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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-11-02 21:42:09 (26 ヒット)
メッセージ

『サウル王の死』サムエル上31章
サウル王、ダビデ共に絶体絶命の危機が訪れましたが、それぞれがとった行動により人生の明暗がはっきり分かれたのです。ダビデはペリシテ軍に席を置くも不信任により離脱を余儀なくされ、チクラグへ帰還します(29章)。するとアマレク人の略奪隊によって家族は連れ去られ財産も奪われ火を放たれていたのです(30章)。部下たちは非常に悲しみ怒り、自分たちがこんな目にあったのは指導者であるダビデのせいだ、石打にして殺してしまおうという者さえ現れました。ダビデはこの危機に際し、信仰を回復し主に伺います。するとアマレクの略奪隊を追跡せよと示され、部下たちと共に直ちに行動します。そしてアマレクの略奪隊を襲撃し家族を取り返すことができ、さらにアマレクが方々で略奪してきたものも奪い、部下たちだけではなくユダの町々の長老にも分配したのです。それはダビデがイスラエルに帰る道備えとなりました。一方サウル王は迫りくるペリシテの脅威にどうしたらよいか相談できる者がなく、ついにイスラエルでは禁忌の霊媒師によりサムエルの霊を呼び出します(28章)。そこではっきりと、イスラエルの今の状況は主が造られたもので、サウルと息子たちとイスラエルはペリシテの手に渡されると宣告されます。その後サウル王とイスラエルの精兵はギルボア山でペリシテ軍と激突し、サウル王と息子たち(ヨナタンら)が戦死しました。彼らの死体は城壁にさらされ辱められました。それを聞き、心を痛めたヤベシュの住民が夜陰に乗じて遺体を回収し、ヤベシュに葬りました。ヤベシュ・ギルアドの住人は、サウルが王として即位してから最初の異民族との戦いに勝利しアンモン人を追い払ったこと(11章)を恩義に感じていたのでしょう。サウルは全イスラエルの王として認められましたが、不信仰によりリーダーには不適格として神の霊は離れていきました。ダビデとの違いは、他者を神に愛された人として敬い自身のことも神のしもべとして神の愛と赦しを受け取ったか否かでした(ペテロ2:16・17)


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-11-02 21:40:47 (20 ヒット)
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『ダビデ再びペリシテへ』サムエル上27章
24章、26章でサウル王とダビデ討伐軍は帰って行きましたが、ダビデは再度サウルの追手が来ることを怖れ、600の兵とその家族とともにイスラエルの敵であるペリシテへ移動することを決断しました。10年も続く長い逃亡生活に、部下たちからも不平不満が出ていたことでしょう。ダビデは重要な判断を下す時、主に祈り、主に伺う人でしたが、今回はそれがありません。ダビデは21章でペリシテのアキシ王のもとに逃れましたが、ここに安全な居場所は無いと判断すると気が狂ったふりをして城外へ出されたという出来事がありました。にもかかわらずアキシ王はダビデたちを受け入れ、かつてのイスラエル領チクラグの町が与えられ、ダビデはここを本拠とします。600人とその家族を養っていくことは容易ではありません。ダビデは略奪隊を編成し、イスラエルでもペリシテでもない集落を襲い、戦利品を得て財産を増やします。アキシ王には「ユダを襲った」などと嘘の報告をして警戒心を解き、生き残った者が真実を告げないよう女性も子どもも皆殺しにします。ペリシテで生きながらえるための方便、工作は神から出た知恵ではなく、政治家としての人間ダビデの策略です。自分たちが生き残るためには偽りも非情なことも辞さないダビデ。ペリシテでの1年4ヶ月の生活の中でアキシ王からは信頼され護衛官まで任せられますが、信仰の低調はしばらく続きます。不利な状況を忍ぶために世俗の手段と計略で保身を図ると、自分のついた嘘で立場を危うくするという負の連鎖から脱出できなくなります。そこにはかつての信仰の勇者ダビデの姿はなかったかもしれません。チクラグの町という領土は得ましたが、神の守りを手放したために安息の地とはなりませんでした。主に伺い求める信仰を取り戻したのは更なる危機の際(29章)でした。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-10-28 10:17:46 (46 ヒット)
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10/6礼拝説教『ダビデとサウルの再会』サムエル上26章
ダビデがサウルのもとを出奔して以降、2度サウルに手をかける機会がありました。1度目は24章でダビデ討伐を企てたサウル王がエンデゲの荒野に到着後、小用を足しに洞穴に入ったところにダビデがいたのです。部下たちは今こそサウルを討つ時だとダビデに進言しましたが「主に油注がれた方を打つことは出来ない」と、気づかれぬ内にサウルの上着のすそを切り取るだけにとどめました。サウル王は自らの非とダビデの正しさを認め、ダビデが王になった時、自分の子や孫たちを害さないよう懇願し、ダビデは誓います。その出来事があったにも関わらず、26章でサウル王は再びダビデ討伐軍三千を率いジフの荒野へやってきました。24章で「なぜあなたはダビデがあなたに危害を加えようとしている、などという人の噂に耳を傾けるのですか」とダビデが言うように、サウル一人の思い込みやしつこさだけでなく、王の取り巻きにダビデ排斥を根強く主張する人々がいたということが分かります。敵意はないと分かっているダビデを追跡し亡き者にすることは間違っているけれども、部下たちの意見を無視することは出来ない。後代ユダ王国のゼデキヤ王も、預言者エレミヤの言うことは正しいと思うが、王の取り巻きがそうはさせない。自分が決断すれば未来を変えることが出来るのに周囲の人々の思惑に流されてしまう。神の言葉を聞きながらも、意志の弱さによって御言葉に従わず、悲惨な末路を迎える滅びに向かうパターンがサウル王のところでも見られます。26章でダビデはアビシャイと共に、夜陰に乗じて兵営に忍び込み、サウル王の槍と水差しを持ちだします。ここでサウル王を殺せば逃亡生活の非自由さから解放されますが、しかしこの時もダビデは「神に選ばれた者に手を下してはならない」と、サウル王を害することを許さず立ち去ります。ダビデの行動と決断は状況に左右されず周囲の人の意見に流されず、神のご計画の中で生かされている自分の命を神に委ねるというぶれない信仰に立ってなされていたのです。こうしてイスラエルの王として神に訓練され、磨かれていったのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-10-27 00:17:57 (22 ヒット)
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『ナバルとアビガイル』サムエル上25章
カレブの子孫であるナバルは多くの家畜とそれを放牧する広大な牧草地を有する富豪でした。彼の所有地はペリシテの略奪隊の脅威に常にさらされていましたが、逃亡中のダビデとその部下が彼らを守っていたため、ナバルの部下たちとの間には良い関係が生まれていました。当時、収穫の季節には富める者が貧しい者にふるまうことが伝統になっていました。ダビデは逃亡中の身で600人の部下を養うことは容易ではありません。そこで地域の富める者ナバルに、羊の毛刈りの祭りに際して少しの配給を依頼しました。ナバルはダビデの申し出に対し、ダビデやその家族の悪口を並べ立てた挙句「ダビデとは何者だ〜素性の知れぬ者に与えろと言うのか」と怒り口調で尊大に断りました。ナバル=愚か者という意味ですが、彼は繁栄していく中で益々粗野で強情で傲慢で自己中心的という聖書の中で罪として取り扱われる要素を形成していったのです。ダビデはサウル王からの迫害という強い緊張感の中で冷静さを保ってきましたが、ダビデと仲間たちを侮辱するナバルの態度に怒りを制することができなくなり、ナバルに属する者を皆殺しする決意をしました。一時の怒りに身をまかせて滅茶苦茶に行動してしまうと、後に苦い苦しみを刈り取ることになる、ということまでその時は考えが及ばなくなるものです。この状況の中で一人、冷静な女性がいました。ナバルの妻アビガイルの賢い対応により、ナバルの一族の命のみならずダビデに罪を犯させることからも守ったのです。夫婦は共に暮らすうちに似てくるといいますが、むしろ夫ナバルと正反対の態度でダビデとその部下たちの怒りをしずめるために機敏に対応し、方法を尽くして行動しました。ナバルの肉の思いに対して怒りで報いて無益な殺生をしていたら、ダビデの生涯に禍根を残したことでしょう。「怒りがあなたを罪に陥れることがないようにしなさい」(エペソ4:26)「患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達(品性)を生み出し、錬達は希望を生みだす」(ロマ5:3-4)神の忍耐は人を救う力です。怒りに支配されないよう忍耐と信仰を働かせ、神から知恵をいただきましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-10-19 08:04:53 (22 ヒット)
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『感謝を優先させるなら』 聖書箇所ルカの福音書17章11〜19節
  説教者 澁谷 友光師

「感謝します」という言葉は、クリスチャンになってからよく使う言葉ですが、一般的にはあまり耳にしないようです。私たちはイエス様を信じてから、感謝することを教えられ、また感謝するよう命じられています。これは神様の愛の導きなのです。なぜなら神様が私たちをもっと豊かに祝福するために、天の窓を大きく開く一つのカギが感謝をささげることだからです。ですから私たちはより意識して感謝をささげる者になっていこうではありませんか。
「感謝を優先させる者に」
何を優先させるか、人それぞれに選ぶ順序、優先順位がありますが、神様は何よりも感謝を優先させるように教えておられます。そのことを教えているのが今日の箇所です。
イエス様がサマリヤのガリラヤの境を通られた時、10人のツァラアトにかかった人がイエス様に叫んでいました。当時、ツァラアトにかかるのは大変なことで、罪深い人や律法を破った家系の人がかかるのだという偏見がありました。罹患してしまうと家族や友人から離れ、町はずれの寂しい所で隔離生活を送らなければなりませんでした。もし人が通るようだったら遠くから「私は汚れています、近寄らないで下さい」と叫ばなければならなかったのです。そんな彼らの近くにイエス様が来られた、自分たちがいやされるチャンスは生涯に一度、この機会しかないとばかりに懸命に叫びました。これは私たちに祈りの姿勢を教えているのかもしれません。必死に主を呼んでいると、イエス様は「行きなさい、そして祭司に見せなさい」と言われました。祭司の役割は礼拝を司るほかに、ツァラアトにかかっているかどうか判断するというのが律法で定められています。規定の手順では治ったら祭司に見せるとなっていますが、イエス様が彼らに近づきなぐさめ、彼らに触れて祈ったりはしませんでした。それでも彼らはイエス様の言葉通り祭司の所に向かっていると、途中でツァラアトが消えてしまいました。不治の病と考えられていたのにいやされたのがうれしくて、その中の一人は祭司に見せるどころではなくなりイエス様の元に戻って来て、ひれ伏して礼拝しました。「10人きよめられたのではないか、神をあがめるため戻って来たのは1人なのか」この言葉から神様は感謝の礼拝をささげる者を求めておられることが分かります。

機仝羝斥佞鮗けた時、御業は始まっている
今日の聖書箇所で、なぜイエス様は彼らに近づいて、手を置いて天を見上げて祈られなかったのでしょうか?それは、御言葉があるから十分だからです。今日、私たちは最高の所にいます。神の御言葉が語られている所にいるからです。この所こそ地上における最高の場所です。主の御言葉が語られる所に必ず神の御業は現わされるからです。
<イザヤ55章10.11節>
天からの雨が地をうるおし、美味しい作物を実らせますが、それ以上の恵みが神の御言葉です。神の御言葉はむなしく落ちることはなく、命に替えられるからです。その御言葉が毎週語られる教会に私たちは来ているのです。だから私たちは胸を張って多くの人をお誘い、福音を伝えようではありませんか。ツァラアトにかかった10人は、イエス様の言葉の力を信じて、御言葉に従って祭司の所に向かっている時、いやされたのです。イエス様は近づいてくれなかった、触れて祈って下さらなかったといじけてはいませんでした。主の御言葉に聞き従う、私たちもその信仰に習おうではありませんか。

供ヾ脅佞鬚気気欧襪海箸鰺ダ茲垢襦夢脅佞修里發里、神への最上のささげもの〕
「残りの9人はどこにいるのか」ここにイエス様の心があります。神の御業が現わされた時、まずは主を賛美すること、主に感謝し礼拝するため神の元へ戻ってくることがイエス様の願いなのです。
聖書は事あるごとに感謝することを優先順位の第一にしなさいと言っています。しかし私たちのやっかいなところは感情を持っていることです。うれしい時には笑い、喜び、悲しい時には泣き、頭に来た時は怒る、感情それ自体は神様が与えて下さった素晴らしいものです。けれども感情というものは時により移り変わるものです。こうして御言葉を聞き学んでいるけれども、感情の起伏により感謝できない・感謝することが難しい時があります。そのような時は意志をもって、感謝することを優先すると決めるのです。感謝しにくい時、<詩篇50篇14節><92篇1節><詩篇107篇1.2節><テサロニケ5章18節>などの御言葉が助けて下さいます。感謝へと導いて下さいます。すると天の窓が開き、豊かな恵みが降り注がれるのです。
なぜ神様はそれほど感謝を願われたのでしょうか。

掘ー腓牢脅佞領蘿匱圓鮟吠,気譴
感謝は状況を変えます。感謝を主にささげる時、そこは神様の領域(エリア)に変わるのです。神様がご支配され、神様が触れて下さるのです。主の愛を知って感謝をささげるならば家庭が、職場が、あなたが所属するコミュニティーが変わるのです。神様は今日そのことを教えて下さっているのだと、この御言葉を受け取ろうではありませんか。
<ヘブル人への手紙4章14、15節>
聖書はイエス様こそ祭司の中の大祭司であると書いています。私たちの弱さに同情できない方ではない、天から来られた大祭司であるイエス様に認めていただければ大丈夫なのです。
<詩篇100篇>
時には感謝できないような出来事がありますが、そのことを通していやし、解放、回復の御業のあかし人として用いられるのです。神様が新しい扉を開いて下さったことを感謝しようではありませんか。「感謝する」という大いなる武器を、豊かに用いてこの状況を切り拓いていくなら、そこに神様のご支配をもたらすのです。多くの人の目を開き、神様の御名があがめられ、御業があきらかにされるため、主は感謝を教えて下さったのです。


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