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投稿者 : ryokos2004peter 投稿日時: 2014-09-12 19:16:20 (1241 ヒット)
メッセージ

『礼拝の原点』
重い皮膚病を患った10人が受けていた苦しみは、私たちの想像を超える。イエス様は、そのような苦しみの中にある彼らを知っておられ“出会われ”、癒された。癒された10人のうち、一人だけがイエス様のもとに戻り、ひれ伏して感謝をささげた。
  旧約聖書における礼拝は、十戒を初めとした儀式が重視されるようになっていた。新約時代になり、心、信仰の伴わない祭司や学者たちとイエス様は、度々対立され、十字架による完全なあがないを成し遂げられた。
 一人戻ってきた外国人は、大きな苦しみから解放されて、感謝せずにはおられなかった。ここに礼拝の原点がある。礼拝の時『一週間の旅路を守られ感謝します」と祈る人がいる。私たちは、日々主に守られ、十字架のうちに生かされている。その事を忘れず、感謝を捧げに戻って来るのです。   
ルカ17:11〜19


投稿者 : ryokos2004peter 投稿日時: 2014-09-05 19:44:39 (1265 ヒット)
メッセージ

『主が報いられる』
エレミヤは、主に背き偶像礼拝に走ったイスラエルに、再三にわたって、主からの厳しい言葉を伝え続けたが、彼らは主に帰らなかった。その為彼らは、主からの懲らしめを受けねばならなかった。私たちも過去に、主から離れ自分勝手な道へ行ったが、悔い改め主のもとに引き戻された経験があるだろう。

主は、イスラエルとまた私たちと交わした契約を忘れることなく、その罪を赦し、主の牧場に帰らせて下さる方である。そして、‘罪を思い出さない’と言って下さる。

主は、イスラエルを攻撃し、苦しめた周辺諸国にご自身が報いをされた。私たちも人間関係の中で、許せない時がある。仕返しをしたくなる時もある。しかし、主は私たちが恵みを失わないように、それを止め、その報復は、主にお委ねするように命じられている。
  エレミヤ50:17〜20


投稿者 : ryokos2004peter 投稿日時: 2014-08-29 20:16:04 (1015 ヒット)
メッセージ

『主に喜ばれる歩み』

イエス様を信じて‘救われたクリスチャン’と言えどもこの日本で生きていく以上、様々な仏教また他の宗教的な集いや風習に付き合う事を避けて通れない。また、飲酒などについても同じことが言える。

パウロは、偶像にささげた物を食べることや、律法主義的なことにこだわる人たちと、すでにそこから解放されていると自由に振る舞う人たちの間に起こった論争を、あえてどちらかに「こちらが正しい」と言わず、さばき合うことをせず、食べるにしても食べないにしても、‘主のために感謝をもって’することが大切である事を教える。

私たちは、どの時にも『私たちのために十字架にかかって下さった主のために生きている』事を忘れてはならない。あの人がどう思うか?よりも、その行動が、主に喜ばれる事かどうかを、人を躓かせないか思う選択をしていきたい。 
ローマ14:1〜12


投稿者 : ryokos2004peter 投稿日時: 2014-08-22 20:49:03 (1240 ヒット)
メッセージ

『キリストの土台の上に』
昨年の教会の標語は、『完成を目指して進もう』で、乳を必要とする信仰の初歩から、前進することを目標とした。コリントの教会では、霊的に成長しきれていないために、争う者があったようである。
 コリントの教会の人たちにみ言葉を語り、導いた人があったとしても、“土台はキリストご自身”である。私たちの信仰は、その上に築き上げられていくのである。時おりキリスト不在で、信仰生活や奉仕をしてしまっていることがある。どの時も、十字架にかかって下さる程、私たちを愛して下さるキリストを中心に成長する者となりたい。
 キリストを土台にしての信仰生活や奉仕は、天において火で焼かれた時に、主の前に報いとして残り、覚えられる。地上において人の前に賞賛を浴びるより、天において主に喜ばれる信仰者となろうではありませんか?        第1コリント3:1〜15


投稿者 : ryokos2004peter 投稿日時: 2014-08-14 13:50:54 (1057 ヒット)
メッセージ

『聖徒の祈り』
旧約時代には、様々な礼拝の規定があったが、香をたいて、神様にささげる奉仕は、祭司にしか許されていなかった。それも(クリスマスのメッセージによく出てくるザカリヤは香を炊くクジに当たった)一生当たらない人もある。 
捧げられる香は、高価なものであり、その調合は、厳密に決められたもので、なければならなかった。アロンの息子たちは、異なった香をささげ、さばかれることとなった。
私たちは、イエス様の十字架による‘完全なあがない’によって、特別な者でなくても、信仰だけで、近づくことが許されている。それだけではなく、み使いたちによって、天においてささげられる香には、私たちのささげる‘聖徒たちの祈り’が共にささげられる。私たちは喜びをもって主に近づきましょう。
出エジプト30:1〜10


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