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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2020-10-30 23:55:02 (59 ヒット)
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「青銅の蛇」民数記21章
荒野での全ての期間、民たちは水不足という問題に悩まされました。主に命じられてホレブの岩を打った(出エ17章)時のように、メリバの水の時(民20章)も民たちは「あなたがたはこの荒野で死なせようとするのか」と騒ぎます。モーセとアロンは怒りのあまり感情的になり、権威の杖をもって岩を二度打ちました。この時神は「岩に命じれば、水が出る」と言われたのに、言葉通り命じるだけでなく、岩を二度も打ったのです。やがて来るキリストの救いとあがないは「ただ一度(一回限り)」というキーワードがあります。一度で最終的に決定してしまうことを意味する語彙です。神の子が人の罪のために身代わりとなられたあがないは完全で、やり直し、繰り返しはないのです。神の言葉に従って民たちを率いてきたモーセとアロンですが、「約束の地に入れない」と言われてしまいます。その後、エドムをう回して荒野を旅しますが、その途中アロンも亡くなります。う回する道の総距離はかなりのもので困難をきわめました。民たちは忍耐できなくなり、色々な心の思いが一挙に噴き出してしまいます。「私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした」と、天からのマナにも文句をつけます。神は炎の蛇を送られ、多くの者が死にましたが、モーセが青銅の蛇をさおの先にかけると、蛇にかまれた人もそれを仰ぎ見ると生きのびることができました。神の刑罰による痛みを経験した者は、救いを求め神に立ち返りました。誰でも罪を犯し、失敗をします。恵みによって生かされていることを忘れ、当然のことのように思い、不平不満をつぶやきがちです。荒野生活の民への訓練は、私たちの信仰の旅路に多くの示唆を与えます。十字架を仰ぎ見、神の守りと恵みに感謝しつつ歩みましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2020-10-23 17:16:38 (52 ヒット)
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「信仰と恐れ」 民数記13章、14章
民数記13章14章のカデシュ・バルネアでの出来事は申命記1章でも書かれています。申命記はモーセの回顧と遺言のようなところがありますが、カナン偵察隊は民衆からの発案で各部族の代表1名から計12名で結成され、これをモーセが許可し派遣したように書かれています。北端から南端までおよそ250劼離ナンの地を観察し、地形や土壌、先住民の様子などを40日かけて偵察し戻ってきた偵察隊は、豊饒なカナンの地と強大な先住民を報告しました。結論は2つに分かれます。土地は良いが敵が強すぎて入植することは出来ないという意見が10名、神が与えて下さる約束の地に間違いないから敵も征服出来るというのが2名。しかし10名の者が悲観的な意見を吹聴し不安を植え付け、恐れと不安が伝染しイスラエルの民衆は嘆き始めます。否定的未来を先取りし「エジプトで死んでいたらよかった」と落胆し、「エジプトへ帰ろう」と考え始めます。それはイスラエルを導かれた神のご計画に反逆することです。ヨシュアとカレブは「主にそむいてはならない」「主が私たちとおられる」「彼らを恐れるな」カナンの地へ入ろうと民衆を励まします。先住民や城壁を過小評価し、楽観したのではありません。信仰による勇気で、祝福された未来を先取りしたのです。しかし、かえって民衆は激高し2人を石打で殺そうとします。神は怒り、その結果ヨシュアとカレブ以外はカナンの地に入れなくなり、イスラエルは40年に渡る荒野生活が始まるのです。「あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである」(ペテロ3:9)という神の約束を信じ、「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認する」(ヘブル11:1)信仰によって、祝福された未来を先取りして喜び感謝しましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2020-10-13 14:59:30 (59 ヒット)
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「金の子牛を造る」出エジプト32章
神が律法を授ける40日の間、モーセの不在に不安を覚えた民たちはアロンに神々(偶像)を造るよう要求します。自分たちを導く存在が目に見える形でいないと、見守られている実感が湧かないのでしょう。アロンは民たちの要求を押さえきれず、金の子牛(偶像)の作成を命じて民衆に大きな罪を犯させます。後代イスラエルが南北に分裂した際、ヤロブアムは宗教改革を断行し、同様に金の子牛を造ります。すがる対象が人の目に分かる形である方が、それを所持する宗教指導者には都合がいいのです。アロンは金の子牛の前に祭壇を築き、会食のいけにえを捧げ、民たちは飲み食いし戯れます。神は「これはかたくなな民である」と怒りを表されます。うなじのこわい民:強情、頑なさを表します。神は罪を裁かなければなりません。モーセは山を下り、イスラエルの乱れ(宗教・倫理・性的乱れ)を目の当たりにして怒り、石板を打ち砕いてしまいます。そして金の子牛を焼き粉々にし、水にまぜて民たちに飲ませます。アロンの申し開きでは「この民が悪意に満ちている(民が悪い)」「身に着けている物を火に投げ入れたら、この子牛が出来た」と、責任逃れしようとします。でまかせの言い訳をしたり、自分は巻き込まれただけだと非を認めようとしない汚さ浅はかさは、アダムの代から人にはそのような性質があるのです。その点、責任を引き受けることは主体的に生きようとする者の態度の現れです。モーセはその責めを負い神に赦しを乞います。モーセの執り成しは、キリストの執り成しの型です。イエス・キリストはご自分は罪を犯されなくても、十字架により人々の罪の責任を引き受けられたのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2020-10-09 17:49:56 (66 ヒット)
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「わたしがあなたの神」出エジプト20章1〜8節
シナイの荒れ野に宿営すると山頂にモーセを呼びよせ律法を授けられる際、神はこれから語ることを聞き従うよう民に言うと、民は「行います」と答えますが、契約はそんなに簡単なものではありません。律法を行い、戒めを守り続ける、すなわち神に対する責任と義務を果たすことは難しいことであることを荒野40年の歩みの中で知ることになるのです。本日の箇所はその中でも十戒と呼ばれる教えの前半部分( 銑ぁ某世反佑箸隆悗錣蠅任后,錣燭靴梁召某澄垢あってはならない、わたしは妬む神である;多神教の日本人からすると一神教は厳しい宗教に思われますが、主である神の情熱、人への愛が真剣ゆえに妬みも怒りも生じるのです。燃え立つ感情、熱心さで人を救いに導かれるお方です。⊆分のために偶像を造ってはならない;偶像は宗教の形骸化へつながり、また人の手で生み出したものが神格化する危険もあります。インマヌエルの神は「共にいてくださる神」であり、聖体が安置してある場所、空間にとどまらず、信じる者一人ひとりに寄り添って下さる方です。主の御名をみだりに唱えてはならない;祈りや賛美、神に救いを呼ばわるのを禁止しているのではありません。神の名を呪いに使ったり、侮辱して神の名を汚すような呼び方をしてはならないというのです。ぐ詑日を覚えてこれを聖とせよ;忙しい日常や騒がしい心を「断絶」し、心を静めて神に思いを向けるよう時間を聖別せよと推奨しています。神との交わりで身体、心、霊性の回復が与えられるのです。イエス様が律法を集約した教えは「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くしてあなたの神である主を愛せよ」であると言われたように、私たちも神様との関係を大切にしましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2020-10-09 17:45:54 (60 ヒット)
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「天からのマナと命のパン」出エジプト16章
無事にエジプト軍の追跡をまぬがれましたが、イスラエルの民たちは荒野で3日間、飲み水が見つかりませんでした。生存の保障がないという強いストレスにさらされ、民たちは不平不満を言い始めます。マラでは水が苦くて飲めなかったので、モーセが主に示された木を投げ入れると甘くなりました。「示す(投げる)」ヤーラーという語は「教える、指示する、方向づける」という意味があり「律法」トーラーの語源と言われます。モーセに示された一本の木は「律法」(神が人に示す御教え)を象徴しています。木を投げ入れることで苦い水が甘い水に変わったことは、神の指標である「律法」を守り、主の声に聞き従って生きることで、苦みが喜びに変わることを表しています。その後、シンの荒野で深刻な食糧問題に悩まされます。会衆の不平を聞かれ、主は夕方にはうずらを、朝には天からマナを降らせました。不思議な食べ物マナは各自の食べる分だけ、必要に応じた量だけ集めることができ、蓄えようと思っても翌朝まで取っておくことはできません。そして安息日にはマナは降らないので、6日目には2倍とっても翌日も腐らず虫もわかず食べられたのです。マナを通してイスラエルの民にされた信仰の訓練は、主が与えられるものを管理すること、安息日を守り、日々の必要は主が備えてくださることを経験として知るためでした。現在、私たちの霊の糧として、聖書の御言葉があります。いのちのパンである御言葉は、日々私たちを生かす力となります。御言葉に親しみ、神の守りと臨在を体験できますように。


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