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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2022-11-04 10:29:34 (46 ヒット)
メッセージ

「あなたの神はどこにいるのか」列王記下1章


アハブ王は戦死し(列王上22章)、その子アハジヤが後を継ぎました。カルメル山で神の火が下りいけにえを焼き尽くし、バアル・アシェラ預言者たち850人がキションの河原で殺されたという大きな出来事も、アハジヤにとっては遠い過去の記憶として自分には関わりのないことだと思っていたのでしょう。「アハズヤは主の目に悪とされる行い、バアルに仕え、イスラエルの神、主を怒らせた」とあります。アハズヤは屋上の部屋の欄干から落ちてけがをしてしまったため、「私のケガが治るかどうかバアル神のもとへ行ってうかがって来なさい」と使いを出しました。そこで主はエリヤに「バアルのもとにうかがいを立てに行くとは、イスラエルには神がいないためなのか。それゆえ、アハズヤは必ず死ぬと使いの者に言いに行きなさい」と告げ、エリヤはその通りにします。アハズヤは使いの者からそれを聞くと50人隊をエリヤのもとへ送り捕らえようとしますが、エリヤは「私が神の人であれば、天から火が降り、あなたと部下50人を焼き尽くすであろう」と告げ、本当に火が降り、隊長と50人が焼き尽くされました。そのことで神へのおそれを抱くこともなくアハズヤは再び50人隊をエリヤのもとへ送り出しますが、同じように天から火が降り50人隊が焼き尽くされました。3人目の50人隊の隊長はエリヤの前にひざまずき懇願したため、命は助かりました。アハズヤはエリヤの告げた主の言葉通りに死にました。「あなたの神はどこにいるのか」という問いは、主に背いた悪王だけでなく、聖書に登場する預言者たちも、エリヤにも向けられる問いです。誰からも理解されないと孤独になり、華々しい奇蹟が行われたのは昔話で、自分の人生に神は介在しない、という思いに陥ってしまいがちです。私たちも神を思い出すのは困った時だけ、ということはないでしょうか。主は今も生きておられ、力強い御手で私の人生にも、今日も働きかけて下さることに感謝し、日々礼拝をささげましょう。 


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2022-10-29 14:47:03 (43 ヒット)
メッセージ

「アハブの罪」列王紀上21章


列王紀20章でアラム(シリア)との戦いで2度大勝利を主からいただき、イスラエルの神の力を知ったアハブでしたが、神の御旨を違え、勝利を自分の報酬としました。預言者が遣わされ、それを咎めたところアハブは非常に不機嫌になったというエピソードがありました。さてアハブの宮殿のとなりに良いぶどう畑があり、これまでの習慣から土地を売買するか、交換するか持ち主ナボテに交渉しましたが、「先祖からの嗣業(イスラエル部族のゆずりの地)のため譲ることはできません」と信仰上の理由から断ってきました。これ以上は無理にとは強いて言えず、アハブ王は悲しみ、かつ激しく怒って(非常に不機嫌になり)食事もせず、ふて寝していました。そこでイゼベルの登場です。ナボテが信仰を盾に断ってきたというのなら、その宗教と政事の習慣を用いたらよい、と謀略をめぐらし、ナボテが神と王を冒涜したとならず者に偽証させ、イスラエルの戒律に従ってナボテを石打にして殺害させ、その土地を王の権限により接収させたのです。望んでいたナボテのぶどう畑の土地を手に入れようとしましたが、後ろめたさはあるアハブ王のもとに今度はエリヤが登場します。今まではアハブがエリヤを召し捕らえるよう探す方でしたが、いよいよ神の裁きの宣告の時が来たため、エリヤの方からたずねて来たのです。アラムとの戦いで、真の神は生きて働かれるイスラエルの主であると認めざるを得ない経験をしたにも関わらず、イスラエルでは自分が一番であり何でも思い通りにしようとする高慢の罪のため、ついに神はアハブ王とその家に対する裁きを宣告されます。しかしそれを聞いて何とアハブ王は悔い改め、それを見られて神は「思い直された」のです。しかし数々の奇蹟を目の当たりにしながらも神を恐れない行為をしてきたのは赦されない罪であり、アハブ王自身が生きている間は裁きの執行を猶予する、というものでした。アハブ王の罪の原因は何だったのでしょうか?何を大事にすべきか、自分の利益ではなく何を優先させるべきか、何を基準に考え判断するべきかを誤ったのです。真に恐れるべき方(主)を恐れ、主を信頼し、神の教えを守ることが大事なのです。自分の体験からではなく、歴史(聖書)から学んでまいりましょう。 


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2022-10-14 10:44:10 (57 ヒット)
メッセージ

「新たな目的」列王紀上19:9〜18


肉体的精神的、霊的にも疲れ果てたエリヤは、主に死を求めました。しかし神の取り扱いの中、生きる力(気力・体力)を取り戻し、神の山ホレブ(シナイ山)まで歩いて行きました。洞穴で夜を過ごしていると、神が「エリヤよ、あなたはそこで何をしているのか」と問われます。一度は死んでしまいたいとまで思ったエリヤでしたが、この時は違いました。「自分は神様に対し熱心だった」「イスラエルの人々は契約を捨てた」「預言者の仲間は殺されていった」「今、自分も殺されそうだ」誰も助けてくれない。神様はどこにおられるのか。主に対して激情をぶつけているようなエリヤに神は「主の前に立ちなさい」と命じてから神は大風で岩を砕き、地を揺るがせ、火を起こしました。神は奇蹟を、イスラエルを救うため、祈りの応えとして、または裁くためにも奇蹟を起こされますが、それらは神ご自身を顕現されるための方法・手段であっても、それ自体が神ではありません。「風の中に主はおられなかった」「地震の中にも」「火の中にも」主はおられず、静かな細い声を聞き、エリヤはようやく洞穴から出てきました。自分のすぐ近くに、主はずっと共におられることに気づいたのです。「あなたはそこで何をしているのか」神は同じ質問をエリヤにし、エリヤは同じ応答をしています。しかし神はエリヤに次の新たな目的を与えられました。「細い声」は周りが騒がしければ聞こえない声です。たとえ静かでも、心が怒りや憎しみ、悲しみや虚しさなどの感情で覆われ、負の言葉で耳が塞がれていれば小さな声は聞こえないでしょう。エリヤは孤独な戦いの日々の中で、怒りと悔しさと)虚しさに心ふさがれ自身の信仰・目的を見失いそうになっていましたが、霊性の変化(心の深いところ)を得て、次代に繋いでゆく働きを与えられたのです。 


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2022-10-06 21:18:09 (54 ヒット)
メッセージ

「起きて食べよ、道はまだ遠い」列王紀上19:1〜8


カルメル山にてバアル預言者とアシェラ預言者あわせて850名が殺された報を聞き、イゼベルは「24時間以内にエリヤを殺す」と怒ります。アハブ王の前で異教の預言者らに大勝利したエリヤでしたが、王のとりなしや庇護もなく、エリヤは自らの命を救うために逃げ出しました。自分の全存在をかけてイスラエルの神の信頼回復のためにあれほどのことをしたのに、自分をとりまく状況に影響は与えず、表立った応援も得られなかった…エリヤは孤独感と虚しさと疲労から「わたしは先祖にまさる者ではありません、もう充分です、命を取ってください」と神に訴えます。誰も分かってくれない、助けてくれない、わたしは特別な人間ではなかったのだ、人々から評価も共感も得られず、自分の働きも理解されない…肉体的にも精神的にも疲れ切った時、私たちも「神様、もう疲れました、もういいです」と絶望してしまいます。その時、主はエリヤに「もっと頑張れ」と叱咤激励したのではなく、「あなたはこうあるべきだ」と方法論を展開するのでもなく、御使いによって水と食糧を与えられました。「起きて、食べなさい」眠り続けて心も弱っていく前に、活力の源になる食べ物を口にしなさい、生きよ、と。主は遠くから観念的にだけ語りかけられるのではなく、この時は御使いが「彼にさわり」食べるよう呼びかけています。身近に実体をもって応援し守ってくれる存在があることを感じられると、人は力がわいてきます。主のいつくしみにより休息できたエリヤは霊的にも回復が与えられました。その場所(ベエル・シェバ)は創世記21:8〜21でアブラハムの元を離れ荒野をさまようハガルとイシュマエルに主が語りかけられた所です。孤独と絶望で生きる力を失った者に、いつでも神はなぐさめ、導きと新しい力を与えてくださるお方です。 


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2022-09-30 09:58:16 (56 ヒット)
メッセージ

「主の御手が差し伸べられ」列王紀上18:41〜46


「天からの火で応えられた神」に民衆は信仰の目を覚まし「主こそ神です」と告白します。偶像は人間の都合がいいように造り出した物ですが、それに向かっていくら呼ばわっても、何の答えもなく顧みられることもありません。人間を造られた神は生きておられ、「応えてくださる」お方です。「応えられる」とは「何でも願うようになる」と言う意味ではありません。親は子どもの最善を考え、導こうとします。また願う側も、何でも思い通りにさせようとするのは神を従わせようとする高慢です。祝福(恵みと赦し)は与えられるものであって、対価の報酬ではありません。バアル預言者450人はまどわす者として捕らえられ、ことごとく殺されました。頼みにしていたバアル預言者たちは殺戮され、エリヤの圧倒的な大勝利、偶像礼拝のむなしさに気づいて心をひるがえした民衆たち、混乱を招いた指導者として我が身の危険も感じるアハブ王でしたが、エリヤは意外な声かけをします「上って行って飲み食いしなさい。雨の音がするから」そもそもこの騒動の発端は、偶像礼拝に対する神の裁きである干ばつが三年続いたことでした。国中が飢饉の中にありましたが、その干ばつを終わらせるというのです。善人にも悪人にも神は等しく雨を降らせます。アハブ王は素直に山に登り飲み食いします。エリヤが祈り続けると、手ほどの雲が彼方に見えてきました「大雨に閉じ込められないように、ここから逃げなさい」とアハブ王に忠告します。この時もためらわずエリヤの言葉に従い、カルメル山を下り大雨の難を逃れ宮殿に帰還します。アハブ王は晩年悔い改めることもありましたが自分の欲望に忠実で、神に従う善王にはなれませんでした。しかし神のイスラエルに対する憐れみは消えず、迷いの多い、迷惑なアハブ王にも助けの手を差し伸べ、守られました。「主の手が下り」主の力が働く時、未来が切り拓かれいのちの希望が与えられるのです。 


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