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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2015-08-24 22:10:06 (986 ヒット)
メッセージ

『神の痛み』 創世記22章
 アブラハムは大切な息子イサクを燔祭にせよと神に言われ、モリヤの山へ向かいます。この箇所から「最も大切なものを捧げることが信仰の表現である」と強調され過ぎると、神様の御心を取り違えることがあります。この箇所は死人のよみがえりを信じるアブラハムの神様への信仰(ヘブル書11章)と、神はそのひとり子を与えるほどこの世を愛される(ヨハネ3章)ことを示しています。アブラハムは愛息イサクを生贄に捧げる行為を通して、ひとり子を失う神様の痛みと悲しみを体験的に知ったのです。信仰者が通る道にもあらゆる痛みがあります。アブラハムが経験した痛みが神様の愛を証ししたように、私たちの痛みも主が通られた痛みとして経験するならば意味が変わってきます。素晴らしい体験や成功することだけが神様を証しすることではありません。イサクを殺すことは神様に止められ、アブラハムが目を上げてみるとすでに代わりの生贄の羊が備えられていました。苦悩し葛藤した後でないと気づかない恵みがあるのです。痛みの体験の中でも目を上げて、備えて下さるお方である主を知ることができますように。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2015-08-18 22:24:30 (1210 ヒット)
メッセージ

『神の憐れみ』 創世記21章1〜22節
 アブラハムとサラとの間に待望の男子イサクが誕生しました。健やかに育ち、乳離れ祝いに宴の席を設け家族でお祝いました。イサクにとって異母兄のイシマエルも同席し、幼子と戯れていたところをサラは見咎め、アブラハムにイシマエルとその母ハガルを家から追い出すように求めてきました。アブラハムにとってはどちらも我が子。サラの要求に頭を抱えました。その夜神はアブラハムに現れ、心配せずサラの要求通りにせよとおっしゃいました。翌朝、ハガルとイシマエルは僅かな糧食のみ持たされ追い出されました。荒野を彷徨う母子の手元にあった水もなくなり、後は死ぬに任せたまま。絶望したハガルに神様は再び声をかけられます。「わたしは彼(イシマエル)を大いなる国民とする」祝福の約束を再びいただき励まされたハガルは井戸を見つけ、九死に一生を得ました。イサクは神様の約束の子であり、イシマエルの誕生は神様のご計画ではなかったものの、神様はすべての人を顧み、慈しまれるお方です。私たちがどのような状況にあっても、神様の豊かな配慮の中で生かされることを覚えましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2015-08-09 16:33:53 (1015 ヒット)
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『父の役割』 創世記19:1〜14
二人の御使いがソドムに到着した時、ロトは敬意を払い旅人をもてなそうとします。この二人の訪問を見かけたソドムの人々はロトの家へ押し寄せ、「彼らをよく知りたい」と倒錯した性的関心により、旅人を出すように強要します。断ったロトを人々はひどい目に合わせようとしましたが、その前に御使いはロトを助けられます。新約聖書においては義人と称されるロトですが、悪に満ちたソドムの町で正しく生きていくことは易しいことではなかったようです。ロトは父の役割として家族を庇護し、扶養し、援助する働きが期待されますが、旅人を守ろうとして提案した方法は二人の娘をならず者らに差し出すことでした。今日の私たちはその方法を許容することは出来ません。神に背く乱れた世界に生きていく中で、義を行うつもりでその手段が間違ってしまう事があります。ロトは自分の力で旅人を守ろうとしましたが、神の助けなしにはわが身さえも守れませんでした。私たちは義を行おうとして混乱する時、人の愚かさや弱さを覚えます。
「私たちを試みにあわせず悪からお救い下さい」神に助けを祈り求めつつ歩もうではありませんか。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2015-08-06 23:12:44 (1044 ヒット)
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『わたしの友』 創世記18:16〜33
神はソドムとゴモラの町が悪に染まっているという叫びを聞き、その堕落ぶりが真実であれば滅ぼそうとされました。しかし、自問されます。「私のしようとすることをアブラハムに隠してよいであろうか」この問いから神とアブラハムは主人と僕、上司と部下のような関係ではないことが分かります。神はアブラハムを「わが友アブラハム(イザヤ書)」と呼んでおられます。神の裁きを知らされたアブラハムは「もし正しい者が〜人いるならば」と神に執り成しましたが、ソドムとゴモラには正しい者が10人もおらず、滅ぼされました。
 新約聖書において神は、滅びに向かっている世の人々を憐れみ、イエス・キリストの贖いを信じる者を救われます。イエス様の義のゆえに、信じる者全てが義とされたのです。そしてイエス様は私たちをしもべではなく友と呼び、大切な真理を隠さずにあきらかにして下さいました。
正しく生きていくことが難しい時、空しく感じる時、友として語りかけて支えて下さる神の御前に誠実に歩んでいこうではありませんか。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2015-08-06 23:11:11 (1057 ヒット)
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『神が定めた時』 創世記17章
神の声に従ったアブラムも99歳となりました。再び神はアブラムに祝福の約束を語られます。この度は契約のしるしとして名前の変更と割礼を受けるように命令されました。そしてサラが子供を産みイサクと名付けよとおっしゃられました。アブラハムは神のことばを聞いて心の中で「100歳に子供が出来るものか。サラにしても90歳で子供を産むことなど出来ようか。」と笑いました。最初の神の語りかけから20年以上過ぎた。もはや期待できない。自分たちに子供が出来る可能性はないと思ったのでしょう。しかし、神はサラからの子供の祝福を約束され、アブラハムの不信仰を咎めずイシマエルをも祝福すると約束されました。アブラハムは神のことばを信じ、その日のうちに一族の男子に割礼を施しました。信仰の弱い者を見捨てられない神は約束を笑うサラにも語りかけられます「神に不可能なことはありません」人が時を失ったと思えるようなことでも実は神の時は近づいていることがあるのです。人の弱さをご存知である神は励ましを与えて下さいます。私たちの小さな信仰を憐れんでくださるお方に感謝をおささげしましょう。


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