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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-01-04 11:10:21 (56 ヒット)
メッセージ

「異邦人を照らす啓示の光」ルカ2:21〜38 慈しみ深くあわれみに富まれる神は罪人を捨て置かれません。「かわいそうに思う」という言葉は聖書の中に幾度か出てきます。その言葉が出てきた時イエスは必ず行動を起こされました。子を亡くした母親をあわれんで子を生き返らせ、福音を宣べ伝えていた折、群衆をかわいそうに思い十二弟子を各地へ派遣しました。またイエスは憐れみに富む父なる神のご性質を、放蕩息子のたとえ話の中で語られました。散財した息子が帰って来るのを遠くから見つけた父親は「かわいそうに」思い走り寄って、彼を抱き口づけし、息子の帰還を無条件に喜んだのです。聖書の「かわいそう」という言葉がどこから派生したかというと「内臓」です。心臓、肺、肝臓‥が震えるような、胸が熱くなる、体の奥底から来る思いなのです。神様は自分の弱さ・至らなさに嘆く者、罪深さにおののきへりくだり悔い改める者の叫び、祈りを聞かれ、胸がしめつけられ、ほっとけないのです。シメオンはローマの圧政にあえぐイスラエルのなぐさめを長年待ち望んでいました。聖霊は彼の祈りにあわれみをもって答え、「主のキリスト」を見るまで決して死なないことを告げられます。8日目のきよめのため父母に抱えられ神殿へ入ってきた幼子イエスを見たシメオンは御霊に示され、神を賛美します。「御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です」全ての人にとってイエスが救いだと歌っています。滅びに向かう人々をほっとけない神様は、ご自分のひとり子である御子イエス様をこの世に遣わされました。ここに、神の愛と真実が示されたのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-12-24 14:32:41 (37 ヒット)
メッセージ

「大いなる喜びの知らせ」ルカ2:8〜20
皇帝アウグストの勅令により人口登録のためベツレヘムへやって来たヨセフとマリヤは、その小さな町で出産をしました。この夫婦のもとに羊飼いたちがやってきました。彼らは御使いより救い主がお生まれになったことを知らされ、探しに来たのです。目印は飼い葉桶に寝かされている嬰児。家畜小屋の飼い葉桶に寝かされている赤子など普通は考えられないことですが、反ってそれがしるしになったのです。羊飼いたちは仕事柄、屋外で過ごすことが多く安息日や礼拝を守りにくい上に、貧しく無学な者として裁判の証人として立つことの出来ない、社会から外された人たちでした。人口調査の対象にすらならず、ローマからすると人として認められていないかのようです。そんな彼らに救い主がお生まれになったという福音が真っ先に伝えられたのです。マタイ福音書によると、同じ頃に東方の博士たちによって救い主の誕生がエルサレムの指導者たちにも知らされましたが、一つの情報として受け取っても、信仰をもって良き報せとして聞くことが出来ませんでした。羊飼いたちは、神の使いを見た時に最初は非常に恐れましたが、天の大軍が神の栄光をほめたたえて賛美したのを聞き、互いに話し合って「主が知らせて下さった出来事を見に行こうではないか」と語られたことを信じ、急いで出かけました。そして幼子イエスを探し当てた体験から神様の不思議な導きとあわれみに感謝し、神をあがめ賛美する者へと信仰が引き上げられました。クリスマスに登場する人物は、職業や年齢や立場は違えど、神様は一人ひとりと深く関わり、イエスの元へ近づくように導かれるのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-12-23 18:16:44 (38 ヒット)
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「喜びなさい」ルカ福音書2:1〜7
ルカの福音書ではキリストの誕生を、奇跡的なことが無いかのように淡々と記しています。ではルカの福音書に不思議な業は全く記されていないかと思うとそうでなく一部例をあげると重い皮膚病の人がイエスによってたちどころにいやされたことが書かれています。また中風(脳血管障害)を患って身動きがとれない人が友人によってイエスのもとに運ばれ、「起きて歩きなさい」と命じられると、病いはいやされ神を賛美しながら帰っていったと記されています。聖書では奇蹟のことを「しるし」と表すことがあります。神の愛と力と権威を現わすために奇蹟の御業が起こされるのです。ところがルカの福音書でのイエス誕生のエピソードには奇蹟がないように見受けられます。しかしよく読むと、神の導きとご計画を知ることができます。母マリヤが男の子を産んだのはベツレヘムという町でしたが、もともと両親が住んでいたのは直線距離で約110厠イ譴織リラヤのナザレです。皇帝アウグストによる人口調査の命令がなければ、身重のマリヤがこのタイミングで望んで来ることはなかった地です。国家の都合に翻弄されているようですが、キリストはベツレヘムで生まれるというミカ書の預言が成就するためです。何故こんな時に、と誰もが嫌がるタイミングが神の時だったのです。歴史を支配しておられる神は、あのローマ皇帝をも用いてご自分の約束を成就されました。私達は具体的に目に見える形での奇蹟を見たいと願うかもしれませんが、神は私達の知らないところで働かれ、今は分からない、目に見えないけれども私達の生活の中で神のご計画は進行しているのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-12-14 10:44:57 (37 ヒット)
メッセージ

「いと高き方の力」ルカ福音書1:26〜38
神から大いなる恵みをいただいた女性、マリヤは一方で非常に重い現実と使命をいただいた人でした。そのマリヤに御使いガブリエルは「おめでとう。恵まれた方。主が共におられます。」と話しかけられます。「おめでとう」の中には「喜び」という意が含まれています。神の喜び、天の喜びは人が救われることにあります。人々を救うために来られたイエスの誕生は私たちにとってこの上なく喜ばしい出来事なのです。しかしマリヤにとって聖霊による受胎は手放しで喜べることではありませんでした。彼女が生きている社会において、許婚でない人の子を宿すことが受け入れられるかと考えた時、ヨセフにどうのように説明したらよいか考えあぐねたことでしょう。先に懐妊を知らされた親類エリサベツにとっては、不妊で高齢であり諦めていた、無いものと思っていたが子を授かったことは、まさに神の御業であり恵みでした。しかし神の子イエスの母となるマリヤは、シメオンが預言しているように心を刺し貫かれるような苦しみ、痛みを引き受けねばなりませんでした。しかし御使いは、聖霊の力におおわれ奇蹟が起こる、神の力があなたに臨まれるのだと語り、マリヤは信仰の励ましを得たのです。キリストの弟子たちは聖霊を受けて喜びに満たされて証人となり、福音を宣べ伝えるために多くの苦難が待ち受けていましたが全世界に出て行きました。私達も重苦しい現実を前にしてもマリヤのように「私は主のはしためです。お言葉通りこの身になりますように」と御心が行われるよう祈り、聖霊の力を信じましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-12-07 10:08:24 (46 ヒット)
メッセージ

「我が助けは主から来る」詩篇121篇
この箇所はエルサレムへの巡礼の際に歌われた詩篇です。「わたしは〜」「あなたの〜」と歌っていますから一人ではなく複数人で読み、または歌ったと考えられます。地域のユダヤ人、または一族で声をかけあって集団で都のぼりしたようです。古代の旅は現在のような安全で快適、しかも早いというわけにはいきません。強盗・略奪、自然災害、食料の難とあらゆる危難が想定されましたから、無事に帰って来ることができますように祈り心をもって見送るわけです。「私は山に向かって目をあげる」シオンの山、かつてアブラハムがイサクをささげようとしたあのモリヤ山にソロモンの神殿が建てられていました。「わが助けはどこから来るのか」アブラハム、イサク、ヤコブに現れた主はご自身を紹介される時「私は全能の神である」と示されました。彼ら信仰の偉人たちは様々な苦難、失敗がありましたがその都度、神が助け守られました。権力や財力、人や物ではなく最も頼りになるのは天地を造られた神です。人間が創作した神々ではなく、私達を、この世界を創造し支配されるお方です。「海と陸を造られた天の神」というのはヨナの言葉です。御顔を避けて逃げようとした人ですが、不思議なわざで捕らえられ「救いは主にある」と信仰告白しました。神は「まどろむことも、眠ることも」なく、エルサレムへの行き帰りだけでなく生涯も守ってくださるのです。私達はもっと神様に期待し信頼して、愛する人々の守りとに祈りましょう。


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