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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-04-29 17:06:13 (43 ヒット)
メッセージ

「復活のイエス」マタイ福音書28:1〜15
ヨハネの福音書11章でラザロが死んだ時、姉妹のマルタは「終わりの日によみがえることは知っている」と言いました。当時1世紀のユダヤ人の間にも復活はあると考えられていて、世の終わりの時に神を信じ敬う者全てがよみがえるとされていました。しかし、この時イエスご自身お一人で死からよみがえられるとは誰も思いもよらないことでした。十字架で死なれたイエスの遺体を弟子たちが盗み、イエスは死んでいないと民衆を惑わすことを怖れたユダヤの指導者たちは、イエスの墓に番兵たちを置くようピラトに願い出ました。しかし人間がどんな力をもって阻もうとしても、神のご計画は必ず成るのです。死に閉じ込められることなく新しいいのちと肉体をもって現れたイエスは、弟子たちと触れ合い、共に食事もされました。イースターの出来事は前にも後にも類例がない、一度きりの歴史的なことであり、新しい時代の幕開けでした。主の復活に、十字架前にイエスにつき従っていた弟子たちは恐れと不安、とまどいと喜びがないまぜになっていました。彼らもまた、やがて来たるべき終わりの日によみがえりがあることは信じていても、イエスご自身が生前に「ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいる」(マタイ12:40)「人の子は‥殺されるが、三日目によみがえります」(マタイ17:23)と折にふれ話されていた言葉が本当に成就したことに半信半疑だったのです。人の心は翻り、その言葉も行いも変わりやすく移ろいやすいものです。しかし神の言葉は一貫して昔も今も変わらず、人を生かすいのちの力を吹き入れるのです。イエスが捕まった時に逃げ隠れて散り散りになった弟子たちであっても、イエスご自身の弟子たちへの愛と信頼は変わらぬものでした。弟子たちは復活の主にお会いして神の真実さを知ったのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-04-20 18:09:02 (28 ヒット)
メッセージ

「救い主イエスの死」マタイ福音書27:27〜50
肉親や生まれた土地など自分の存在の根源的な部分を侮辱されると、自分自身が否定されたようで怒り憎しみを通り越して虚しさに襲われることがあります。人の能力や努力によっても動かすことが出来ない事柄に付け込んで人をおとしめようとする行為に、人の闇の部分(罪深さ)を見るからです。人の言葉を適当に回避する知恵もない子ども時代にそのような体験をすると、いやし難い心の傷が残ります。「敵を愛せよ」「迫害する者のために祈れ」と言われても、耐え難い侮辱と中傷、嘲笑を受ける時、憎しみや怒りに染まることなく、呪いの言葉を吐くことなく、自分を傷つける者を愛する。人間には出来そうにもありません。主から愛と知恵、勇気をいただきましょう。イエス・キリストが私たちの大盾となって守ってくださいます。人権という言葉も概念もない時代、裁判で死刑となったイエスに対する扱いは、それは酷いものでした。ローマ兵に辱めと暴力を受け、指導者に煽られた群衆からは死ねという大合唱。人は多数派に同調しようとするところがあります。それが平時ではとても受け入れられない思想だったとしても、それが多数派を占める場合、それが正義だと思い込み、狂気がまかり通るのです。大勢の人がやっている、自分は勝者側にいると思うと、人は違和感なく容易に残虐性を発揮することがあります。戦時の混乱に乗じて残忍なことや非道がまかり通るのもそのためです。普段ローマに虐げられていたユダヤの人たちは、救世主と名乗りながら自分たちを解放し得なかったイエスをここぞとばかりに罵倒しました。私たちは機会あるごとに人の罪や愚かさを繰り返し学びましたが、この十字架の場面が最たるものでしょう。クレネ人シモンは鞭うたれ傷つき体力を失ったイエスの代わりに十字架を刑場まで担いでいくようローマ兵に命じられます。最初は巻き添えを食らって迷惑だと思ったことでしょう。しかしこの十字架は人々の罪をあがなうために罪のないイエスが犠牲となられた、人々の痛手を一身に引き受けられたのだと知り、やがて彼と彼の家族も救われるのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-04-18 11:16:21 (44 ヒット)
メッセージ

「証言」マタイによる福音書26:57〜75
本日の聖書箇所には証言する場面が3つ出てきます。(1)大祭司と議員たちによる裁判 (2)イエスの証言(3)ペテロの証言です。(1)裁判はイエスを殺めるために準備されたものでした。宗教性と民衆の秩序を守るという大義を隠れみのに、自分たちの権威・利益を守ろうとしたのです。イエスを排斥しようとする人々の偽りの証言はイエス処刑の理由にはなり得ません。しかし最後の2人から「神の神殿を打ち壊し、3日あれば建てることができる」とイエスが言っていたという証言は、聞く者によると神を冒涜する立派な理由になったのです。というのは当時のエルサレム神殿はヘレニズム文化の一つの頂点というほどの壮大で荘厳なもので、ヘロデ大王による工事開始から完成まで40年程かけたものでした。ユダヤ人の宗教的な誇りでもあったのです。その聖なる神殿を打ちこわし3日で建て直すなど冒涜以外何ものでもなかったのです。イエスのことばの真の意味はヨハネ福音書(2:20〜22)に解説があります。3日あれば建てなおすとは十字架によって殺されても三日後によみがえる主の復活のことだったのです。神を信じる者の体、すなわち神が住まう神殿(聖霊の宮)のことでしたが、そんなことは誰も理解できませんでした。(2)「お前は神の子メシアなのか」という祭司の問いに対し、「わたしは言っておく。間もなく人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」と、イエスご自身が審判者として来られる再臨を予告したのです。祭司長たちからすると想像を超えたイエスの受け答えは死刑の理由の決め手となったのです。(3)同じ頃、裁判が行われていた屋敷の邸内にいた弟子のペテロは3度「イエスなど知らない」と証言しました。「わたしは死までもお供します」と誓ったのに、彼の信仰や情熱はもろく崩れ去りました。鶏の鳴く声に「3度知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、外で激しく泣き崩れます。自分の弱さ、汚さ、嫌らしさに打ちのめされたのです。しかし実に信仰はそこから始まるのです。救い主イエスは罪深い人のために救済者として来られたのです。自分を含め何者も抗うこと出来ない罪と死に勝利してくださる主イエスが、今日も迷える私たちに十字架による犠牲でもって神の愛をお示しくださるのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-04-11 14:24:20 (50 ヒット)
メッセージ

「契約の血」マタイ福音書26章17〜29節
過越しを守ることは律法に定められたことです(出エジ12章)。各地からイスラエルの民が過越しの祭りのためにエルサレムに集うので、大勢の人で賑わっていました。前もって準備しなければ宿泊・食事に支障をきたしたことでしょう。弟子たちがイエスに相談すると、すでにイエス様は段取りされていたようです。何食わぬ顔で会計係のイスカリオテのユダもその準備に携わっていたことでしょう。過越しの食事の席でイエスは一人の弟子の裏切りを予告します。ユダは自分たちの願いや計画・予定とイエスの目的は異なることに気づき、早々にイエスに見切りをつけ、祭司長にイエスの居場所を告げて銀貨30枚で売り渡します。神の御子が全ての人の贖いのため犠牲になる。それは神のご計画でしたが、そこに至るための道筋はいくつもあったことでしょう。人が与えられた自由の中で、信頼している仲間を欺き、主イエスを裏切る。それは忌むべきことで神が悲しまれることなのです。イエスは最後までユダが考えを変え、悔い改めることを望んでおられましたが、イエスの促しにかかわらずユダはやがてイエスのもとを離れます。イエスはパンを割き弟子たちに与え杯を取り、これは多くの人(全ての人)のために(代わって)流す契約の血(犠牲)であると話されました。人々の思いもよらない方法でもって神の罪の赦しと救いのご計画は粛々と進んでいたのです。十字架、復活、昇天、聖霊の注ぎを経て信じる者たちは、キリストが人の姿を取られこの世に来られたことと死の意味を知るのです。そして過越しの食事は聖餐へと形を変えて行われ続けるのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-04-06 07:18:51 (53 ヒット)
メッセージ

「エルサレム入城」マタイ福音書21:1〜11
人間関係において生じる悩みの解決は、人との関わり、つながりによって解決が与えられることがあります。しかし、罪と死についての問題の解決はイエス・キリストの十字架によらなければなりません。世界にはあまたの神々や宗教があり、右に行こうか左に行こうか迷ううちに真理にたどり着けずに生涯を終えてしまうこともあります。私たちが信じている神は世界を造られた方です。この神の御子であるイエス・キリストが救い主であり、罪と死について解決を与えて下さったことを信じるなら、真理について迷うことはありません。しかし、イエスがこの世で働きをされていた当時の人々は、イエスが何者なのか分からず、判断に迷い、イエスを拒む人もいました。説教箇所の当時のエルサレムには100万人以上のユダヤ人が過越しの祭りのために集まっていました。そこにイエスは子ロバに乗って入城されました。群衆はイエスを歓迎しつつも、人々が望むメシヤ像はローマから解放する政治的な王でしたので、少し複雑だったことでしょう。軍事利用された馬でたけだけしく入城するのではなく子ロバに乗られたイエスは平和の王として、柔和な方として来られたのです。ゼカリヤ書9:9の預言の成就です。ここでの柔和というヘブル語は「貧しい、苦しむ、悲惨、へりくだる」という意味もあります。貧しくみじめな姿で苦しみに耐える王が来られる、というのは人々が望む政治的な救世主のイメージには合わないのですが、これこそまさにイザヤが預言している「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている」(イザヤ53:23)メシヤの姿でした。私たちの痛み苦しみを担い、弱さや至らなさを知ってくださる王イエスが救い主(メシア)として来られたのです。


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