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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-11-30 14:50:39 (61 ヒット)
メッセージ

「神の計画」創世記45章1〜8節
何故私はこのような苦しみを経験しなければならないのか、何故自分だけこのような不幸が続くのか?現在の状況を受け入れる理由として、これも全能なる主の御手の中の出来事である、と考えられれば幸いです。私だけ幸福から見捨てられた運命なのだ、という諦めでは悲しみと痛みが付きまといます。また人や社会・時代を責めれば、怒りが込み上げ虚しさが心を覆います。ヨセフの生涯は苦難の連続でした。兄弟に嫌われ外国へ奴隷として売られ、一生懸命仕えた家では讒言にあい牢屋に入れられ、夢を解き明かし王にとりなして下さいとお願いしても、しばらく忘れ去られていました。元はといえば兄達の妬みからこのような現状に陥ったのですが、その兄達に自分の身分を明かそうと決断した時、ヨセフは長年の恨みを晴らそうとしたのではなく、私が今ここにいるのは神の計画である、ヤコブの家族を守るために先にエジプトに遣わされたのだと語りました。私達の人生の中で起こる辛い出来事、それによる私達の悲しみや痛みを神は放任されてはいません。その出来事を用いて神は何かをされようとしています。私達が何かに執着しそれが人格の成長を妨げているのであれば、神はその執着を断ち、違う方向に目を向けさせるために大事にしているものを取り去られることがあります。時間的経過で人生を顧みると、あの苦しみの出来事が益と変えられたという神の視点が与えられ、その痛みに寄り添いずっと支えて下さった主の存在に感謝する時が来るのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-11-22 15:16:53 (58 ヒット)
メッセージ

「恵みの相続人」ガラテヤ書4章1〜7節
金持ちが代々その富を相続していくには管理能力、経営能力などを伝授していかなければ維持していくことはできません。良い相続人がいなければ財産はあっという間になくなってしまいます。目に見える財産の分配は、時に争いの原因になります。けれども形の無いものは皆あまり欲しがりません。聖書では目に見えない財産、知恵について教えている箇所が箴言を始めたくさんあります。私が大切にしている教訓にこのようなものがあります。「一番大切なものは『心』の中に入るもの:信仰、二番目に大切なものは『頭』の中に入るもの:知恵、三番目に大切なものは『手に着ける』もの:技術、四番目に大切なものは『手で持つことができる』もの:金や銀」この順番を入れ違うと、道を誤ります。何を手に取るかより、何を心の中に入れるかが重要です。イエス様のパンの奇蹟の物語では、お腹が減った群衆がパンをいっぱい食べましたが、あの時イエス様を信じた人たちはその場の空腹をしのいだだけではなく、生涯を信仰によって支えられたのです。私達も物語を聞いて、今そのパンを受け取ることはできませんがイエス様の御言葉が心に届いて、魂の飢え渇きをいやし満たすことができます。パンを手に取ることよりも、心を豊かにする御言葉のパンが大切だということが分かります。子孫に残すもの、動産や不動産なども彼らを生かす手段ですが「パンにまさるものがある」本当に大切な御言葉のパン、真理を、信仰を継承していきましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-11-17 11:43:36 (56 ヒット)
メッセージ

「恵み深き神」ヨナ書4章
ヨナ書は旧約には珍しい異邦人伝道が述べられている書物です。4章前半に神のご性質が述べられています。恵み深い、憐れみがあり、怒ることにおそく(忍耐強い・悔い改めを待っておられる)、慈しみ深い、災い(裁き)を思い直される。憐れみと慈しみを分かりやすく一言でいうと「ほっとけない」でしょう。罪深く愚かな者でも罪と死にまみれたまま滅びることを良しとせず「ほっとけない」。ヨナがなぜニネベに行きたくなかったか。それは万が一彼らが悔い改め創造主たる神を恐れでもしたら、神はきっと彼らを赦すだろうと知っていたからです。ヨナは残虐非道なアッシリアなど滅びてしまえと思っていたのでしょう。だから自分に与えられた使命を放棄し逃げたのです。ヨナは「ハト」の意味もあります。聖書では「ヘビのように聡く、ハトのように素直でありなさい」とあります。ヨナは確かに自分の思いには正直でしたが、神の御心には素直でありませんでした。「主の前を離れて」とは「主に背中を向けて」の意です。神は忍耐強く待っておられるだけでなく、時に何度でも捕らえようとされる方です。捕らえられ用いられたのがヨナです。ヨナはニネベから遠く離れたタルシシへ逃れようとしますが途中、嵐に遭い船が難船しそうになりました。ヨナは同船した人々の救いのため自分を海に投げるように提案します。ニネベの人々は滅びてしまえと思い神の御前から逃げたけれども、同船した人々は助かってほしいと願う。その違いはヨナと人々との関係性です。神は全ての人々が救われることを望まれています。神は異邦人であり非道なニネベの人々をも滅びるのをほっとけず、救おうとされたのです。海に嵐を起こされたのも、大きな魚を用意されてヨナを飲み込ませ、陸へ吐き出したことも全て主なる神がされたことです。とうごまを備え、枯らされたのも神です。ニネベの人々の救いのためにヨナを遣わされたように今、全世界の人々の救いのため神は私たちを用いようとされています。学校へ、職場へ、家庭、あなたの行く先々に主は共におられます。そして私たちの霊的な成長、人格の成熟のためなら痛みや弱さをも用いられるお方です。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-11-09 12:21:44 (64 ヒット)
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「ラザロと金持ち」ルカ福音書16:16〜31
パリサイ人・律法学者たちはイエスのことを「正式に学んでいない、何の資格もない者がよく言う」と鼻先で笑って見下していました。イエスは彼らに対し、マタイ23章では「偽善者よ、まむしの子らよ、あなた方は災いである」と厳しく言われています。彼らは権威をふりかざし、厳しすぎる律法についていけない人を罪びとと軽んじているが、宗教的・社会的に差別されている人達が福音を聞き、神の国に入ろうとしていることをたとえ話で語られたのです。この物語に出てくる富豪は人々の百日分の給料である紫布の服や、エジプトから輸入した下着である細布などを身に着けて贅沢に暮らしていました。一方ラザロは、金持ちがナプキン代わりに手を拭いて捨てるパンを食べて飢えをしのぎたいと思っていました。貧しいラザロは誰も葬式を出す人がおらず、御使いによってアブラハムの懐に入れられました。金持ちも死に、盛大に葬式が行われましたが、死後は神の国には入れませんでした。この話は死後のことをそのまま語られたのではありませんが、この世での能力や才能や健康や財産が神の祝福の条件ではないことが分かります。ラザロという名前は「神の救い」という意味を持ちます。金持ちが訴えたように、あの世から知り合いが戻ってきて泣きながら必死に死後のことについて語っても、私達は信じることができるでしょうか?ヨハネの福音書のラザロの生き返りの奇蹟を見た人々の中には信じる人もいましたが、律法学者やパリサイ人達はかえってラザロを殺そうとしました。語られた言葉、行われたことが神から出たものだと信じることができない人には、どんな奇蹟が起ころうと心を変えることはできません。聖書の専門家であるはずのパリサイ人・律法学者らが律法の本質を曲げて人に教えたり、独断と偏見で神の愛から離れた行いをしていることを厳しく追及されたイエスは「私は(神の)律法の精神を実現するために来た」と言われました。罪ゆえに負うべき死後の永遠の地獄の苦しみも、イエスが身代わりとなり解放して下さいました。「こういうわけでキリスト・イエスにある者は、もはや罪に定められることはない」「その時、主の名を呼ぶ者はみな救われる」その確信をもって主を仰ぎ見ようではありませんか。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-11-03 22:29:45 (68 ヒット)
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「主の聖餐」ルカ福音書22:17〜20
あなたにとって聖餐式は重要ですか。聖餐式が恵みを受ける唯一の手段ではありませんが、重要なものです。キリスト者が行う大切なものとして、礼拝する・祈る・聖書を学ぶ・聖餐を守る、などがあります。信仰生活を送る上で、聖餐式の意味・目的を知っておればさらに感謝出来ることでしょう。聖餐は主イエス・キリストが定め、これを守り行うように命じられたものです。主の晩餐はキリストの教会にとって十字架の贖いを記念するものです。十字架と復活はすべて私たちを罪と死の支配から解放するために行われました。聖餐を行うたびにこれを覚え、私たちは新しい契約のもとにある民であることを確認するのです。イエスは言いました「これはわたしのからだです〜これはわたしの〜血です」キリストのことばを信じる信仰は、キリストご自身のいのちによって私たちを霊的に養ってくださることを教えています。聖書は、信じる者はキリストを頭とした体であり、またぶどうの木の枝であるとの例えを用いて、キリストとの繋がりと一体感を説明しています。私たちは自分がキリストの体であることを、聖なる交わりによって自分自身と周りの人とに明らかにします。罪びとであった者が主の一方的な愛によって贖われ、神の物とされたことを思い出し、私たちも自分自身と他者を大切なものとして受け入れることを願います。主の晩餐はかつてギリシャ語で「ユーカリスト(感謝)」と呼ばれました。キリストが私たちのためにご自身を犠牲とされたように私たちも神に対し生きた供え物としてささげるのです。「主が来られる日まで、主の死を告げ知らせる」二千年前から守られた主の命令、この聖餐式のたびに私たちは主が栄光のうちに来られる望みを新たにされ、力と愛と献身と信仰が確かにされるのです。


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