5月21日 メッセージ要約

「憐れみと赦し」マタイ福音書5:7?8
「憐れみ深い人たちは幸いである。彼らは憐れみを受けるであろう」ヘブル語での「憐れみ」は、不幸な人に対する単なる同情や他人の辛苦を気の毒に思うだけでなく、「その人の心まで入り、その人の立場で見て考えて、感じ取ること」という意味合いです。神の憐れみとは「赦し」と結びついています。自分の罪が赦される喜びを知った人は、神を信じその教えに従おうとするでしょう。「神を愛せよ。自分を愛するように隣人を愛せよ」弱く愚かで汚い自分をも赦された神の憐れみを、自分がしていただいたように人にも与える。たとえ自分を傷つけた許し難い人であっても、相手を理解しようとするところから始める、恨みや執念という感情に飲み込まれまいとする。他の人を助け親切にしよう、優しくありたいと願う姿勢が、神の愛に応答する生き方です。「心のきよい人たちは幸いである。彼らは神を見るであろう」多くの人は頭の良さや、容姿の美しさやお金のある人が幸せだと考えますが、神のいう幸福の条件は違います。きよいとは「混ざりけのない純粋性、動機が正しい、悪意がない、正しい良心」という意味合いがあります。「人から出て来るもの、それが人を汚すのである。…不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色…」これらの心にある悪が口から出て人を汚すのであると。聖書の倫理観は非常に高く、兄弟にむかって腹を立て「能無し」馬鹿」とののしる者は殺人と同じことをしているとイエスは言われました。日々ニュースで見聞きする殺人、暴行、卑劣な詐欺などを行う人の心理には、怒りや憎しみ、未来に対する絶望や虚無感などがあります。人の心にはそうした罪がありますが、自分でその汚れをきよめることは出来ません。しかし自分の罪を神に告白するならば、神は真実で正しい方であるからその罪を赦し、きよめて下さいます(?ヨハネ1:9)。「わたしのためにきよい心をつくり、わたしの内に新しい、正しい霊を与えてください」(詩篇51:9)と祈り求めましょう。