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投稿者 : ryokos2004peter 投稿日時: 2012-09-28 20:01:27 (1104 ヒット)
メッセージ

『栄光を帰する』


 私たちの人生の目的は、神様と永遠に交わる事であり、神様に栄光を帰すことである。それは、罪人であった私たちを、イエス様の十字架をもって買い戻して下さったからである。


私たちは、主の十字架によって救われ、食物など様々な規定から解放されているが、キリストと一体とされているのだから、好きなようにふるまうのでなく、不品行を避けるなど、主の栄光を現わす者として、生きることが大切である。

 ‘栄光をあらわす’とは、立派な、成功者であることばかりが、‘栄光’と言えない。パウロは、自分がみじめな状態になっても、キリストがあがめられる事を願った。私たちが、どんな状況の中でも主を喜び、仕えているならば、それを主は喜んで下さるし、人はそこに主の栄光を見るのである。       コリント第1、6:1920


投稿者 : ryokos2004peter 投稿日時: 2012-09-21 19:41:53 (1090 ヒット)
メッセージ

『主に生かされている』


詩篇113〜118篇は、巡礼の詩で、イスラエルの人々が礼拝に行く時、歩きながら朗読したり賛美したりした詩である。イエス様もご自分の十字架を見据えて、ゲッセマネに向かう道で、死と復活を預言されているこの箇所を弟子たちとを朗読された。

私たちの人生も様々な苦しい所を通る。しかしその苦しみの中から、主を呼び求めると、主は答え、私たちを‘広い所’へ導き、その御名によって解放して下さった。主はどんな時も、主のみ名を呼ぶ者の味方である。

 苦しい時に死んだ方が、楽だと思う事がある。しかし私たちは、主に‘生かされている’と言う事を忘れてはいけない。生かして下さる主に感謝し、『私は死ぬことなく、かえって生き、そして主のみわざを語り告げよう』と言われるように、主を証ししつつ、歩んでいきましょう。 


                                 詩篇118篇


投稿者 : ryokos2004peter 投稿日時: 2012-09-14 20:48:28 (1093 ヒット)
メッセージ

『たましいを覚える』


イエス様は、常に祈りをされた。神の子だから祈らなくていいわけではなく、静かな所に退き、祈られた。特に大切な時の前には、神様のみ心を仰いで祈られた。ここは、12人の弟子を選ばれる前であり、十字架を目前にした時は、ゲッセマネの園で祈られた。

私たちは、ともすれば自分のことばかり祈っているが、イエス様は、宣教のため、たましいひとり一人のためにとりなして祈っておられ、十字架の上でさえ、罪人のとりなしを祈られた。

私たちが救われたのも、イエス様にとりなしていただいたからであるし、とりなして祈ってくれた先生や家族などがいた。大きな働きはできないかも知れない。しかし主に倣って、たましいを覚えて、とりなして祈りたいものである。主はその祈りを喜んで下さる。   

                              ルカ6:1219


投稿者 : ryokos2004peter 投稿日時: 2012-09-07 17:14:23 (1129 ヒット)
メッセージ

『安息日を覚える』


安息日を覚えて、これを聖とせよ』は、ユダヤ人たちが、厳格に守っている教えで、神様を礼拝する日である。イエス様も安息日には、会堂でみ言葉を朗読されたりした。

しかし、ユダヤ人たちにとって、安息日が単なる儀式化されたものになり、イエス様が安息日に、病んでいる人を癒したことをとがめる場面もあった。安息日と言うのは、神様の事を想い、神様の前に良い事をする日であるはずである。

私たちは、イエス様が復活した事を記念して、日曜日に礼拝をしているが、ともすればユダヤ人のように‘いつもしているから’と言う儀式化された礼拝になってしまっていないだろうか?6日の間、労働をし、7日目は主の前に出て、心を主に向けて、心から主を思い、たましいの‘安息’を頂きましょう。    


                             マタイ12:1〜8


投稿者 : ryokos2004peter 投稿日時: 2012-09-01 13:14:03 (1090 ヒット)
メッセージ

『主と共に生きる』


私たちは、世の終りに近い時を生かされている。福音書にも、‘その日は盗人が来るように’やって来る、と書かれている。クリスチャンであっても、「自分はダメではないか?」と不安になる人がいる。

私たちは、イエスキリストの十字架によって、罪赦され、救い出された者であるから、光の子であって、闇の子ではない。今は、主と共に生きる者とされている。信仰により、そこにしっかりと立たないといけない。

‘ほかの人のように’とは、世の人を意味していて、霊的な事に無感覚な人である。私たちは、‘光の子’として、目を覚まして、主と共に生きる者でありたい。そして、自分さえ信仰を守っていればいいのではなく、それぞれに与えられている使命を全うし、励まし合って生きる教会としていただきましょう。     


                            テサロニケ。機111


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