2月25日 メッセージ要約

「罪の法則、恵みの支配」ローマ7:7~25

聖書の真理を知れば知るほど、理解が深まれば深まるほど、恵まれるのはなぜでしょうか。福音(罪の赦し、永遠のいのち)は信仰者の動力(エンジン・エネルギー)になるからです。救われた喜びが、信じる者を突き動かす力となるのです。しかし、信仰と行為(律法)は車の両輪です。どちらが欠けてもバランスが崩れて真っすぐ走れません。愛の配慮からくる行為であっても律法(神の教え)に基づいていなければ、自分の愛のなさに打ちのめされることになるでしょう。ここに信仰者の苦悩があります。古い自我が律法に裁かれ、罪を思い知らされるのです。聖書は、残念ながら律法を行うだけでは平安は得られないと教えます。律法の詳細を知らなくても、良心に従い自分に正直に生きれば後悔はないのではないかと言う人もいますが、良心は時代や環境、国や文化によって異なるものです。良心は普遍的で不変な基準になりません。聖書の真理は普遍的(全てに共通)で不変(変わることがない)なものです。罪と律法がセットで説明されると、律法があるから人間は不自由で罪人にされてしまうのではないか、と律法が悪いもののようにとらえる人もいます。しかし法が無いと人間は何が罪か分からないように、律法は人間に罪を自覚させるために神がお与えになった(幸いを生きるため)のです。しかし、罪を自覚することで、自分を責める。私はみじめな人間ですとパウロは告白します。善い事を行おうと思っても出来ず、罪の法則にとらわれて肉体を忌まわしく思っています。しかし救いはイエス・キリストにありました。御霊の法則によって解放されたのだと宣言しています。