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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-06-25 09:36:34 (36 ヒット)
メッセージ

「祝福と苦難と」ヨブ記1〜2章
聖書に記されている、神に祝福された父親にアブラハム、イサク、ヤコブ‥ヨブがいます。どの人物も祝福とともに苦難も経験しました。ヨブは全く正しく、神を恐れ、悪から遠ざかった人物でした。多くの財産を持つ人で、家族の代わりに犠牲の生贄をささげ、とりなしの祈りをする人でした。神の目に適うヨブは、サタンにも目をつけられ標的にされてしまいます。サタンの思惑からすればこれほどの苦難が続けば神をのろい信仰を捨てるだろう、とヨブの家族と財産を打ち、それを失わせたのです。サタンは神に抗い、神の計画を邪魔する者です。聖書の中でサタンが登場する回数は少なく、創世記の蛇の誘惑、ダビデの人口調査、ヨブ記、イエスの荒野の誘惑、そしてイエスを売ったイスカリオテのユダに入った時、いずれも神のご計画を阻もうとして、神のご支配の中で行われたことです。うち続く災難にヨブの妻は「神を呪って死んでしまえ」と言います。全てを失った悲しみと神に対する怒り、自分では何もできない無力感と苦しみからほとばしった言葉ですが、ヨブは「我々は神から幸いを受けるのだから、災いも受けるべきではないか」と神を呪う言葉で唇を汚すことはありませんでした。ヨブをなぐさめるために訪れた3人の友人たちは、「知らない間にあなたが罪を犯したからこんな災難にあったのだろう、あなたが正しくなかったから、不幸になる何がしかの理由があるからだ、悔い改めよ」と、話しかける言葉が全てヨブを責め立てる論調になっていき、ヨブをいらだたせます。私たちは苦難を受けると信仰が揺さぶられます。ルツ記の冒頭で、夫と息子2人を失ったナオミは悲しみ「全能の神が私を悩まし、災いを下された」と言います。何ゆえ神は私を見捨てられたのかと失望し、不安と悲しみでこの先なんの良いことがあろうかと悩みます。しかし嫁のルツがボアズと結婚し、ナオミは孫を見ることができてなぐさめを得たように、ヨブも最後は神様から倍の祝福を与えられます。逆境の中で神に叫び、神に向かっていくことは正しい姿です。絶望の中で「私をあがなう者は生きておられる」と自分の助け主、希望は、神にあると知ることができるからです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-06-25 09:33:22 (38 ヒット)
メッセージ

「聖霊の力」使徒行伝2章1〜4節
聖霊によって信仰による勇気が与えられ、人生が変えられた弟子にシモン(ペテロ)がいます。シモンは何でも自分の思いを声に出してしまい、隠しだてすることの出来ない人物でした。率直さには好感を持てますが、そのために失敗をしてしまうこともありました。シモンはイエスの弟子として共に旅する中で数々の奇蹟の御業を目撃し、彼自身も体験します。そしてイエスを「あなたは生ける神の御子キリストです」と信仰の告白をします。イエスはそれを喜ばれ「あなたはペテロ(岩)です」と名を与えるのです。ところがその後、イエスが捕らえられ殺されること、よみがえられることを予告すると、師であるイエスに「そんなことが起こるはずありません」といさめ始めたのです。そんな彼に対しイエスは「下がれ。サタン〜〜あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と叱責します。神の御心を行おうとするイエスを阻み、自分たちの思いの実現に向かおうとしたからです。最後の晩餐の折、ペテロは「私は決してつまずきません」「死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」とイエスに言いますが、危険が迫るとイエスを3度も否みます。鶏の鳴き声を聞いた時イエスの予告を思い出し、自分の弱さ汚さ、罪深さに泣き崩れるのです。これが聖霊のバプテスマを受ける以前のペテロです。肉の弱さを持つ彼は自分が言った言葉の反対のことを行ってしまう愚かさを持ち合わせていたのです。復活のイエスは自信喪失のペテロに「わたしの羊を飼いなさい」と命じられます。つまり信仰の兄弟姉妹たちのお世話をしなさいとペテロに使命を与え、人生の目的を示され、その実現に必要な聖霊を受けることを待ちなさいと命じられます。これまでの自分のままではまた失敗するだろう、もう主を裏切りたくない、主に託された使命を全うしたい、力を得るために神の約束にお頼りしなければ‥と感じていたことでしょう。ペテロのように大きな失敗をして自信をなくしていた人でも、聖霊を受けた信仰者たちは力を受けイエス・キリストを伝える者として変えられ用いられていくのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-06-14 10:51:47 (39 ヒット)
メッセージ

「使徒の働き」使徒行伝1章15〜26節
心を合わせ祈っていた弟子たちのもとに、悔い改めた人々が120名ほど集まっていました。その中から新しい使徒となる人を選ぶ必要があることをペテロは話しました。主イエスを売ったイスカリオテのユダと交代すべき候補者の条件は、ー腑ぅ┘垢鮠擇靴任る力を備えていること。使徒の意味は「送られた者」であり、権威をゆだねられた者です。その遣わした方イエスを証しするにふさわしい献身者であること。▲丱廛謄好泙離茱魯佑砲茲訐覿騎萋鯵始の時から生前のイエスをよく知り、復活し姿を現したイエスが同じ人物であることを証明できる者。イエスの公生涯の全期間、「いつも私たちと行動を共にした者」であること。人の推薦によるのではなく、主イエスの権威によって選ばれた者であること。12使徒の役割は新しいイスラエルの12部族長に匹敵する職務であり、紀元一世紀だけに存在したものです。後に使徒ヤコブが殺されても教会は補欠選挙をしていません。ユダに代わって復活の主の証言をする使徒として、同じ条件の候補者が2人いても1人しか選ばれないため、くじ引きで決めました。主イエスがおられた時は御言葉によって明確にされましたが、聖霊が降臨されるまでのこの期間のみ、主の御心を知る方法として旧約時代から行われてきたくじ引きを行ったのです。一同の中からバルサバ(安息日の子)というあだ名でラテン語ではユスト(正義漢、正直者)というヨセフと、マッテヤ(ヤハウェの賜物)の2人が立てられましたが、くじはマッテヤに当たりました。人が集まる所が巨大になると制度化し組織化して整えられますが、周りへの影響力や権力が大きくなるにつれて教会は形骸化し、祈らず人知によって物事を決定しがちです。しかし「教会の実力」と錯覚してはなりません。聖霊が働かれてキリストの体なる教会が機能するのです。12使徒の再建の折に、一同が全て人の心を知っておられる主におゆだねしたように、私たちも御前に静まり、心の姿勢を正しながら御心が何であるかを示していただくよう祈りましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-06-14 10:50:01 (35 ヒット)
メッセージ

「皆で心を合わせ」使徒行伝1章12〜14節
復活されたイエスの命令に従って信じる人々はひと所に集まり、心を合わせて祈っていました。イエスの弟子たち、イエスを信じる女性たち、イエスの兄弟らは信仰によって一つとされていましたが、最初から一致していたわけではありません。十字架の贖い、復活、昇天を通してイエスが真の救い主キリストであったと信仰の確信を得たのです。イエスの弟子たちはガリラヤの漁師や取税人、熱心党(ユダヤ教の中でも特に排他的で国粋主義であり、政治的独立のためには武力闘争も辞さない思想集団)であった者など、職業や立場、主義主張も様々な者達からなる集団でした。取税人ローマの手先としてユダヤ同胞から毛嫌いされていました。中には不正な者もいて私腹を肥やしていたからです。マリヤとヨセフの間に生まれたイエスの兄弟にはヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの名が伝わっています。彼らはイエスの生前はその活動をいまいましく思っていましたが、復活のイエスと出会ってからは信仰の道を歩んだのです。こうした全く異なる背景を持つ者たちに共通するものは罪の自覚と、ゆるされた自覚です。イエスを裏切った、身近にいたのに信じていなかった。真のキリストであったという認識が足りなかったという後ろめたさ。しかし、復活のイエスは彼らに姿を現され、十字架刑以前と変わらず親しく関わってくださいました。変わらぬ愛を示せてくださったことにより「自分は赦されている、受け入れられている、愛されている」ことを知り、主に従うことを決めたのです。神の約束された聖霊を待ち望み、心を合わせ祈っていたのです。聖霊が降臨した弟子たちが特別だったわけではありません。彼らにも間違いや失敗がありました。職業や立場、思想背景の異なる者たち、個性はそれぞれ違っても信仰によって一つとされ、同じことのために祈っていました。キリスト者はいつもこうあるべきなのです。ペンテコステの日はいつだからとかではなく、神様の憐れみをもっと深く知るために、イエス様の愛を受け取るために聖霊に満たされ信仰による勇気と知恵と力を受けるために、私たちは絶えず主の御前に出て、同じ主を信じる者を兄弟姉妹と呼び、心を合わせて祈ることが出来ますように御霊の満たしを求めましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-06-14 10:48:09 (28 ヒット)
メッセージ

「助け主を遣わすため」 聖書箇所 ヨハネによる福音書16:7説教者 村上渡師

「私が去って行かなければ、あなたがたの所に助け主は来ないであろう…」イエス様は親しく交わる弟子たちに真実を明らかにし、イエス様が去る意味をはっきりと語られました。私たちが愛する人に、生涯をかけて望みをおいている人に「私は去って行かなければならない」と言われたら、心から動揺することでしょう。
十字架が近づいてきている時、食事の前にイエス様は弟子たちの汚れた足を洗われました。イエス様は弟子たちにその愛をあますことなく全身全霊をもって現わされたのです。弟子たちもイエス様の愛を大いに感じていたことでしょう。だからそのイエス様が「私が去ることはあなたがたにとって益なのです」と言われても、別れがなぜ益なのか、私たちには不思議でしかありません。
イエス様はなぜこの世に来られたのでしょうか?弟子たちに教え、愛し尽くされ、それが目的でも良かったのではないでしょうか。しかしイエス様は預言が成就するために来られました。十字架の贖いを成し、よみがえられ、助け主を遣わすためです。イエス様はこの世に生き続けることを究極の目的とはしていなかったことを覚えていただきたいのです。
聖霊は神の霊です。キリストを明らかにする霊であり、キリストと共に働かれる霊です。三位一体の神です。その聖霊を通して私たちは神を、キリストを深く知ることができるのです。だから私たちに本当に必要なのは物理的に目に見える形でイエス様が存在することではなく、イエス様が約束して下さった聖霊なのです。
聖霊が来られると、どうなるのでしょうか。
罪について義について裁きについて世の誤りを正す
誰も自分の力で罪に打ち勝つ人はいません。神と断絶状態にあると気づくことができるのは聖霊の働きです。
すべての真理に導く 
真理とは何でしょうか。「私が道であり、真理であり、命なのです」
イエス様がどのような方であるのか悟ることができるのは聖霊の働きによるのです。
神の栄光を現わされる
 宣教の業とは御霊の業です。なぜイエス様が天に昇ってから2000年間、今も奇蹟が起こり続け、救われる人が起こされ続けているのか、それは御霊が今も働いておられるからです。宣教の火をつけたのは聖霊が降臨したからです。聖霊が注がれ、人々の人生が変えられ、世界中に宣教が広がったのです。
しかしイエス様の権威なくして聖霊が注がれることはなかったのです。ですからイエス様は天の門を開くために、宣教の幕開けのために、この世に来られたのです。
ですから私たちの目的はイエス様をまず信じること、そして聖霊の注ぎを豊かに受けることではないでしょうか。
イエス様は神様です。神の性質とは何でしょうか。全知全能です。イエス様も出会った人の背景の全てをご存知でしたし、ご自分が発せられた言葉がどうなるかも全てご存知でした。イエス様は歴史を全てご存知の上で、助け主を送ると言われたのです。
私たちは自分の目で全てを悟ろう、未来を見ようとしてもそこに神様の御思いはありません。神様が私たちに願っていらっしゃるのは、私たちが主の目線に立ってこれからのことを見ることです。イエス様が見ておられた景色は宣教の幕開け、大収穫の始まりです。ユダヤ人に伝えていた福音が、やがて全世界に広がることを知っておられて聖霊が注がれることを約束されたのです。
新島襄は同志社大学を設立する際、出資を募るため勝海舟の元に訪れました。
依頼された勝海舟は新島の人物を推し量るため、ある質問をしました「あなたの計画する大学が完成するのは、何年かかると考えていますか?」新島の答えはこうでした「200年です」ずいぶん時代が変わった先だと言うのです。自分は当然死んでいるが、新しい世代が活躍している時代を見据えていたのです。
イエス様は何を見ていらっしゃったのでしょうか?新しい時代が来るのを、新しい人々が立ち上がるのを見ていらっしゃったのです。その人々に聖霊が注がれ、神の愛が語られる、大胆に福音の業が行われる時代を見ていらっしゃったのです、その時代とは「今」なのです。
「何事でも私の名によって願うならば、私はそれをかなえてあげよう。」
私たちが神の業を行うために必要なものがあるなら、イエスの御名によって父なる神に願うことは、何でもかなうと主は言っておられます。私たちのために助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう、と言われたその日は「今日」なのです。明日ではありません。過去のものでもありません。イエス様がおっしゃった「その日」は全て「今日」を指しているのです。私達はそのために、主に祈るために「今日」集まっているのです。あなたが信仰によって歩むならば、どんな困難が待ち受けていようと、信仰を失いそうになったとしても、あなたがたが求めるならば主が言われた「その日」は「今日」なのです。
イエス様の言葉は死んでいません。イエス様の言葉は生きているのです。イエス様の言葉は形になるのです。イエス様の言葉は歴史になるのです。
神様の霊が注がれる時、私たちの能力でできないことが出来るようになるのです。
私たちは「福音を伝えて信じてもらう」ことがどんなに困難か、何度も挑戦しては失敗した体験から知っています。しかし人がその罪を認めることができるのは聖霊の働きによるのです。イエス様を救い主と信じることができるのも聖霊の働きによるのです。
いやしの業や、神のあらゆる栄光の業が現わされるのも聖霊の働きによるのです。
「その日」が「今日」来ていると信じて祈ろうではありませんか。
私達はその助け主を「今日」降して下さい、と祈ることができるのです。信仰によって約束された「その日」を、明日ではなく「今日」お迎えしますと祈りましょう。


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