『恵みに生きる』
あちらこちらで戦争があるが、私たち自身の周りでも、大なり小なり争いがある。それは、お互いの争いであれ、自己との争いであれ、私たちの内側を活発に動き回る欲望が原因であると言える。
食欲など、無くては困る‘欲’もある。しかし、自分の快楽のために、悪い動機で願う祈りを聞かれないのは、主が、私たちに、真に求めるべきもの、真の満足、真の平安を与えようとしておられるのである。そして、私たちを‘ねたむほど深く’愛し、豊かに恵みを与えて下さる方である事を、私たちは、知るべきである。
私たちは、これほど大きな恵みを下さる主に従い、悪魔に立ち向かいましょう。そして、罪を犯したなら、熱心に悔い改め、神様に近づきましょう。主はへりくだる者を高く引き上げて下さいます。
ヤコブ4:1〜10
『知恵のある者』
これまで、行いのない信仰はむなしい。とヤコブは、その人の心の思いが行動となって現れる、と語って来た。言葉もそのうちであるが、‘口は災いのもと’と過ちを犯しやすい器官でもある。
ヤコブは、知恵について、‘上からの知恵’と‘地や肉に属する偽りの知恵’があるという。偽りの知恵は、ねたみや党派心から出て、混乱や忌むべき行為に発展する。それに対し‘上からの知恵’は、清さ、平和、寛容、温順などで、私たちに良い実を結ばせる。
『知恵がある人は、・・柔和な行いをよい生活によって示す』ように語られている。しかし自分の言葉を制し、‘上からの知恵’を持つためには、私たち自身の努力では持ち得ない。主に助けられ、み霊に満たされて、頂くことが出来る。主にその力を頂きましょう。
ヤコブ3:13〜18
『洗足の教え』
イエス様がいよいよ十字架に向かって、進んで行かれたが、その前に弟子たちに対して、‘その愛を残るところなく示され’彼らの足を洗われた。これは汚れた足を洗うという僕の役割で、弟子たちは非常に驚いた。
イエス様は上着を脱ぎ、ご自分がこれから僕となって、十字架上で命を明け渡される事を表された、ペテロは、足だけでなく、手も頭もと差し出すが、弟子たちも私たちも、イエス様を信じ、洗礼を受けすでに清められている。しかし世の波に揉まれ、過ちを犯し悔い改めるべき時には、主の前に足を洗うように、悔い改めなければならない。
イエス様がお手本を示して下さったように、互いに足を洗うように、貧しい者を顧み、受け入れ、愛し合う事を、主は望んでおられる。
ヨハネ13:1〜12
『主はぶどうの木』
イエス様は、ぶどうの木と枝の譬を用いて、枝である私たちがイエス様に繋がっているべき事を教えられた。イスラエル民族は、元々‘純良種のぶどう’に譬えられていたにもかかわらず、背信行為を重ね、神様から離れた状態に陥ってしまった。
私たちも過去には、神様から遠く離れた罪人であった。‘罪’と言う言葉は、『的はずれ』を意味する。もし人が、的に当てようとするなら、体制を整え、必ず当たると信じて、しっかりと的を見なければ当たらない。
私たちの心を惹くものがたくさんある。しかし心を向ける方向を間違えないように、しっかり主を見つめて、主に繋がっていましょう。そうするなら主は私たちが‘実を豊かに結ぶようになる’と言われる。主を信じ、魂の栄養となるみ言葉によって、養われて、成長させていただきましょう。
ヨハネ15:1〜5
『とりなして祈る』
百卒長(百人隊長)のしもべが重病のため、死にそうだ、とイエス様の元にユダヤ人の長老を通して助けを求めてきた。百卒長と言えども、ユダヤ人にとっては‘異邦人’である彼は、「屋根の下にあなたをお入れする資格もない」とへり下って、ただお言葉だけを求める。
彼は、イエス様を病にも死に対してもメシヤとしての力を持った方と認めて、またみ言葉だけで、み業を成し遂げる権威を持った方と信じる信仰があった。イエス様は彼の信仰を称賛された。
この僕は、癒されたわけであるが、当の本人は登場していない。僕の事を思い、イエス様に礼を尽くしてとりなし、癒しを求めた百卒長の祈りがあった。私たちにも、家族や友人など、とりなして祈るべき人がいるのではないだろうか?イエス様は、十字架の上で私たちのために、とりなして祈って下さった事を忘れないでいたい。
ルカ7:1〜10