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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-12-26 16:55:54 (16 ヒット)
メッセージ

『マリヤの決断』ルカによる福音書1章26〜38節
神の御言葉は必ず成就する。すなわち神のことばは出来事となって現れていくのです。時はAD6年ごろ、場所はナザレという田舎の寒村。そこにマリヤという少女がいました。齢は15歳前後、結婚の約束を交わしたヨセフがいました。2人ともこの生活の延長にある将来をそれぞれ思い描いていたことでしょう。そのマリヤの前に御使いが突然現れて言います「おめでとう。恵まれた方」喜びなさい、あなたは神様から特別な恵みと憐れみをいただいたのだ、と。マリヤは御使いの聖さに恐れを抱き、何が起こっているのかと戸惑いました。さらに御使いは「あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人となり、いと高き方の子と呼ばれる」と言い、マリヤは驚きます。「どうして、そんなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに。」すると御使いは「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを覆う」と言うのです。この世界は、霊的な存在である神がことばによって造られました。ことばが人となって、神はマリヤの胎の子から人類にとって大きな計画を始めようとしておられたのです。高齢のエリザベトの妊娠を御使いに告げられた時ザカリヤは、そんなことがあるはずがないと疑い、素直に信じることができませんでした。しかしマリヤは御使いの「神に出来ないことは何一つない」という言葉に、恐れ慌てることなく「お言葉どおり、この身に成りますように」と敬虔に、御告げに従う決断をしたのです。マリヤは平穏な生活を願い、「嫌です」と逃げ出すことも出来たかもしれません。それによって起こるであろう非難・誤解・噂話の類、そして婚約者ヨセフは理解してくれるだろうかという不安を覚悟した上でマリヤは「私は主のはしためです」と神のご計画を優先したのです。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるお方です。その信仰の決断は、神のことばが出来事となるのを体験する恵みをいただくのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-12-12 15:11:57 (28 ヒット)
メッセージ

『ヨセフの決断』マタイによる福音書1章18〜25節
神は夢を用いて啓示されることがあります。創世記のヨセフ物語、預言者ダニエルの活躍をご存知でしょうか。彼らは夢の解き明かしの賜物が与えられていました。マリヤの許婚ヨセフも夢の中に御使いが現れ、神の御告げを受けます。その御告げを聞くまでは、夫婦になる前にマリヤが身重になったことを知り、離縁しようとしていました。マリヤのお腹の子どもは自分の子ではないと公にすれば石打ちなどの重罰が課せられますが、婚前に性関係があったと人々に認識されることも正しい人ヨセフにとっては苦味を引き受けることになります。マリヤを密かに去らせようとしていた矢先、彼女が身ごもったのは他の男性によるのではなく、預言者を通して神が言われたインマヌエルと呼ばれる救い主が聖霊によってマリヤの胎に宿ったのだという驚くべき御告げを受けたのです。ヨセフはそれを信じ、人の考えでは受け入れ難いことを受け入れます。これを「信仰の決断」と言います。理性により納得できたからとか、自分の思いや計画、人生の段取りや損得からではなく、神の御旨であるから従う決意をすることを「信仰による」と言います。神は「その子をイエスと名づけなさい」と言われました。イエスはギリシャ名で、イスラエルの言葉でいうとヨシュア=主は救うの意です。イスラエルでは名前は非常に大切にされ、色々な由来や物語があり、その子の生涯を決めてしまうほどです。命名権は父母または家長にあります。マリヤに宿る子の父親は主なる神様なので、神が命名されたのです。神はご自分を信じる者と共におられることを望まれ、御子を通して人々を救おうとされたのです。ヨセフは信仰によってマリヤを妻として迎え入れ、イエスの地上における父となったのです。夢の啓示ではなくても、聖書の御言葉からも神は語りかけられます。示された御言葉や与えられた思いを大切にし、神の御意思か自分から出た思いか吟味してまいりましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-12-06 11:36:05 (24 ヒット)
メッセージ

『罪咎を担うキリスト』イザヤ53章
「主のしもべ」について学んでまいりましたが、この言葉は預言者やイスラエルを指す他に、救い主キリストのことも表しています。53章ではまず、主のしもべに対する人々の評価が書かれています。神の真理は民衆の常識を越えたものであり、信じる者には恵みであっても、心の目がおおわれた者には到底信じがたいものであるので、主のしもべの言葉を受け入れないというのです。また当時の人々が抱く神に用いられる者としてのイメージ(宗教指導者の姿)からはほど遠いため、「見とれる姿」ではなく「慕うような見栄え」もないと表現しています。むしろ人々は、彼が神から遣わされた者であることを知らず、軽蔑し、無視し、のけ者にするというのです。人々は知りません。彼(キリスト)が自分たちの身代わりとなり、罪の赦しのあがないとなったことを。彼が死んだのは彼自身の罪のためだ、と誰もが考えました。しかし、彼は私たちの罪ゆえに刺し通され、うち砕かれたのです。私たちの病を負い、痛みを担い、弁解もせず身代わりとなって罰を受けたのです。「私たちは皆、羊の群れのようにさまよい、それぞれ自らの道に向かって行った」罪を犯したら、例外なくあがないが必要となります。神から離れて自分勝手な道を歩んでいった自己中心は罪の本質です。その私たちの全ての過ちを、神はキリストに負わせたのです。あがないを成しとげる過程で苦しみと痛みにゆがんだキリストの姿を見て、人々は神の罰の壮絶さを感じます。その痛みは何ゆえだったのか考えた時、自分の罪の深さにおののき、神のゆるしの大きさに本当の愛を知るのです。そしてキリストの奇蹟によってこの世の価値観をゆさぶる(権力、金、世の成功ではない)本当の勝利、本当の世界の王を知るのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-11-30 16:26:15 (35 ヒット)
メッセージ

『主なる神が助けてくださる』イザヤ50章4〜11節
神の御言葉によって「疲れた者をことばで励まし」「暗い中を歩いて光を得ていなくても、なお主を依り頼みおのれの神に頼る」ことができるように、まず「主のしもべ」たる自分がよく聞くことです。「聞く」という行為は意識していないと難しいものです。会話は互いに言いたい事を一方的に言い合うだけでは、関係性を築くために有意なものとなりません。相手の思いや意図をくみ取るために必要なのは、まず静かに聞くことです。旧約で「耳を開く」という表現がよく出てきますが、神の言葉に聞き従うことを意味します。申命記などで、奴隷は6年間働いたら7年目には自由となりますが、奴隷が主人の元に残ることを望んだら、自ら耳をきりで刺し通すことで主人に対する従順のしるしを意思表示したのです。それゆえ「耳を開く」というのは強制的にではなく自発的に、主人(神)に対して私という存在をゆだねることを表します。神の言葉を人に教え、語るためにはまず何が真理なのか、自分がよく学ばなければなりません。研ぎすまされた剣のような御言葉をよく聞き、よく学ぶ中で心の目が開かれ本質が明らかにされるのです。 5節では主のしもべの苦難が予告されています。罪ある者のように背中をむち打たれました。イエス・キリストも人の姿をとって来られ、このような侮辱を受けながらも苦しさ悲しさ、人の罪に対する怒りを耐えられたのです。それは私たちへの愛ゆえにその苦難を引き受けられたのです。私達も人に辱められても自分自身が恥じ入ることはない、落胆、失望することはないのです。火打ち石=最も堅い石のように、信仰の堅さゆえに苦難を受けとめることができるのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-11-21 22:00:54 (40 ヒット)
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『わが報いはわが神と共にある』イザヤ49章1〜13節
42章での「主のしもべ」に期待される働きとして「公義を行う」とありました。それは正しく法(律法)を取り扱うことです。神がイスラエルに律法を与えてられてから歳月を経る間に律法が守られなくなったり、趣旨が曲げられ恣意的に用いられるということがありました。傷んだ葦(カノン=原理・基準)すなわち御教えを回復し成就するために「主のしもべ」たるイエス・キリストは来られたのです(マタイ5:17)。49章で主のしもべ「私」は主なる神によって「鋭利な剣」「研がれた矢」にされたとあります。剣とは御言葉の比喩です。エペソ人への手紙に「御言葉の剣」が出てきますが、突然脈絡なく出てきたのではなく旧約ですでに神の言葉が「鋭利な剣」として用いられていたのです。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣より鋭く、魂と霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心の色々な考えやはかりごとを判別することが出来ます(ヘブル4:12)」心の奥深く入り込む力を持った御言葉により養われ、やがて用いられるために主にとどまる(隠される)のです。主に用いられることは感謝なことです。しかし、「いたずらに働き、益なく、むなしい力を費やし」結果が出ない、先が見えない日々が続いたり反対にあうと、疲れを覚え徒労感に心が覆われることがあるでしょう。いつも成功・勝利・前進とは限らない、むしろ後退することもある。それが預言者をはじめ福音に奉仕する者の嘆きです。それでは「主のしもべ」の目的(:6)は何でしょうか。それは.ぅ好薀┘襪硫麌、異邦人の救いです。神の願いはユダヤ人もそうでない人も、全ての人々が救われることです。パウロの世界宣教の根拠の一つはイザヤ書だと話しました。イエス様の登場の700年前に異邦人伝道のことが預言者イザヤを通して語られていたのです。主のしもべとしての働きの中で実りが無いように見えても、この小さな奉仕は決して空しいものではなく神のご計画の中で意味あるものだと知ることが、私たちに与えられる報いです。主を仰ぎ見る中で、信仰を回復し立ち上がることが出来るのです。


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