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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-11-30 16:26:15 (39 ヒット)
メッセージ

『主なる神が助けてくださる』イザヤ50章4〜11節
神の御言葉によって「疲れた者をことばで励まし」「暗い中を歩いて光を得ていなくても、なお主を依り頼みおのれの神に頼る」ことができるように、まず「主のしもべ」たる自分がよく聞くことです。「聞く」という行為は意識していないと難しいものです。会話は互いに言いたい事を一方的に言い合うだけでは、関係性を築くために有意なものとなりません。相手の思いや意図をくみ取るために必要なのは、まず静かに聞くことです。旧約で「耳を開く」という表現がよく出てきますが、神の言葉に聞き従うことを意味します。申命記などで、奴隷は6年間働いたら7年目には自由となりますが、奴隷が主人の元に残ることを望んだら、自ら耳をきりで刺し通すことで主人に対する従順のしるしを意思表示したのです。それゆえ「耳を開く」というのは強制的にではなく自発的に、主人(神)に対して私という存在をゆだねることを表します。神の言葉を人に教え、語るためにはまず何が真理なのか、自分がよく学ばなければなりません。研ぎすまされた剣のような御言葉をよく聞き、よく学ぶ中で心の目が開かれ本質が明らかにされるのです。 5節では主のしもべの苦難が予告されています。罪ある者のように背中をむち打たれました。イエス・キリストも人の姿をとって来られ、このような侮辱を受けながらも苦しさ悲しさ、人の罪に対する怒りを耐えられたのです。それは私たちへの愛ゆえにその苦難を引き受けられたのです。私達も人に辱められても自分自身が恥じ入ることはない、落胆、失望することはないのです。火打ち石=最も堅い石のように、信仰の堅さゆえに苦難を受けとめることができるのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-11-21 22:00:54 (46 ヒット)
メッセージ

『わが報いはわが神と共にある』イザヤ49章1〜13節
42章での「主のしもべ」に期待される働きとして「公義を行う」とありました。それは正しく法(律法)を取り扱うことです。神がイスラエルに律法を与えてられてから歳月を経る間に律法が守られなくなったり、趣旨が曲げられ恣意的に用いられるということがありました。傷んだ葦(カノン=原理・基準)すなわち御教えを回復し成就するために「主のしもべ」たるイエス・キリストは来られたのです(マタイ5:17)。49章で主のしもべ「私」は主なる神によって「鋭利な剣」「研がれた矢」にされたとあります。剣とは御言葉の比喩です。エペソ人への手紙に「御言葉の剣」が出てきますが、突然脈絡なく出てきたのではなく旧約ですでに神の言葉が「鋭利な剣」として用いられていたのです。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣より鋭く、魂と霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心の色々な考えやはかりごとを判別することが出来ます(ヘブル4:12)」心の奥深く入り込む力を持った御言葉により養われ、やがて用いられるために主にとどまる(隠される)のです。主に用いられることは感謝なことです。しかし、「いたずらに働き、益なく、むなしい力を費やし」結果が出ない、先が見えない日々が続いたり反対にあうと、疲れを覚え徒労感に心が覆われることがあるでしょう。いつも成功・勝利・前進とは限らない、むしろ後退することもある。それが預言者をはじめ福音に奉仕する者の嘆きです。それでは「主のしもべ」の目的(:6)は何でしょうか。それは.ぅ好薀┘襪硫麌、異邦人の救いです。神の願いはユダヤ人もそうでない人も、全ての人々が救われることです。パウロの世界宣教の根拠の一つはイザヤ書だと話しました。イエス様の登場の700年前に異邦人伝道のことが預言者イザヤを通して語られていたのです。主のしもべとしての働きの中で実りが無いように見えても、この小さな奉仕は決して空しいものではなく神のご計画の中で意味あるものだと知ることが、私たちに与えられる報いです。主を仰ぎ見る中で、信仰を回復し立ち上がることが出来るのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-11-13 09:24:21 (49 ヒット)
メッセージ

『わたしの支えるしもべ』イザヤ42章1〜9節
「神が共におられた」「ダビデの道を歩んだ」などいくつかある信仰者の良き形容に中に「主のしもべ」があります。神の御心を行う者、救いのご計画を地上で実現するために遣わされた者のことです。イザヤ書に頻出の「主のしもべ」ですが、誰が「主のしもべ」なのでしょうか。考えられるのが.瓮轡↓⇒存声圻Aばれた者ぅぅ好薀┘襪任后キリストについての預言もあれば、弱さを覚える主を信じ仕える者に対する慰めと励ましがあるからです。「主のしもべ」の特徴は/世忙戮┐蕕譴討い覘⊃世亡遒个譴觴圓任△覘神に選ばれた者であるた世慮耄遒覆訐士遒鬚い燭世い討い襪海箸分かります。「主のしもべ」の働きは々顱垢紡个係義をもたらす▲ぅ┘后Εリストによる新しい契約を伝える0柬人に対し神を畏れる道を教え、いのちの光の希望を伝えるさ圓欧蕕譴深圓紡个靴動徹任了拉曚らの解放を告げることです。広範で力強い働きが期待されますが「主のしもべ」はその働きを戦車のように怒涛の如く推し進めるようなものではなく、痛みを抱える人の魂に配慮し、消えかかった神の律法を再び燃え立たせるように御言葉を回復する使命を果たすのです。また抵抗や迫害があってもその働きを止めることはせず、衰えず、落胆せず、ついに道を確立するのです。神を信じる私たちも主のしもべといえますが、弱さと愚かさを持つ身です。如何にくじけずにその使命をなしとげることが出来るでしょうか。それは自分で選んだ働きではなく、神が私を選び、神の霊を注いで任命されたことを知ることです。神の守りと支えを信じること(:1)、聖霊に委ねること(:5)、正義を行われる神が全てを成して下さる(:6)と期待し、信仰の生涯を歩んでまいりましょう


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-11-08 10:18:15 (54 ヒット)
メッセージ

『喜びのうちに救いの水を』イザヤ12章
救いの井戸とは尽きることのない恵みの源泉を意味します。信仰者はその泉から喜びをもって恵みを汲み取っていくのです。かつて井戸または河川から水を汲み取り運ぶ作業は大変重要な労働でした。旧約では創世記に「水を汲む」作業は頻出します。アブラハム物語の終盤イサクの嫁探しにおいて、僕のエリエゼルがイサクにふさわしい娘を教えて下さいと神に祈り、自分に水を汲み入れ、ラクダ達にも飲ませてくれるよう願うと、その条件を満たす娘リベカが現れました。新約ではヨハネ福音書のサマリヤの女性はイエスから「わたしが与える水を飲む者は誰でも決して渇くことがありません。わたしが与える水はその人の内で泉となり永遠のいのちの水がわき出ます」と話され、「その水を私にください」と願いました。最初は水汲みの労働からの解放を期待したかもしれませんが、イエスが与えんとする水とは霊的な真理、救いの喜びのことでした。後にこのサマリヤの女性はイエスを信じ永遠のいのちの源泉を得たのです。人と出会うことを嫌っていた女性は、自ら人々に証しする者と変えられたのです。その恵みは信仰者にとって慰めであり、励ましであり、力になるからです。仮庵の祭りは水取りの儀式です。祭りの最初の日に折り立てた柳の木が、最後の日には水がないためしおれ、その横で主に祈りをささげるのです。水は命そのもの、水がなくなれば枯れてしまう木のように、私達は神の恵みなしでは生きていけない、どうか救ってくださいと祈るのです。その祭りの最後の日、イエスは「だれでも渇いているならわたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになる。」とおっしゃいました。救いの喜びとは私達が努力して汲むものではなく、救い主イエスを信じることで、神様からの賜物として腹の底から湧き上がりあふれてくる、真実なる主を知ることの喜びです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-11-02 21:42:09 (55 ヒット)
メッセージ

『サウル王の死』サムエル上31章
サウル王、ダビデ共に絶体絶命の危機が訪れましたが、それぞれがとった行動により人生の明暗がはっきり分かれたのです。ダビデはペリシテ軍に席を置くも不信任により離脱を余儀なくされ、チクラグへ帰還します(29章)。するとアマレク人の略奪隊によって家族は連れ去られ財産も奪われ火を放たれていたのです(30章)。部下たちは非常に悲しみ怒り、自分たちがこんな目にあったのは指導者であるダビデのせいだ、石打にして殺してしまおうという者さえ現れました。ダビデはこの危機に際し、信仰を回復し主に伺います。するとアマレクの略奪隊を追跡せよと示され、部下たちと共に直ちに行動します。そしてアマレクの略奪隊を襲撃し家族を取り返すことができ、さらにアマレクが方々で略奪してきたものも奪い、部下たちだけではなくユダの町々の長老にも分配したのです。それはダビデがイスラエルに帰る道備えとなりました。一方サウル王は迫りくるペリシテの脅威にどうしたらよいか相談できる者がなく、ついにイスラエルでは禁忌の霊媒師によりサムエルの霊を呼び出します(28章)。そこではっきりと、イスラエルの今の状況は主が造られたもので、サウルと息子たちとイスラエルはペリシテの手に渡されると宣告されます。その後サウル王とイスラエルの精兵はギルボア山でペリシテ軍と激突し、サウル王と息子たち(ヨナタンら)が戦死しました。彼らの死体は城壁にさらされ辱められました。それを聞き、心を痛めたヤベシュの住民が夜陰に乗じて遺体を回収し、ヤベシュに葬りました。ヤベシュ・ギルアドの住人は、サウルが王として即位してから最初の異民族との戦いに勝利しアンモン人を追い払ったこと(11章)を恩義に感じていたのでしょう。サウルは全イスラエルの王として認められましたが、不信仰によりリーダーには不適格として神の霊は離れていきました。ダビデとの違いは、他者を神に愛された人として敬い自身のことも神のしもべとして神の愛と赦しを受け取ったか否かでした(ペテロ2:16・17)


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