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投稿者 : ryokos2004peter 投稿日時: 2015-01-23 19:41:41 (1214 ヒット)
メッセージ

淡路聖会
『天が開かれている人生』 使徒7:54〜60
和泉神愛キリスト教会牧師 平松 慶次師
 聖霊が教会に注がれて、教会は、成長していったが、大変な迫害も起こった。ステパノの殉教もその一つである。しかし、彼は「天が開けて‥」イエス様の姿を見て“死が終わりではない”事が分かった。だからこそ、自分を殺そうとする者たちのために、とりなして祈る事が出来た。

 基本的に、人を自分の力で赦す事はできない。聖霊に満たされることでそれができる。聖霊の本質は、神様の愛に満たされることである。

 愛の本質は、罪の赦しである。私たちの罪をイエス様が、十字架により引き受けて下さった。私たちの力では難しくても、聖霊により、1つになり赦し、受け入れあう事が出来る。私たちの地上の人生は短い。私たちの国籍は天に開かれている。主を見上げ、聖霊に満たされていきましょう。


投稿者 : ryokos2004peter 投稿日時: 2015-01-09 19:30:53 (1050 ヒット)
メッセージ

『さらに力を受ける』
   ペテロは、聖霊が注がれ、イエス様を否んだ同一人物とは思えない程、大胆にメッセージを語った。旧約の中では、特別な人が特別な時に‘霊が臨んだ’が、ヨエルが預言した通り、「すべての人に注がれる」時がきた。そこには、老若男女、立場の違いの差別はない。
 
   聖霊は、私たちに罪を認めさせ、あらゆる真理を理解する力を与える。高齢になると新たに“夢を持つ”事は難しいと感じる。しかし聖霊により、力が注がれ、主にある期待が生まれ、若者には、将来に対する幻が与えられる。
   
   コンサートの時、わたしたちには、わずかな力しかなかった。しかし主は、多くの人を送って下さった。私たちのうちに聖霊が働いて下さるなら、そのわずかな力で、さらに大きな力へと変えられる。私たちのうちに主の偉大なみ業が興されるように、祈りましょう。   
   使徒 2:17〜21


投稿者 : ryokos2004peter 投稿日時: 2015-01-03 15:16:37 (1197 ヒット)
メッセージ

『主と出会う礼拝を目指して』
 創世記の始めから、人は罪のため神様から離れる事もあったが、‘主の名を呼び’礼拝をしてきた。旧約時代には、律法の規定に従っていたが、その心は伴っていなかった。
 

罪に乱れた生活をしていたサマリヤの女にイエス様は、出会って下さった。イエス様は、‘厳しい’所も指摘されたが、大切なのは、永遠の命に至る水を与える方を礼拝する事である、と教えられ、彼女の人生は、一変する。

 慣れと言うのは恐ろしい。私たちもユダヤ人たちのように、形ばかりの礼拝をしていないだろうか?“霊とまこと”をもって、“イエス様に出会う”礼拝をしたいものである。主は、毎週,否、真心を向ける時いつも、み言葉や祈りの中で、出会って下さるのである。
         
ヨハネ福音書4:19〜26


投稿者 : ryokos2004peter 投稿日時: 2014-12-26 18:12:17 (1407 ヒット)
メッセージ

『み心にかなう者』
王として、救い主(メシヤ)として、遠い昔から預言されていたイエス様の誕生は、主人公として大歓迎されて良かったハズである。しかしヨセフとマリヤには、馬小屋しか泊まる所がなかった。

“救い主の誕生”と言う最高のニュースは、本来、研究して知っているはずのユダヤ人や学者たちにではなく、社会にも忘れ去られたような羊飼いや異邦の博士に知らされ、祝われた。『キリスト』と言うのは、‘癒す神’も意味し、主イエスキリストは、私たちの病を癒し、たましいの苦しみから解放するために来て下さった。

「自分たちは選民」と誇り高ぶる人たちは退けられ、あえて弱く、へりくだった人を、主は顧みて下さった。クリスチャンだから、と言って高ぶってはいけない。へりくだって神様に近づき、《み心にかなう人》にして頂きたい。  
ルカ2:8〜20


投稿者 : ryokos2004peter 投稿日時: 2014-12-19 18:36:39 (1265 ヒット)
メッセージ

『受肉のキリスト』
 『はじめに言があった』と、創世記の天地創造と似た文章で始まっている。“言”と言うのは、人格を持った神様であり、その言葉によってすべてのものを創造されたことを表している。この“言”は、三位一体の神様であり、イエス様も創造の時から働いておられたことを示している。

ヨハネ福音書には「私は〜である」という文が多く出て来て私たちにとってどんな方であるか、
がよく表されている。真理、光、道、命と私たちの見るべきイエス様の姿があり、信仰の中心的な事が教えられている。

イエス様は、私たちの罪のあがないのため、十字架にかかるために‘あえて’肉体を取られた‘まことの光’である。クリスマスの本当の意味を知らない人は多い。しかし私たちは、肉体を取って来られた主に心から感謝しよう。 
ヨハネ1:1〜14


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