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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2020-08-15 09:07:02 (37 ヒット)
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「救い出される神」ダニエル3:13〜30
古代の遺跡の多くは当時の権力者がその権威の象徴とし造らせたものです。ネブカドネザルも例に漏れずドラの平野に高さ約24mもの巨大な金の像を造らせました。奉納式にはバビロン全土からおびただしい数の有力者が集められ、この金の像の前にひれ伏さない者は燃える炉の中に投げ入れると命令しました。どんなに力を得ても不安がつきまとう王は人々に礼拝行為を強制し、王に対する恐れと忠誠心を見て満足しようとしたのでしょう。音楽と共に全ての者がひれ伏したように見えましたが、ユダヤの青年3名は命令を無視しておがみません。シャデラク、メシャク、アベデネゴはバビロンのために教育を施され、行政官に任命された者でした。ネブカドネザルは3人を呼び、「もう一度チャンスをやるが、おがまなかったら直ちに焼き殺す」とおどすと、3人の者は「私たちが仕えている神は、あなたの手から私たちを救い出すことができます。たとえそうでなくても、私たちはあなたの神々に仕えることも、おがむこともしません」と信仰告白しました。絶対権力を前にしても流されず、決して屈しない勇気はどこから出るのでしょうか。殉教者の歴史をたどって見ても「たとえそうでなくても」という場合の方が多いのです。しかし魂さえも支配される絶対者なる主を心から礼拝していた3人は、死の後までも主が共にいて下さるという平安に満たされていたのです。自分を神であるとするネブカデネザルの高慢は、燃える炉の中から3人を無傷で救い出された「4人目」の方である主の前に打ち砕かれました。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2020-07-31 15:24:06 (84 ヒット)
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「与えられる神」ダニエル1章
優れた政治家であるバビロンの王ネブカデネザルは、征服した国々から有力な子弟を集め将来バビロンに有益な人材とするために名前を変えさせ教育を施します。食事は王と同じものを与えるという優遇ぶりです。戦勝国が国力の差を見せつけて服従させ、民族のアイデンティティを奪いバビロン化を進めるための計画があったことがうかがえます。しかし食文化はそれぞれの民族や宗教により習慣や嗜好が異なります。ダニエルらは準備される食事からイスラエルの食物規定にかかる肉を取り除くよう願います。困ったのは世話役の宦官の長です。肉を食べずに力を失い若者たちが体調を崩してしまえば、王にどのように取りつくろうとも厳罰は避けられません。そこでダニエルらは10日間だけ野菜中心の食事を試させてもらえるよう頼みました。神からダニエルらに対する慈しみと憐れみを与えられている世話役は、その提案を聞き入れ試してみると若者たちの中でもダニエルたちの方が顔色よく、はつらつとしていました。そこで世話役はダニエルらには王の献立ではなく食物規定にかからない食事を供したのでした。ダニエルらが王の意志に反してでも守ろうとしたのは、過去・現在・未来、人々の歴史を支配しておられる神への信仰です。バビロン化するというネブカデネザルの目的は果たせず、ダニエルたちは神の守りの中で、神の御旨に沿う生活ができたのです。それはこの世の人に軽んじられている「いのちのパン」神の御言葉という食物が、彼らの心身と霊性を健やかに支えたからです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2020-07-24 10:40:07 (68 ヒット)
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「彼とは誰ですか」使徒行伝8:26〜40
預言書は人の目から隠されているわけでも、暗号化されたものでもありません。ただ、その預言書が書かれた文化的な背景を知り、歴史的経過を経なければ、そして神の視点(信仰)を持たなければ、そこで語られている人物が誰を示しているのか分かりません。イザヤ書53章の主のしもべの苦難と栄光の箇所を読んでも、異邦人であるエチオピヤの宦官は「彼」が誰のことなのか分かりませんでした。御霊に示されたピリポが宦官に話しかけ、「手引きしてくれなければ分からない」と答えたので、ピリポは丁寧に聖書を通して福音を告げました。国や文化の違いを越えて聖書が人々の心を打つのは、罪や汚れといった人間の本質に関わる部分を明らかにし、その罪の贖いと赦しという解決法を示しているからでしょう。時代が変わり、文明文化が進んで生活が便利になっても人間の本質は変わらず、生きることと死ぬことについて悩んでいます。当時、地位と富のあった宦官でしたが、真理を求めていました。罪の無い神のひとり子イエス・キリストがこの地に来られたことで、イザヤの預言した「彼」が明らかになったことを教えられ、宦官は信じてその場で洗礼を受けました。彼は喜びエチオピヤに帰り、かの地でイエス・キリストの福音を伝えたことでしょう。ステパノの殉教から始まったエルサレムからの迫害によってクリスチャンは全地に散りましたが、ピリポと宦官の出会いのように、一人の信じる者によって更に多くの人に福音が伝えられ救いの御業が広げられました。一人の存在は小さく弱いものかもしれません。しかし主は信じて従う者を用いて、導かれるお方です。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2020-07-24 10:37:58 (60 ヒット)
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「歴史と将来」使徒行伝7:1〜16
恵みと力に満ちたステパノは「知恵と霊とによって語る」ので、迫害する者たちは歯が立たず「モーセと神を汚す言葉を聞いた、聖所を打ちこわし〜伝えられた慣例を変えてしまう」という偽証をさせ、ステパノを捕えます。「訴えの通りか」と質問されたステパノは議会と聴衆に福音を説く機会だと、イスラエルの歴史に基づいて弁明しました。当然、大祭司やサドカイ人は十分に知悉していたイスラエル史でしょうが、イエス・キリストへの信仰に基づいた歴史観から語られると全く異なるものに聞こえました。大祭司らが大切にしていた神殿や律法などの権威の象徴を意識したのか、ステパノは土地も神殿も何もない、ただ信仰だけがあったアブラハム物語から語り始めます。何が行動の動機であり、何が判断の基準になるのか。ある人たちは自己利益(富、名誉や権力…)あるいは仕事、家族・友人を優先するかもしれません。その点、アブラハムは神の約束のみを信じ旅立ったのでした。まだ子どもはいないけれど将来、子孫は星の数ほど増え、400年他の国へ移り住み奴隷にされ苦役を受けるが、この地に帰って来る。その話にアブラハムは「子孫の苦労を取り除いて下さい」とは願い求めず、栄光の神を信頼し、語りかけに応答したのです。私たちは将来を描ききることは出来ません。自分の考えや計画が妨げられ、道が開かないように思えることもあります。ステパノもキリストを証しした後、石で打ち殺されました。イエス・キリストの福音からイスラエルの歴史を振り返ると、その痛み苦しみ、また人の愚かさをも越えた神の大きな計画を見出すことができるのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2020-07-09 12:26:26 (76 ヒット)
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「歴史の判断」使徒行伝5:17〜42
祭司長及び議会から「イエスの名前によって語ったり教えたりしてはいけない」と命ぜられていたにも関わらず、ペテロらイエスの弟子たち(使徒)は「わたしたちは神に従う」とイエス・キリストの御名によって語り、御名によって祈り、いやしなどの業を行いました。キリストの権威を代理人として行使していたのです。代理人の行為は、遣わした者が責任を持つものです。使徒たちの身柄は、遣わされた神が責任をもって保護され、語るべき言葉を与えられたのです。妬みに燃やされた祭司長やサドカイ人たちによって再度、ペテロら使徒は捕われ牢獄に入れられますが、御使いによって助け出され「この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と励ましを受けました。神殿の主管と下役は、民衆にも支持されつつある使徒たちに手荒なことはできず、慎重に議会へ連れて行き証言台に立たせました。使徒たちは大胆にキリストを証言し、これを聞いた祭司長らは激しく怒り、使徒たちを殺そうとしました。しかし、その場にいたユダヤ教大学者ガマリエルは「彼らが偽物ならば自滅するだろう。しかし神から出たものなら滅ぼすことは出来ない。むしろ諸君が神に逆らうことになる」と意見しました。自分たちで裁くのではなく、本物なら歴史がそれを証明するだろうと仲裁に入った形になりましたが、議会はその言葉に従うことにしました。歴史はどの様な判断を下したのでしょうか。後にエルサレムはローマによって滅ぼされ、祭司長らは命と立場を失ったのです。


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