10/20 メッセージ要約

「誇りと傲り」サムエル記下17章

「誇り」とは、自慢に思うこと、自分に値打ちがあると感じることなどを意味します。「誇り」の類義語には、傲り、驕傲、矜持、ごう慢などがあります。誇りが傷つけられたアヒトペルはダビデの家に復讐をすることで屈辱を晴らそうとし、体面にこだわるアブサロムは新しい王としていかに見栄えよくするか、汚名をかぶらないかを気にしました。参謀アヒトペルの知謀はダビデも認めていた為、敵に回った時ダビデは恐れ「主よ。どうかアヒトペルの助言を愚かなものにして下さい」と祈りました。しかし切れ者のアヒトペルは、ダビデの息の根を止める好機を見逃さず「自分に兵を与えてもらえば、弱っている敵をここで一気にたたける、敵勢と正面衝突するのでなく奇襲によってダビデ一人を殺しさえすれば、犠牲を増やさず全てまるく収まる」と提案しました。賢く理にかなった無駄のない優れた策でしたが、アブサロムはダビデの友であったホシャイの意見も聞こうとします。ダビデと長年親しくしていたのに寝返ったと信じられ重用されたホシャイでしたが、実際はダビデ陣営から送り込まれた人物でした。ホシャイは言葉巧みにアヒトペルの策に難癖をつけて妨害し、(ダビデ軍が態勢を立て直す時間稼ぎができる)別案を提唱します。ホシャイの進言はアブサロムの満足するもので、長老たちも良いと判断しました。これは主がアブサロムに災いをもたらそうとして働きかけたためです。ダビデはかつてサウル王に命を狙われ、危険な橋を幾度も通る中で「神様の守りの確かさ」を体験してきました。神に身を避け、祈り求めることが、何より頑丈な盾、堅固な砦に守られる、強い保障であると知っていたのです。ダビデの周囲には、ダビデのために命をかける人が多くいました。彼と苦楽を共にしてきた人々は、ダビデの人柄を見て信頼したのです。アブサロムは人々の心をうまく取り込んだつもりでも、烏合の衆は時間の経過とともに結束のもろさが露呈していきます。ダビデは神の栄光を求め、アブサロムは自分の栄光を求めました。神の前に謙虚でなかったアブサロムは、罪の結果が自分の身に帰ってきたのです。神を恐れ、神に祈り求め従う者に、主は確かな守りと報いを与えられる真実を発見することができます。一方アヒトペルは自分の提言が用いられなかったことで、ダビデ王を殺せる勝機を逃したことを知り、アブサロムに絶対的な信頼を得ていなかったことも悟り、政治生命も自分の復讐の道も断たれた将来を見越して自死します。先が見えすぎたアヒトペルの未来は憎しみと虚しさに覆われた滅びの道だったです。彼にも神に従い救いの道を選ぶ機会はあったことでしょう。しかし、驕り高ぶり、または怒り憎しみといった感情はその機会を見えなくさせるのです。