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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2022-05-12 14:08:39 (68 ヒット)
メッセージ

「滅びに至る道がある」ペテロ2章1〜3節
イエスは言いました「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハネ14:6)この世の人々は「それはひとりよがりだ。行き着く所は一つかもしれないが、そこに至る道はたくさんある」と言います。たしかにスポーツや芸術や武道のパフォーマンス、文化的・身体的活動の高い境地に至るまでの方法はたくさんあります。しかし「人それぞれのやり方でいい」というのは、罪の赦しと永遠のいのちに関しては当てはまりません。なぜなら間違った方法、滅びを招く道があるからです。罪の前に無力で愚かな人間は、真理に私的解釈を施し、利益を得る手段として宗教を用います。いつの時代もどの地域にも、色々な宗教に形を変えて、また初代教会にもすでに間違った教えとして入り込んで人々を惑わしました。全ての人を救うための真理は、永遠かつ普遍的なものです。ある時代の人々、才能のある人々だけに当てはまるものであってはなりません。神の救済方法は、神のひとり子であるイエス・キリストの十字架の犠牲によるあがないと復活を信じる、という方法だけです。永遠のいのちに至る道(真理)は一つです。人間は迷いやすい愚かな生き物です。これかあれか迷い、悪意のある人の言葉に簡単にだまされたりします。ゆえに主はシンプルに「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と教えて下さいました。死の間際にあったとしても主イエスを信じ告白した人は救われる、これが神が与えて下さった罪の救済法の解答です。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2022-05-05 20:22:07 (47 ヒット)
メッセージ

「新しいいのち」ヨハネによる福音書21章
よみがえられたイエスは何度か弟子たちの前に顕現されました。イエスはガリラヤで3度目に姿を現されました。大漁の奇蹟は弟子たちの召命を思い出させます。イエスの復活後、弟子たちはどんな心境だったでしょうか。神の栄光の素晴らしさに対し、イエスを裏切り、ユダヤ人を恐れてイエスの仲間ではないふりをして過ごしていた弟子たちは、情けなさと主に対するとがめでいっぱいだったことでしょう。将来に対する不安もさることながら、イエスに従っていたのに何も学んでいなかった自分はいったい何者なのか、これからどう生きていったらいいか分からない、と思ったことでしょう。イエスは、ペテロに「わたしを愛するか」と3度問います。ペテロは十字架も復活も、三度予告されても理解できず、三度イエスを「知らない」と公衆の前で否みました。イエスからの問いかけに心が痛んだペテロでしたが、多くの失敗をなじられたわけではなく、「わたしの羊を飼いなさい」と使命が示されました。そして「他の人があなたの帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行く」というのはペテロが殉教する予告でもあるし、「今までは自分勝手に生きて来たけど」自分が願うような生き方ではなく、神様が願っておられる新しい人生を歩むということなのです。「あの人はどうですか?」今までどちらが抜きん出ているかと競争していた人達が今後どう用いられるのかを気にして、今までの価値観で「わき見」してしまいますが、漠然としていた未来に対して主は新しい目的を与えられたのだから、それが分かったのならただ主を真っすぐ見続けて歩めばよいのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2022-04-29 21:03:37 (50 ヒット)
メッセージ

「彼らは復活を理解していなかった」ヨハネ20:1〜10
十字架からおろされたイエスの遺体は、アリマタヤのヨセフとニコデモによって葬られました。没薬など死体防腐剤をほどこして亜麻布で巻き、墓に納めました。その日の夕方からユダヤ人は安息日に入るため、ゆっくりとお別れの儀式ができなかった女性たちは安息日が明けると、自分たちなりのとむらいをしようと準備していた香料を持って朝早くから墓に行きました。しかしイエスの遺体がなかったので、ペテロとヨハネに知らせました。二人の弟子は墓をのぞき、遺体がなく亜麻布だけが置かれている不自然な状況を見ました。誰かが遺体を辱めようと運んだにしても、香料でべたべたした遺体だけを取り出して盗むのはあり得ないことです。ヨハネは「そして見て、信じた。(しかし)彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである」と記しています。イエスは生前「多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえる」とはっきり予告されていました。マタイ16章(21節)、17章(22.23節)、20章(18.19節)と三度も死と復活を予告していましたが、弟子たちは聞いてはいたが、その重大さを理解していませんでした。神のご計画の中で、救い主の絶対の条件は、人の罪の身代わりに十字架で死に、復活することです。それは旧約聖書のいたる所で預言されていることです。イエスの言葉を聞いて「主がそうおっしゃるなら信じます、でも何故?」と納得できない、その時は分からないことも、復活のイエスと出会い、信仰の経験を積み重ね、聖霊を受けて心の目が開かれて、後からふりかえって「こういうことだったのか」と理解できるのです。「知っていたらあの時ああしていたのに」と後悔することはよくありますが、それは後から理解が追いついて思うことです。イエスがこの世に来られた目的は、罪人を救い、永遠のいのちを与えるためです。それを「私のためだったのだ」と理解できた時、人生が変わるのです。復活された主を信じて、感謝と喜びの生涯があることを知ることができますように。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2022-04-22 11:17:19 (55 ヒット)
メッセージ

「ペテロの否認」マタイ26:69〜75
「指導者は皆の模範となりなさい」と聖書にありますが、後に指導者となるペテロがイエスを知らないと3度も否認した出来事は、教会が権威主義的に人々を支配しようとするなら都合の悪いことです。信仰の模範となるべき偉大な指導者の失敗(弟子ではないと嘘をつき、主に従いますと宣言したのに裏切った)に幻滅する人もいるでしょう。信徒の支持を失い、つまずきとなることは隠ぺいしてしまうのが当然のように思われます。しかし聖書は、指導者たち(モーセ、ダビデなど旧約の時代からペテロに至るまで)の人間的な弱さ、欠け、恥を隠そうとせず伝えています。それは人間の愚かさや汚さなど全て承知の上で神の子は受け入れ、愛され、身代わりとなって死なれた、十字架の犠牲は人の罪のゆえなのだということを伝えるためです。ペテロはイエスが公生涯の活動を始められた頃からの弟子でした。イエスについていった理由、動機はこれだと明言することはできませんが、イエスのもとで偉くなりたい(世に影響力を持つ人物になりたい)という目標、目的などがあったことでしょう。しかしイエスが捕らえられたところで夢は破れてしまい、これから師も自分もどうなるか分からない、この先を見届けたいという思いから大祭司の屋敷の中庭で議会の成り行きを見守っていました。そこで「お前も仲間だろう」と指摘された時、自分の未来や自由、願望や利益とイエスのことをすばやく天秤にかけた結果が「イエスなんて知らない」という答えでした。この事は4福音書すべてに記されています。後にペテロ自身がこのことを正直に語り、教会はこの使徒を完全無欠な聖人として神格化するのではなく、受難物語の一端として語り伝えられました。どんな失敗をした者でも、再び立ち上がらせることができる、十字架と復活は全ての人にとっての福音なのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2022-04-15 09:14:36 (101 ヒット)
メッセージ

「思い出せるように」ペテロ脅蟷罅1:12〜21
過去の記憶はより強い感情とともに残るものです。辛くて大変な時、どうしたらいいか分からない時、声をかけられ助けられ励まされた、嬉しかった事があるでしょう。また肉体の痛みの記憶は薄れても、心の痛みや悲しみ怒りといった感情は残るものです。しかし過去をどうとらえるかで受け取り方が変わり、同じ出来事でも意味が全く異なって見えてくることがあります。決定論と目的論という考え方があります。決定論とは「何か」「誰か」に依存するとらえ方で、一つの結果には複数の要因が重なるものなのに「時代が悪かった…あの人のせいだ‥」のように1つ2つの理由を選び、その責任にするのです。それに対し目的論とは、自分が定めた目的・目標の結果として、起こった出来事を引き受けるというとらえ方、誰かを責めるのではない主体的な考え方です。さてペテロは、苦しい状況でも神の恵み(罪の赦しと永遠のいのち)を繰り返し「思い出せるように」と励ましています。自分が地上から居なくなっても今まで語ったことは聖書に基づいたものだから、思い出して信仰に結びつけるようにと。信仰の豊かさとは、恵みの経験の積み重ねです。確信をもって信仰の証しができるのは、御言葉がより処だからです。キリスト者の幸いは御言葉に裏付けられた人生の目的が分かっていることです。ところが自分の価値観にそぐわないために御言葉を自分勝手に解釈したり、私的利益を優先するため真理を曲げて教える人々が現れ出しました。そのためペテロは「聖書の預言を自分勝手に解釈するな」と警鐘を鳴らします。自分の願いや利益のため生きるのではなく、神の愛、キリストの恵みに生きるのです。


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