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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2020-01-10 15:32:36 (18 ヒット)
メッセージ

『東方の博士たち』マタイによる福音書2章1〜11節
東方の博士らは天体の研究に基づいた占星術によって「新しいユダヤ人の王が生まれた」と解釈し、それに従ってエルサレムまで来ました。占星術自体は聖書的には不確かなものですが、神の働きによる星の導きがあったのです。博士らは「ユダヤ人の新しい王の誕生」について、現在この地を治めているヘロデ王に訊ねました。そのヘロデ王とは権謀術策の多い世にあって皇帝アウグストに信頼され40年ほどこの地方を任されるほど政治家としては優れていましたが、猜疑心が強くその地位を守るためなら身内と言えど容赦なく殺すような人でした。そのため「ヘロデの息子に生まれるより、豚のほうがましだ」と陰口をたたかれるほどでした。そのような人物とは知らず博士らは告げたのですが、ヘロデ王が祭司長や律法学者たちに場所を訊ねると「それはベツレヘムです」と即答されます。すでに700年ほど前に預言されていたことだったのです。しかし祭司長・律法学者、エルサレムの人々はこの件については沈黙を決めこみます。過去何人もの偽預言者・偽メシアの出現があり、この度もそうだろうと考えたのかもしれません。ましてヘロデ王がこの件を無視するはずがなく、目障りな存在は抹殺することは火を見るよりも明らかです。巻き込まれるのは御免だとばかりに関わりたくない、恐れと不信仰によって「ユダヤの王の誕生」の報に触れてもイスラエルの民たちは行動に移すことをしませんでした。奇しくも行動に移したのは東方の博士とヘロデ王のみだったのです。博士らはベツレヘムで赤子の御子イエスと出会い宝物をささげ、喜びのうちに帰途につきました。「新しい王とは何者か?」「この方とどの様な関わりを持ちたいか?」この問いに彼らは時間とお金を惜しまず遠く千数百劼鯲垢靴銅腓鯲蘿劼垢襪燭瓩帽堝阿掘大いなる方の力と導きに感動したのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-12-26 16:57:55 (31 ヒット)
メッセージ

『羊飼いたちの決断』ルカによる福音書2章8〜21節
救い主の誕生を世界で最初に告げられたのは、ユダヤの小さな町ベツレヘムの郊外で羊の番をしている羊飼いたちでした。かつて預言者ミカによってベツレヘムからイスラエルの支配者が出る、それは昔から永遠の定めであると預言されていました。羊飼いたちも心に留めずっと期待していたことでしょう。当時の羊飼いたちは裁判で証言者として認められないなど社会的に地位は低く、安息日を含む宗教行事に参加しにくいため、人として見下されていました。しかしアブラハムを始めダビデなどの偉大な先祖も羊飼いであり、何ら恥じる立場ではないのです。そしてこの地域の羊の多くはエルサレム神殿でいけにえとして捧げられるという目的のある、特別な群れでした。祭司らにはさげすまれていた彼らは「自分たちの罪を全て取り除くあがないとなる神の小羊」を待ちこがれていたのです。彼らが夜、たき火をしながら羊を見守っている時に神の栄光が彼らをおおい、その場にいた全ての者を照らしました。御使いの言葉は抽象的で学がないと分からないような高尚なものではなく「今日、ダビデの町で、民のために救い主が生まれた」と非常に特定された言い方でした。そしてキリストを見つけるための手がかりとして「飼い葉桶に寝かされている赤ちゃん」と教えられます。人口調査のために帰郷した人があふれ返っているベツレヘムですが、家畜のえさ箱で寝かされる子どもなど滅多にいません。神のしるし、とは普通でない事柄、特徴をもった行為や出来事を指す言葉です。羊飼いたちは「そのうちに」ではなく即座に出かけ、くまなく探しまわり、御告げ通りの幼子を「さがしあて」ます。「神の言葉は出来事になる」不思議と感動を体験し、待ち望んだ救い主の誕生を祝い喜べたのは、神の言葉を聞いて素直に従い、行動したからです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-12-26 16:55:54 (21 ヒット)
メッセージ

『マリヤの決断』ルカによる福音書1章26〜38節
神の御言葉は必ず成就する。すなわち神のことばは出来事となって現れていくのです。時はAD6年ごろ、場所はナザレという田舎の寒村。そこにマリヤという少女がいました。齢は15歳前後、結婚の約束を交わしたヨセフがいました。2人ともこの生活の延長にある将来をそれぞれ思い描いていたことでしょう。そのマリヤの前に御使いが突然現れて言います「おめでとう。恵まれた方」喜びなさい、あなたは神様から特別な恵みと憐れみをいただいたのだ、と。マリヤは御使いの聖さに恐れを抱き、何が起こっているのかと戸惑いました。さらに御使いは「あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人となり、いと高き方の子と呼ばれる」と言い、マリヤは驚きます。「どうして、そんなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに。」すると御使いは「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを覆う」と言うのです。この世界は、霊的な存在である神がことばによって造られました。ことばが人となって、神はマリヤの胎の子から人類にとって大きな計画を始めようとしておられたのです。高齢のエリザベトの妊娠を御使いに告げられた時ザカリヤは、そんなことがあるはずがないと疑い、素直に信じることができませんでした。しかしマリヤは御使いの「神に出来ないことは何一つない」という言葉に、恐れ慌てることなく「お言葉どおり、この身に成りますように」と敬虔に、御告げに従う決断をしたのです。マリヤは平穏な生活を願い、「嫌です」と逃げ出すことも出来たかもしれません。それによって起こるであろう非難・誤解・噂話の類、そして婚約者ヨセフは理解してくれるだろうかという不安を覚悟した上でマリヤは「私は主のはしためです」と神のご計画を優先したのです。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるお方です。その信仰の決断は、神のことばが出来事となるのを体験する恵みをいただくのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-12-12 15:11:57 (35 ヒット)
メッセージ

『ヨセフの決断』マタイによる福音書1章18〜25節
神は夢を用いて啓示されることがあります。創世記のヨセフ物語、預言者ダニエルの活躍をご存知でしょうか。彼らは夢の解き明かしの賜物が与えられていました。マリヤの許婚ヨセフも夢の中に御使いが現れ、神の御告げを受けます。その御告げを聞くまでは、夫婦になる前にマリヤが身重になったことを知り、離縁しようとしていました。マリヤのお腹の子どもは自分の子ではないと公にすれば石打ちなどの重罰が課せられますが、婚前に性関係があったと人々に認識されることも正しい人ヨセフにとっては苦味を引き受けることになります。マリヤを密かに去らせようとしていた矢先、彼女が身ごもったのは他の男性によるのではなく、預言者を通して神が言われたインマヌエルと呼ばれる救い主が聖霊によってマリヤの胎に宿ったのだという驚くべき御告げを受けたのです。ヨセフはそれを信じ、人の考えでは受け入れ難いことを受け入れます。これを「信仰の決断」と言います。理性により納得できたからとか、自分の思いや計画、人生の段取りや損得からではなく、神の御旨であるから従う決意をすることを「信仰による」と言います。神は「その子をイエスと名づけなさい」と言われました。イエスはギリシャ名で、イスラエルの言葉でいうとヨシュア=主は救うの意です。イスラエルでは名前は非常に大切にされ、色々な由来や物語があり、その子の生涯を決めてしまうほどです。命名権は父母または家長にあります。マリヤに宿る子の父親は主なる神様なので、神が命名されたのです。神はご自分を信じる者と共におられることを望まれ、御子を通して人々を救おうとされたのです。ヨセフは信仰によってマリヤを妻として迎え入れ、イエスの地上における父となったのです。夢の啓示ではなくても、聖書の御言葉からも神は語りかけられます。示された御言葉や与えられた思いを大切にし、神の御意思か自分から出た思いか吟味してまいりましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-12-06 11:36:05 (29 ヒット)
メッセージ

『罪咎を担うキリスト』イザヤ53章
「主のしもべ」について学んでまいりましたが、この言葉は預言者やイスラエルを指す他に、救い主キリストのことも表しています。53章ではまず、主のしもべに対する人々の評価が書かれています。神の真理は民衆の常識を越えたものであり、信じる者には恵みであっても、心の目がおおわれた者には到底信じがたいものであるので、主のしもべの言葉を受け入れないというのです。また当時の人々が抱く神に用いられる者としてのイメージ(宗教指導者の姿)からはほど遠いため、「見とれる姿」ではなく「慕うような見栄え」もないと表現しています。むしろ人々は、彼が神から遣わされた者であることを知らず、軽蔑し、無視し、のけ者にするというのです。人々は知りません。彼(キリスト)が自分たちの身代わりとなり、罪の赦しのあがないとなったことを。彼が死んだのは彼自身の罪のためだ、と誰もが考えました。しかし、彼は私たちの罪ゆえに刺し通され、うち砕かれたのです。私たちの病を負い、痛みを担い、弁解もせず身代わりとなって罰を受けたのです。「私たちは皆、羊の群れのようにさまよい、それぞれ自らの道に向かって行った」罪を犯したら、例外なくあがないが必要となります。神から離れて自分勝手な道を歩んでいった自己中心は罪の本質です。その私たちの全ての過ちを、神はキリストに負わせたのです。あがないを成しとげる過程で苦しみと痛みにゆがんだキリストの姿を見て、人々は神の罰の壮絶さを感じます。その痛みは何ゆえだったのか考えた時、自分の罪の深さにおののき、神のゆるしの大きさに本当の愛を知るのです。そしてキリストの奇蹟によってこの世の価値観をゆさぶる(権力、金、世の成功ではない)本当の勝利、本当の世界の王を知るのです。


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