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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2021-06-18 09:42:47 (41 ヒット)
メッセージ

「イエス・キリストの名」(使徒行伝3:1〜10)
この箇所では一人の人がいやされ、神を賛美しつつペテロとヨハネと共に宮に入って行きました。それまでの境遇は違うけれども同じ神の子とされ、共に神を賛美しながら歩む姿が教会と似ています。この生まれながらに足が不自由だった人は、毎日他人の力を借りて「美しの門」に運ばれ、人に施しを受けながら暮らしていました。自力では礼拝をささげることができない、旧約の規定により(「誰でも身に傷のある者は近寄って神の食物をささげてはならない‥」レビ21:17〜20)神に近づくことが「はばかられ」宮から遠ざけられた門の所に置かれていたこの人は、自分は神の祝福から除け者にされているように思ったことでしょう。ペテロとヨハネの言葉によりいやしの御業が起き、周りにいた人々は「足の不自由な人は鹿のように飛び走り‥(イザヤ35:3〜6)」と預言された通りのことがペテロとヨハネという自分達とたいして違わない人によって成されたことに驚き、あきれてしまいました。ペンテコステの日と同様、聖霊の御業に触れて神を賛美しほめたたえる者と、それを目撃して驚きあやしむ人々と分かれたのです。人々はこの奇蹟が何の力によってなされたのか知ろうとしました。この病いの癒しが、個人の資質や信仰の熱心さによるものであるならば多くの人は失望するでしょう。なぜなら私たちは常に信仰に燃えているわけではなく、律法を守るためのコンディションがいつも十分であるとはいえないからです。しかしペテロとヨハネが持っていたのはイエス・キリストの御名でした。それは金銀のように分け与えたら減ってしまうものではなく、与えても与えても尽きることのない、金銀にまさる力でした。「主の名を呼び求める者は救われる(ヨエル2:32)」それはどのような境遇の者であろうと、自分自身に立派な信心はなくても、救いを成し奇蹟をされるのはイエス・キリストの御名に力があるからだと、この出来事は教えています。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2021-06-18 09:39:31 (36 ヒット)
メッセージ

「神の御前に立ち返る祈り」(使徒行伝2:14〜21)
ユダヤ人は五旬節は熱心な、敬虔な信者が世界中から集まり、律法を与えられたことを感謝する祭りでした。聖霊に満たされた者が口々に外国の言葉で神を誉めたたえ始めたのを見た人々の中には、酒で酔っ払っているとあざける人もいました。旧約聖書の中では異言を語るという現象は記されていません。神の臨在・聖霊の働きの象徴として炎や風が用いられることはあります。また過去に神の御霊なる聖霊に満たされた人々が預言を語る(民数11:25、26)こともありましたが、歴史的な事柄が目の前で起こっているとは思いもよらなかったでしょう。そこでペテロと弟子たちは立ち上がり、これは神が預言者ヨエルを用いて語られた預言の成就であると話しました。ヨエルの時代、自然災害やいなごによる農作物被害で完膚なきまでに叩きのめされましたが、神は回復と復興を約束されました。そして神が御霊を注ぐ前に促しているのは心からの悔い改めと(ヨエ2:12-14)皆で集まってきよめをし、礼拝をささげる(ヨエ2:15-17)ことでした。ペンテコステの日に聖霊が注がれたのは、これらの条件も満たされたからでしょう。イエス・キリストを信じ、従わんとする人々が一所に集い、心を裂くようにへりくだって神に立ち返るため祈りに専念していたところに、神の預言・イエスの約束の聖霊が注がれたのです。この出来事は)過去のことにとどまらず、今、私たちも体験することの出来る約束と受け止めましょう。断食、涙、嘆きによる悔い改め、それらはできるだけ遠ざけたいものかもしれません。しかし心が頑なで高慢であると、私たちの心に臨もうとする聖霊を拒み続けることになります。神はへりくだって近づこうとする者、心を開き神を求める者を喜んで迎え入れてくださるお方です。神の息が死体の上に吹いた時に新しいいのちに満たされたように(エゼキエル37:9-14)、聖霊の風は砕かれた魂が体験し得る恵みと新しいいのちの喜びをもたらすのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2021-05-28 10:00:15 (67 ヒット)
メッセージ

「父の約束(聖霊)を待つ」使徒1:3〜11 復活のイエスは弟子たちの前に40日の間姿を現され神の国について、聖書に記されているキリストの受難と復活について教えられました。そして非常に念を押されたのが「父の約束(聖霊)を待て」ということでした。そのため都に留まっていなさいというのです。弟子たちは何か特別なことがあると期待し、イエスに「イスラエルの復興はこの時ですか」と質問します。弟子たちの関心は今でも目に見える形でイスラエルが宗教的・政治的独立を果たすことが願いなのです。天の父が大権を行使され、いずれその時が来るだろう。しかしその時がいつかはあなた方の知る限りではない。分かっていることは聖霊が降る時、あなたがたは力を受ける。あなたがたは証人となる、とイエスは告げられ弟子たちの見ているところから天に引き上げられました。唖然とする弟子たちに御使いが声をかけられ、イエスの再臨を予告されます。弟子たちはイエスが目に見えなくなり、触れる形で会えなくなったことに動揺することはありませんでした。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。見えなくても信じる者は幸いである」「お言葉通り、この身に成りますように」神の御霊なる聖霊が降ることを期待し、イエスの教えに忠実に従い熱心に祈り続け、やがてその時を迎えるのです。「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ28:20)御霊が注がれる時、主の臨在を感じ、また主の言葉(約束)は本当だったという喜びがあふれ、力に満たされます。生き生きとして信仰の道を歩むのを助けて下さる聖霊、助け主を求めてまいりましょう


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2021-05-21 09:57:37 (59 ヒット)
メッセージ

「主の前に心を注ぎだし」サムエル記上1章
エルカナにハンナとペニンナという2人の妻がいましたが、ペニンナは嫉妬しハンナに嫌がらせをしていました。アブラハムの妻サラとハガル、ヤコブの妻レアとラケルのように聖書では昔から夫の心を自分に向けるための女性たちの争い、苦悩が記されています。ハンナは自分に子どもがいないことをひどく悲しんでいました。エルカナはハンナの気持ちを知り、自分なりに愛情表現をしていましたが、それは彼女のなぐさめとはならず、悩みのゆえに食事が喉を通らなくなるほどでした。ハンナは主の前ではげしく泣き、誓願を立てます。もし自分に男の子を授けて下さるなら、神にとって役に立つ人物としてこの世に送り出す、と。神殿で長く祈っているハンナの様子を見て、祭司エリが声をかけ理由をたずね、「安心して行きなさい、神があなたの願いを聞きとどけられるように」と言います。主の御前で心を注いで祈る、というのは、耳障りのいい優等生的な祈りを口にするのではなく、悔しい気持ちや恨めしい気持ち、怒りや失望やあせりなど、全ての心の内を神様に知っていただいた上で、神に受け入れられるプロセスを経験することです。夫のどんななぐさめの言葉も届かない、心の深い所に神は触れて下さったから、エリの言葉を通してハンナは神にゆだねる信仰を与えられ、平安を受け取って帰り、食事をし、その顔から憂いは取り去られたのでした。彼女の周囲の状況は相変わらずでも、ハンナの内面(心)が変えられたのです。「何事でも神の御心にしたがって願うなら、神は聞いて下さるということ、これこそ神に対して私たちが抱いて)いる確信です」(ヨハネ5:14)神は私たちの心からの祈りを聞かれることによって、ご自身のすばらしいご計画の中で私たちを生かそうとされるのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2021-05-13 11:20:36 (66 ヒット)
メッセージ

「あなたがたは証人である」 ルカ24:44〜53
復活のイエスは律法と預言書と詩篇、つまり聖書全体からキリスト中心の聖書観を伝えられ、弟子たちはそれを信じることが出来ました。たちまちのうちに全てを理解出来たというわけではなく、父が約束したもの(聖霊)を授けられ、信じる者の内に働かれ(御言葉を思い起こし、気づきを与えられる等)様々な経験を重ねながら信仰生活を守って行く中で、真理を理解することが出来たのです。イエスが弟子たちに姿を現した時、その場に居合わせなかったトマスは「見なければ信じない」と言いましたが、そのトマスの前にイエスは現れ「見ないのに信じる者は幸いである」と言われました。キリストが十字架にかけられたのは神のご計画によるものでした。墓に入れられ三日目に栄光の体をもって主はよみがえられたのだと信じることが出来たのは聖霊の働きによるのです。イエスは「あなたがたはこれらのことの証人となる」と言われました。そのために聖霊を贈る、上からの力を注ぐまで都(エルサレム)で待っていなさいと。「律法(主の教え)はシオンから出、主の言葉はエルサレムから出る」(イザヤ2:3)復活の主の顕現は、歴史的にみればユダヤ教からキリスト教への転換点となったのです。「世の終わりまであなたがたと共にいます」イエスの姿は目に見えなくても、インマヌエルの主の御霊が共にいて力強い証人となった弟子たちにより、罪の赦しを得させる悔い改めがキリストの名によって全世界の人々に伝えられたのです。


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