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投稿者 : ryokos2004peter 投稿日時: 2012-12-27 19:13:26 (1325 ヒット)
メッセージ

『マリヤ讃歌』


 み使いガブリエルからマリヤへの告知は、驚くべきもので、到底にわかに受け入れる事のできない事であった。彼女は、説明を求め、このことが神のみ力によってなされる事であり、自分を含むイスラエルの待ち望んでいたことであった事を聞き、マリヤは、従順に受けとめた。


 『お言葉どおりこの身に成りますように』マリヤは、仕方なしに答えたのでなく、≪マリヤ讃歌≫にもあるように光栄な事として、受け入れている。貧しい者を顧みられる神様が自分を用いて下さる感謝があった。これから通るであろう困難な事も神様が助けて下さると、信仰があった。

 私たちは、大きな問題がやってくると、否定的に考えて、その運命をつぶやいてしまう。しかし主は、どんな時も私たちを顧み、素晴らしい道へと導いて下さる方である。          ルカ1:2656


投稿者 : ryokos2004peter 投稿日時: 2012-12-21 19:51:05 (1297 ヒット)
メッセージ

『平和の君』


 この預言が語られた当時、政治が腐敗し、人々の心は、神から離れ、良からぬ人に頼り、他の神々や占いに走っていた。主は、いつも北からの脅威にさらされ、虐げられていた所に、救い主を生まれさせ光を当てて下さると約束をされた。

戦争や罪のために、苦しんでいる者に主は、平和の君となって下さった。それは、ギデオンが‘ミデアンの日’にたった300人で、勝利したように、人の力ではなく、主のみ力によって成し遂げられる。もはや兵士の武具などは不必要になる。

イエス様は、私たちと神様との間を、平和にするために、十字架にかかるため、生まれて下さった。いつも主との平和を保つために、心を主に向けて歩みましょう。そして、混乱のこの世にあって、平和のために祈る者となりましょう。

                         イザヤ9:1〜7


投稿者 : ryokos2004peter 投稿日時: 2012-12-07 19:49:45 (1375 ヒット)
メッセージ

『インマヌエルの主』


 スリヤと北イスラエルが同盟を組んだ。というニュースを耳にして、南ユダのアハズ王や民の心は、恐れでいっぱいになる。しかし主は、敵の敗北を宣言し、アハズ王たちに心を静めて、恐れてはならない。と言われる。 しるしとして与えられた‘おとめがみごもって男の子を産む’というのは、人の力では成しえない神様のしるしを現されている。また全人類の救いのしるしであり、この方が、インマヌエル(神がわれらと共にいる)というしるしである。


 

 危機的な状況の中にこそ、主は介入し、働いて下さる方である。アハズ王は、信仰的な言い方をしていたが、実際はアッシリアに傾いて行った。私たちは、主に信頼し、主に目を向けてまいりましょう。インマヌエルの主は、私たちと共にいて、共に闘い、助けて下さる主である。

                         イザヤ7:3〜14


投稿者 : ryokos2004peter 投稿日時: 2012-11-29 18:14:16 (1292 ヒット)
メッセージ

『勝利の生活』


クリスチャンは、二人の自分があると言える。生れながらの自分とイエス様によって、救われ神様の性質にあずかる者とされた新しい自分である。しかし、救われたと言っても、古い性質と新しくされた性質のはざ間で、闘っているのも事実である。

信仰を持って、クリスチャンになったのに、罪の誘惑に負け、‘自分は救われていないかも?’と落ち込んでしまう人もいる。けれども、イエス様が私たちのために、十字架に架かり勝利して下さった事を忘れないでいたい。

新しい命に生きるため、私たちは、古い自分を捨て去る事が必要である。様々な罪の誘惑との闘いの時に、自分の頑張りで、勝利する事は出来ない。私たちを助けて下さる聖霊の力によって、日々強められて、日々新しくされる事が必要である。

                            ガラテヤ5:1617


投稿者 : ryokos2004peter 投稿日時: 2012-11-23 18:37:59 (1333 ヒット)
メッセージ

『与える者の幸い』


 


ザンビアで『孤児院』を建築し、現地の子供たちのために働く日本人女性の証を読み、その捧げ尽くしておられる姿に感動した。私は、どれだけ捧げる歩みをしているか、反省させられた。

パウロは、困難の中で、多くを捧げ続け、もう会う事の出来なくなるエペソ教会の長老たちにメッセージを残している。群れを見張る者として、み言葉が彼らを整え、み国を継がせる力を持っている事を語る。

 パウロは生活を通して、受けることより与える事の大切さ、幸いを示してきた。それは、十字架に至るまで、与え尽くして下さったキリストの教えそのものである。私たちは、ともすれば‘受けること’ばかり求めてしまう。しかし、誰かのために、祈りや愛の業や言葉…与えることが出来るのではないだろうか? それこそが主に喜ばれることではないだろうか?            


                             使徒20:2835


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