「忘れられる不安」創世記40章
ヨセフは主人の妻に誘惑されても「どうして大それた悪事を働き、神に罪を犯すことができましょう」とはねのけ、神を恐れ神に信頼する生き方を貫きました。その結果、王の親衛隊長の家の監獄に入れられましたが、そこでも神はヨセフに慈しみを示し、牢獄長はヨセフにいっさい口出しすることなく全てをまかせて取り仕切らせました。ある時、王の給仕長(献酌官)と料理長が同じ牢獄につながれ、ヨセフが2人の世話をゆだねられました。いく日か過ぎた時、2人がそれぞれ意味のある夢を見ましたが解き明かしができず、困惑していました。ヨセフは2人に毎日心を向け、関心を持って仕えていたので、彼らの憂鬱さを察してたずね、夢の解き明かしを行いました。そして給仕長が復職することを見通した上で「あなたが幸せになられたら、わたしを覚えていて、この家からわたしを出してください」と王への執り成しをお願いしました。しかし給仕長は元の地位へ戻ってもヨセフを思い出さず、釈放はかないませんでした。人は、忘れられると孤独感が強まります。自分のなした仕事が認められない、正しく評価されない、心をこめて依頼したのに正式な返答がない、困っているのを助けてあげたのにお礼もない。報われないことは自分自身の存在が軽んじられたような怒り、寂しさを感じます。「誰も分かってくれない」「誰も自分を大切に扱ってくれない、自分の言葉や行いを重んじてくれない」そう思うとますます自己肯定感が低くなり、大勢の中で自分は必要とされていないのではないかと不安が増します。では神様はヨセフを軽んじ、忘れていたのでしょうか。決してそうではありません。もし給仕長が、自分が赦されたタイミングでパロに執り成しをしたとしても、ただ釈放されるだけでヨセフが宰相になることはなかったでしょう。神は全てご自身のご計画の中で事を進められています。2年間も放っておかれて、世間から忘れられているようにみえるヨセフのことを神は「その時」が来るまで忍耐させます。ヨセフも神から見捨てられたとは思わず、取り巻く状況に左右されず神を信頼し続けています。私たちも今おるべき所で誠実に人と向き合い、神は決して自分のことを忘れられることはない、と約束の言葉と神の愛に信頼し、平安の内に歩めますように。