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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2020-07-03 10:45:33 (76 ヒット)
メッセージ

「聖霊に満たされて」使徒行伝4:1〜31
美しの門での奇蹟とペテロの説教により、救われる人も大勢いましたがユダヤの指導者たちは危惧を抱き、ペテロとヨハネを逮捕させました。弟子たちの受けた最初の迫害でした。ペテロたちは「あなたがたに聞き従うより神に従う」「自分の見たこと聞いたことを語らないわけにはいかない」と述べ釈放された後、仲間のもとに帰りました。困難なことが生じた時、どうするべきでしょうか。ここではイエス・キリストを信じる仲間たちと心を一つにして祈ることを教えています。祈り合う信仰の兄姉・友人がいると、聖霊が私たちの信仰を引き出し、心を強めて下さるから幸いです。また一人で祈るとしても父なる神に向かいイエスの名前によって祈る時、聖霊が働いて下さるから孤独ではないのです。聖霊は祈りの言葉を唇に与え、真理へと導き、信仰を引き上げてくださるお方です。またこの4章1〜31節には「聖霊によって」「聖霊に満たされて」と繰り返されています。弟子たちは聖霊に満たされ力(信仰による勇気)をいただき、大胆にキリストを証しすることができたのです。ペテロとヨハネが特別だったのでしょうか。彼らの力と知恵に驚くユダヤ指導者たちでしたが、世間の評価では無学なただの人とあります。それが大勢の人の心を動かすほどの弁舌をふるい、力ある業を行ったのは、彼らがキリストと共に歩む者、御霊によりキリストの名が刻まれている者だったからです。ペテロら弟子たちと今を生きる私たちを繋ぐものはイエス・キリストへの信仰です。創造主なる神を誉めたたえ、聖霊の御業が行われることを願い、イエスの御名によって心を合わせて共に祈りましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2020-07-03 10:44:01 (69 ヒット)
メッセージ

「イエス・キリストの名によって」使徒行伝3:1〜16
ユダヤの習慣に基づき信仰生活を送っていたペテロたちは午後の祈りの時間、宮に向かって歩いていました。すると生まれつき足の不自由な男の人が運ばれてきて施しを求めたのです。ペテロは言いました「金銀はわたしにはない」ペテロは本当に何も持っていなかったのでしょうか。もし少しの銀貨を持っていて、他の人と同じようにこの男の人に施したとしても、それは一時的なもので終わり、彼が人に依存する生活を変えることはできなかったでしょう。「わたしにあるものをあげよう」それはキリストが弟子たちに与えた権威、イエス・キリストの名による祈りの力でした。男の人はイエスの名による祈りで立ち上がり、躍り上がって歩き出したのです。彼がはじめに期待して求めた施しとは違いましたが、ペテロが与えたもの・イエスの名によって癒され、彼の人生が変えられたのです。信仰者でなければ出来ないことがあります。それはイエスの御名によって祈ることです。信じていない人は、祈りが何の役に立つのかと不思議に思います。ただの気休めのように感じられます。確かにその祈りに信仰が無ければ、空しい言葉の飾りで終わります。しかし信仰者は御名による祈りに力があると考えます。また祈りは、癒しをもたらすだけではなく祈る者に仕える喜びをもたらし、思いもよらない恵みが与えられることを学びます。祈りも信仰も賜物です。この男の人は癒されただけではなく信仰もあたえられ、神をほめたたえ賛美ささげたのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2020-06-19 12:12:47 (84 ヒット)
メッセージ

「わたしたちはその証人なのである」使徒行伝2:22〜42
大勢の人に聖霊が注がれて御霊が語らせるままに他国の言葉で神をほめたたえている様子にとまどっているエルサレムの人々に対し、ペテロは立ち上がって説教を始めました。それはイエスの十字架についてと、聖霊についてです。聖霊はヨエルの預言の成就であり、神の赦しのしるしであると。十字架は神の定められたご計画であり、死の苦しみから解き放つためイエスは復活されたのだと。ペテロの解釈ではダビデはキリストの復活について予見しており、そのキリストはイエスであると語りました。復活のイエスは神の右の座にあげられた、すなわち神に最も近い栄誉ある特権を持ち、約束された聖霊を注がれたのだと。これらは生前、イエスが話されていたことでした。ペテロは身近にイエスの語られることを聞いていましたが、その時は本当に理解することはできませんでした。しかし聖霊によって思い起こされ、「あの時、主がこのように言っておられたではないか」「あの御言葉は、このことだったのか」とイエスの言葉と聖書の内容を結びつけながら、語る言葉が与えられたのです。それを聞いた人々は大いに心を打たれ、神がメシアとされたイエスを自分たちの手によって殺してしまったことに強い罪責感をおぼえて「私たちは何をすべきでしょうか」と心を痛めました。ペテロは悔い改めてキリストの名によりバプテスマを受けることを勧め、この日に3000人ほどが洗礼を受けました。人にはできないことでも、神にできないことはないのです。
私たちは皆、そのことの証人なのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2020-06-19 12:11:27 (92 ヒット)
メッセージ

「主の名を呼び求める者は」使徒行伝2:14〜21
五旬節はユダヤの三大祭りで、シナイ山で律法が与えられたことを祝い感謝をささげる祭りです。朝の9時はユダヤ人が神殿へ行き、祈りをささげる時間です。エルサレムに各地から集まった大勢の人がいる状況で、突然大きな物音がして聖霊に満たされた120名ほどの人が口々に異言で祈り出したのです。その様子を目撃した人々は驚き怪しんだり、酔っ払っているのだとあざける人もいました。そこで主の弟子のペテロが立ち上がり、これはヨエル預言の成就なのだと話し始めました。神を信じ従う者なら、若い人も年を経ていても関係なく、男女の区別なく身分にとらわれず、全ての人に神の御霊が注がれるというのです。かつて旧い契約の時代、神に選ばれ御霊に満たされ用いられたモーセやエリヤ、ギデオンら信仰の偉人たちがいました。しかしそのような「特別な人」だけでなく、キリストにより贖いの業が成され神との新しい契約の時代に入った今、全ての信仰者に神の御霊なる聖霊が注がれるのです。聖霊は神の子としての保証です。また聖霊は主イエスの御業や教えを思い起こさせ、真理へと導いてくださり、祈りをとりなしてくださいます。「語るのは聖霊」であるから、恐れることなく神に信頼しながら「地の果てまでわたしの証人となる」勇気を与えてくださるのです。主の名を呼び求め、イエス・キリストを主として信じる者は救われ、内に宿る聖霊が活き活きと生かしてくださり、キリストの証人とさせてくださるのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2020-06-05 10:28:28 (92 ヒット)
メッセージ

「聖霊に満たされ」使徒行伝2:1〜13
ルカの福音書の冒頭では、聖霊に満たされたザカリヤ、エリザベツ、母マリヤが神を賛美し、主イエスの受胎を喜びます。使徒行伝でも聖霊に満たされた使徒たちにより教会が誕生し、世界宣教へと進んでいきます。神の業は聖霊によって始まり、聖霊に導かれ歴史は進んでいくのです。聖霊は父なる神からの約束の御霊でした。復活のイエスを信じる人々が聖霊を待ち望み期待して祈っていると、ペンテコステ(五旬節)の日に聖霊が下ったのです。突然、激しい風のような音が聞こえ、そして炎が分かれて一人ひとりの上に留まったのです。聖霊に満たされた人々は様々な国の言葉で神を誉めたたえたのです。風はヘブル語でルアハ〈息・霊〉とも言われ聖霊の象徴であり、炎も罪をきよめる聖霊のしるしです。神の霊が一人ひとりの唇をきよめ、神を賛美する言葉を与えます。異言は他国の言葉であり、自分の知性では理解できない言葉かもしれませんが、それを聖霊が語らせるまましゃべる時、その人は平安と喜びに満たされているのです。様々な思い煩いやためらいを越えて、父なる神に祈れるからです。創世記のバベルの塔の時に神が人の言葉を分けられたのは、人間の慢心や神に背くたくらみを共謀できないように、互いの言葉を理解できないようにされ、人は散らされたのです。でも異言の祈りは、互いに何を言っているのか分からなくても、口にする言葉は唯一の神をほめたたえているのです。私たちの知性をはるかに越えた神の素晴らしさを褒めたたえるのです。


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