「あきらめない神」エレミヤ書31:1~14
人は罪を犯し、悔い改める、をくり返します。私たちは世にある限り【罪(自己中心・自分本位、愚かさと狂気の渦)】に巻き込まれる恐れは常にあります。ですから「あなたならどうする」という問いに対し答えを準備しておくのです。キリスト者の生き方は「3つの愛に生きる」、すなわち神を愛し、自分を愛する様に隣り人を愛することです。平和の神に救われ、いのち与えられた私たちに「自らすすんで争いを起こす」ことはあり得ません。平和のために出来ることを尽くすべきです。出来ることなどない、人は自分勝手な生き物だから、ひとりの努力ではどうにもならないことがある、平和の実現も、罪人が救われることも、到底無理なのだと「あきらめる」と悟ることが賢いのでしょうか。否、私たちは諦めません。旧約聖書でイスラエルの国家が崩壊し、滅ぼし尽くされたエルサレムの瓦礫に立ってエレミヤは自分が生かされていることの不思議に、主の恵み・憐れみに思いをはせます(哀歌3:22)。主の「恵み」「憐れみ」のヘブル語の原語は、他の国の言語に訳しにくい言葉で「揺るがない愛」「慈愛」「誠実」「憐れみ」と色々な訳がなされますが、基本にあるのは「契約に基づく愛」です。神の契約により裁きが下されても、回復も既に準備されておられるのです。自力救済できない愚かで弱い人間のために、神のひとり子が送られ、助け主である聖霊が遣わされたのです。人間には可能性がなくても、神が働かれるなら私たちの想像を超えた方法があるのです。神は人が悔い改め、神に立ち返ることを諦めないお方です。ここに愛があるのです。このお方に希望があるのです。