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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-03-29 14:45:28 (54 ヒット)
メッセージ

「誰が救われるのか」マタイ福音書19:16〜26
御国に関する重要な問いは「何をするか」ではなく「何を信じるか」なのですが、本日の聖書箇所にも迷える一人の青年がイエスのもとに真理に関する問いを持って来ました。「永遠のいのちを得るには、どんな良いことをしたらいいでしょうか。」そこでイエスは十戒を守るように話されますが、青年は当然そのようなことは守っていると答えます。自分は地上における神の祝福は目に見える形で(財産家として)受け取っている。職業も議員としてユダヤの地で人々に認められている。他に何の条件を満たせば完璧といえるか、安心することが出来るのかとたずねます。イエスは彼の心の様子を見ながら、鋭くかつ表現は柔らかく彼の必要を語られました(:21)。あなたが持てるものを人に与えよ。その手から離せ。執着を捨てよ。与えることによって天に宝を積むことになる。それは巡り巡ってあなた自身の人格を高めるだけではなく、霊的な豊かな恵みを知ることになるだろう。そこから先はわたし(イエス)に従って(信じ)歩む中で永遠のいのちを得るのだ。ここまで彼は聞いて、自分にはできないと悲しみながらイエスのもとから去っていきました。多くのものを持っていたため、それを手放すことに葛藤したからです。イエスを信じ従うことを、富という偶像のために拒む。富んでいる者が天の御国に入るのは難しい。それを聞いた弟子たちは一様に驚きました。地上の目に見える富は神様の祝福のバロメーターであると思われがちです。律法をよく守り、社会に貢献し、神の祝福である富を持っているのに天国に入るのが難しいなら、いったい誰が天国へ入れるのか。弟子たちの問いに対しイエスは「人にはそれは出来ないが、神には何でもできないことはない」と答えます。天国に入る条件はあなたがたの考えているそれではない。天国への道は一つだ、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです(ヨハネ14:6)」「わたしに従ってきなさい」この金持ちの青年が永遠のいのちを得、御国に入るには、私には出来ないと悲しみイエスのもとを去る事ではなく、私はどうすればいいでしょうかとイエスをお頼りし、信じ、従うことだったのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-03-29 14:42:37 (70 ヒット)
メッセージ

「何度赦すべきか」マタイ福音書18:15〜35
イエスは「7度の70倍」赦しなさい、と話されました。これによく似た表現が創世記4章にあります。「カインのための復讐が7倍であれば、レメクのための復讐は77倍」復讐という、人間の憎しみと怒りを象徴する数字を取り上げてイエスは“限度なく”赦しなさいと話されました。普通の人間が生涯働いても到底稼げない金額です。その国家予算の何年、何十年分もの負債を全て免除してもらうなど、あり得ない話です。主人は「どうか待って下さい、きっと全部お返しします」という言葉を信じたわけではありません。返済できないことを百も承知で、あわれみにより赦したのです。赦された方はただ感謝、絶望的な破産の人生から、万死に値するような迷惑をかけたことを詫び、新しく生まれ変わろうとでも思ったことでしょう。しかし百デナリ貸していた仲間がお金を返せないと言うので、彼を牢に入れて財産を差し押さえて怒りました。600億円の桁外れの負債を帳消しにしてもらった人が、10万円返済できない友人の首をしめて脅しあげたようなものです。それを知った主君は怒って、免除の取り消しをしました。途方もない負債を全て赦してもらったのに、その事がこのしもべの生き方に何の変化も起こしていなかったのです。「7の70倍赦しなさい」と言われると、そんな無茶な命令は自分にはとても無理、と思います。しかしこのたとえ話でわかるのは、赦された者であっても人を赦すことが難しいということです。自分では返済不可能な負い目をイエスの十字架により帳消しにされた、その恵みをしっかり受け取っている人は「7の70倍」までも神様が一方的に赦して下さったという神のあわれみの深さを知り、「赦してもらう」ことの困難さを身にしみて知っているはずです。そして天の神様は兄弟姉妹のことも同じように愛しておられる、という視点に立つとき、無理解から来る怒りと憎しみからその人を理解してみようとする心の動きに変えられるのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-03-21 05:55:59 (54 ヒット)
メッセージ

「パウロの回心」使徒9:1〜22
弟子たちが天国で誰が一番えらいのかという問いに対し、イエスは「心を入れ替えて幼な子のようにならなければ天国に入ることは出来ない」と言われました。今週は、「悔い改め」物事の見方や価値観を変え、生き方の方向性を変えた人物、サウロの話です。後にパウロと名乗るサウロは、イエス・キリストを信じる人々を熱心に迫害する者でした。使徒の中で、十字架前のイエスと会っていないのはパウロだけです。しかし彼は復活・昇天後のイエスとの出会いにより、劇的に人生を方向転換したのです。サウロはローマ市民である父を持つ、学問都市タルソ出身のユダヤ人です。エルサレムへ留学し、穏健な思想であるヒレル派の大学者ガブリエルのもとで学び、神に従い律法に生きるユダヤ神学の土壌を培います。しかしイエスとの出会いにより、人が神の前で義とされるのはイエス・キリストを信じる信仰による、これのみであり、律法を行うことによらない、と考えを改めます。パウロが説く福音の中心点は十字架です。今日、十字架はキリスト教の宗教的シンボルとして一般に認知され、アクセサリーとしても多用されていますが、もともと十字架はいかに長く罪びとにひどい苦しみを与えて殺すかを考えて作られたもので、絞首台や電気椅子やギロチンのように人々から忌み嫌われたものでした。そのむごたらしい死刑道具にまつわるイメージが、神の御子の象徴のように変えられたように、パウロも恐れられ嫌われた迫害者から一転、誰よりも熱心にキリストを宣べ伝える者となりました。しかしその「悔い改め」はすぐに人々に歓迎され、順調に伝道活動ができたわけではありません。パウロ個人は回心後、イエス・キリストを伝えていましたがバルナバに見いだされ、この道の働き人として同労者や同心の人々に受け入れられるには10年ほどの歳月を要しました【使徒11:25】。人生の方向転換をしてからしばらくは神と向き合う時間が必要でした。神の歩みに合わせていく中で自分も人も変えられて行くのです。神に整えられたパウロがアンテオケ教会の伝道チームに入ることにより教会の働きは拡大し前進していくのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-03-09 08:54:35 (91 ヒット)
メッセージ

「御国に入るために」マタイ18:1〜14
天国では誰が一番えらいのか、立派な者として称賛されるのか、という弟子たちの問いに対し、イエスは子どもを連れてこさせて言われました「心を入れ替えて幼な子のようにならなければ、天国に入ることは出来ないであろう」と。「いれかえて」という訳は他に「悔い改めて」「向きを変えて」などがあります。考え違いをしている弟子たちに対しイエスは心の向きをかえるように教えられました。考え方、物事の視点の方向転換です。最後の晩餐の時まで、弟子の中で誰が一番偉いか競い合っていたようですから、彼らが最も関心を払う問いだったのかもしれません。「幼子のように」というと、幼子が親を信じるように純真無垢にただひたすら神様にお頼りする、という意味もあるでしょうが、当時「幼子」は共同体の中で大人として数に入れられず、発言権、決定権をもたない無資格者として軽んじられた存在だったのです。イエスは「自分を低くする者が、天国で一番偉いのである」と言われました。神の支配される御国においてどの部分の能力を高め、徳を積み上げ、犠牲を払うことが評価につながり認められるのかに関心を持っていた弟子たちからすれば、発想が全く異なります。能力や実績、血統や門地を誇り、自分にはその権利があると主張する者ではなく、自分には天国に入る資格がないと気づいた謙遜な者を「わたしの名のゆえに」イエスへの信仰ゆえに天国へ招くというのです。むしろ自分の人生観や信仰観によって人を裁き、心ない言葉でその人の信仰生涯のつまずきの石となる者に対しイエスは怒りをあらわにします。人から見下される小さな者を天の父は憐れんで、罪の滅びから救うため御子イエスをお遣わしになられたのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-03-09 08:52:18 (45 ヒット)
メッセージ

「御国の力をもってくるまで」マタイ16:21〜28
イエスの弟子たちが「あなたは生ける神の子キリストです」と告白することが出来ても、自分たちの思いや願い、計画をかなえるためだけにイエスに期待するなら、結果的にはキリストの道を妨害するサタンの手伝いをすることになります。弟子たちからすればイエスの受難予告は受け入れがたいものでした。「神の子」として祝福され、神に用いられる者が殺される。しかも当代の宗教指導者に断罪され、群衆に偽キリストとあざけられ、最大の侮辱と虐待を受けて殺される。しかし三日目によみがえる。これが神のご計画である。このような話を弟子たちはまともに聞いていられません。先生はなぜ殺されるのか、どうやってよみがえるのか?死ぬなんて言わないで、イスラエルの解放のために立ち上がってください。これが本音だったのではないでしょうか。そのような弟子たちにイエスは『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。』 と話されました。自分の培ってきた主義主張を貫こうとするのではなく、神の御心を求めよ。「人の子」はやがて御使いたちと共に審判者として地に臨む時がくるが、【十字架による贖いのための死】は避けて通れない。恥と死の暗闇を通らなければならない、それが分かった上でイエスについていく覚悟はあるのかと問い、古い自分への執着を捨ててイエスに従いなさいと命じています。私たちも信仰の生涯の中で暗闇の谷を通らなければならない時があるでしょう。試練の時に、こうなってほしいという私の願い通りではなく、主に解決をお委ねできるでしょうか。私のために犠牲となられた主に信頼し、新しいいのちによって私を造り変えて下さいと祈りましょう。


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