない)ヨラム王には私は何の関わりもないが(主を恐れる善王の)ヨシャパテの顔を立てるために」と断ってから涸れた谷を水で満たし、モアブに勝利すると預言しました。主はイスラエルに勝利をもたらしましたが、それによって感謝も悔い改めもしなかったヨラムに対し、9章では裁きを行います。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2022-11-11 11:54:46 (148 ヒット)
メッセージ

霊の分け前」列王記下2章1〜18節


エリヤは後継者育成のため、弟子たちに御言葉を伝えていました。その預言者学校のような場で少なくとも50人ほどの者が学んでいました。エリヤが神に取り去られる日、神に示される場所へエリヤは一人で行こうとしますが弟子のエリシャはどこまでもついて行こうとします。預言者の仲間が「今日、主が先生を天に上げられようとしていることを知っているか」と聞きますが、「それは分かっているから黙っていて」と答える場面が2度あります。その後エリヤがヨルダン川を外套で打つと水が左右に分かれたので、エリシャと2人で乾いた所を歩いて渡りました。イスラエルの先祖、モーセとヨシュアの奇蹟を想起させます。エリヤが「別れの前に何なりと願いなさい」と言うと、エリシャは「あなたの霊の2つ分をわたしに継がせてください」と申し出ます。「二倍の分け前」とは長子の権利と同じです。50人以上いる弟子や預言者仲間の中で、わたしこそ後継者として認定して下さい、と願ったのです。エリヤは「わたしがあなたの元から取り去られるのを見るならばそのようになるであろう」それを決めるのは神様だ、と答えます。彼らが話しながら歩いていると突然、火の戦車と火の馬が現れ、エリヤはつむじ風に乗って天に上って行きました。天に上げられて死体が見つからなかったのは申命記のモーセの最期と同じです。ヨルダン川の対岸では預言者の仲間50人も心配してついてきていました。彼らはエリシャがエリヤの外套で川を打ち、水が左右に分かれて歩いて渡るのを見て「先生と同じ力が宿った、彼こそがエリヤの後継者だ」と認めます。エリシャが召命を受けた時(列王上19:19~)エリヤは着ていた外套を彼の上にかけました。自分の持ち物を与える行為で、神からの権威の継承を表したのです。信仰は目に見えないものですが、エリヤからエリシャへ、確実に引き継がれたのです。 


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