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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-03-05 22:08:24 (89 ヒット)
メッセージ

「私は必ずあなたと共にいる」(出エ3:1〜12)
エジプトから逃れミデヤン荒野で40年羊飼いをしていたモーセを、神は指導者として召命します。声をかけられた場所は神の山ホレブ(シナイ山)でした。モーセは特別な礼拝行為をするために訪れたわけではなく、羊の世話をしている延長でその地へ来たのです。神様は人の予期せぬ場所に現れて語りかけることがあります。イエス誕生の際、天使が真っ先に現れたのは神殿という聖なる場所ではなく、むしろ宗教的と誇る人々から蔑まれていた羊飼いのもとでした。私達は神様との関わりはどこか聖なるものと世俗的なものと分けて考えがちですが、教会だけに神様が臨在されるのではなく、私達の何気ない生活、平凡な毎日の繰り返しのただ中にも神様はおられるのです。モーセの召命もその日常の延長線上で起こった出来事でした。しばが燃え尽きないという不思議な光景の中で、神はモーセに語りかけました。「私はイスラエルの叫びを聞いた、悩みをつぶさに見た、私は彼らの苦しみを知っている」全知全能の神は、私達の痛みを知っておられ、私達の弱さを「労わられる」お方です。その神がモーセに命じられたのは、イスラエル人を救いエジプトから脱出させることでした。一度モーセは同胞を助けおうとして失敗しています。失敗の体験は根深く残り、二度としたくない、できれば避けて通りたいと思うものです。そんなモーセに神は「わたしはあなたと共にいる」と励まされます。信仰者にとって、自分の力が不足していようと「神が共におられる」という約束は最高の誉れであり、勇気づけられるものです。神の目から見れば、モーセもまた汚れた罪深い人間であり、聖なる神に近づけばたちまち焼き尽くされてしまう存在です。しかし神がモーセを選び、イスラエルを導くよう召されました。私達も遣わされている地において、職場や家庭において、神が共におられるという信仰による勇気をいただきながらキリスト者として生きようではありませんか。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-03-05 22:05:21 (88 ヒット)
メッセージ

淡路聖会 説教「あなたもあなたの家族も救われます」(使徒行伝16:16〜34)
パウロとシラスは、ピリピの伝道旅行で占いをする女から悪霊を追い出し、金儲けできなくなって怒った女の主人から役人に訴えられました。騒ぎを大きくしたくない役人は2人を捕らえムチ打ち、牢獄へ収監します。2人は恐れることもなく獄屋の中で賛美を歌っていたら突然地震が起こり、扉が開き囚人達の鎖も解けてしまいました。驚いた看守が自害しようとするのをパウロとシラスが制止します。ローマの権力に縛られ、不自由な自分に引き換え、理不尽な仕打ちをされ牢獄にいながら地震が起こっても平然としていられる2人に圧倒され、看守は「あなた方が持っているものを私にも下さい、私は救われるために何をしたらいいでしょう」と尋ねます。パウロ達が持っていたもの、それは「私の平安を与える‥あなたがたは心騒がせてはならない」とイエス様が言われた、救われた平安です。『イエスを信じる』ということは『全てを持っている』ことと同じです。All in one、全ての物が一つに含まれているように、イエス様を信じることが根本の解決につながるため、どんな困難や災害が起こっても複雑な問題の中にいても、この方を信じていれば平安でいられるのです。『信じる』というのは『ゆだねる』と同じことです。医者を信頼し自分をあずけ、診立ててもらった指示に従い回復していくように、イエス様は信頼に値するお方だから安心して全てを任せられるのです。信仰は、「分かったから信じる」のではなく、「信じたら分かる」ものです。イエス様に自分の人生を丸ごと明け渡していれば、どんなことが起きても動じることなく平静を保って立っていられるのです。魂の救いを得て、輝いて生活するクリスチャンのありのままの姿が喜びを以心伝心して、家族や周りの人が救いに導かれるのです。パウロとシラスは看守とその家族に「私達の喜びの源はイエスである、この方を信じれば救われる」と語り、彼らはイエスを「信じた」のです。私の父は死に至る病のいやしを体験し、川崎先生のもとで信仰決心をしました。賛美し楽しそうに教会に通う父の姿を見て「イエス様はすごいお方だな」と感じ、やがて私も洗礼を受けました。信仰が広がるのは、クリスチャン一人ひとりが神様に置かれた生活の場で咲く、信仰・希望・愛に生きることだと思います。それぞれが救われたところで、家族や知人にイエス様の栄光を伝えていくことができますように。
講師:大塚学師(大阪中央福音教会)


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-02-23 22:29:18 (92 ヒット)
メッセージ

「人の正義と神の義」(出エジプト2:12〜25節)
モーセはヘブル人という自覚はありましたがエジプトの王族として不都合なく生活していました。しかし同胞への仕打ちに義憤にかられエジプト人を殺害してしまったことを機に、モーセの人生は暗転します。彼流の正義を行ったもののヘブル人からは拒絶され、エジプトとの関係には亀裂が生じ、王に殺されそうになり、モーセは国外へ逃亡します。その昔ヨセフが宰相の頃、ヘブル人はエジプトに歓迎されましたが、ヤコブの子孫が勢力を増すにつれてその関係は冷え、ついには根絶やしにされそうになりました。イスラエルの民が歴史的に体験した出来事をモーセは個人の歩みで追体験することになります。逃亡したミデヤンの地では祭司の娘達が羊飼いに追い払われたのを看過できず、彼女達を助けました。そこで行った彼の正義は受け入れられ、祭司の娘チッポラと結婚し、彼は平安を得ました。生まれた男子にゲルショム(寄留者の意)と名付けますが、外国人でありエジプトにも居場所のないモーセの自覚から命名されたのでしょう。ミデヤン荒野での40年の生活は、後にイスラエルの民を率いてカナンを目指すリーダーとなるための資質を培いました。安定した生活を送っていた彼に、神はエジプトへ向かうよう命じられます。エジプトで「誰があなたをさばきつかさにしたのか」とヘブル人に非難されましたが、モーセは後の生涯この問いにさらされ続けることになります。神に召され、神の民を救う為に命をかけているにもかかわらず、受け入れようとしない人々に傷つけられながらモーセは指導者として歩み続けなければなりませんでした。人の正義は時に衝突・争いの原因となり、人を破滅させるものです。しかし十字架によって示された神の義は人を救い、命をもたらすものです。神の義を行うためにモーセは神に整えられ用いられる器へと訓練されていきました。80歳からモーセの新たな人生が始まったように、私達もこれまでの様々な苦しい体験を積み重ねていくことは神のご計画の中で整えられていくため必要なことだったのです。聖書の歴史の中で起こる出来事は、私達の人生にも同じようなことが起こると鑑み、聖書を学ぶ中で生きる知恵をいただくことができるのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-02-17 10:28:40 (85 ヒット)
メッセージ

「麗しいのを見て」(出エジプト2:1〜11章)
ヘブル人を恐れるエジプト王はその勢力をそぐため苦役を課し、生まれた男子を全てナイル川に投げよ(殺せ)と命じました。そんな中レビ人の子として生まれたモーセも例外ではありませんでした。母親はその「かわいい」「麗しい」「美しい」のを見て大切に育てましたが隠しきれなくなりました。彼女に出来る精一杯のことはその死の瞬間を遅らせることぐらいでしょうか。パピルス製のかごで防水の工夫をし、ナイル川の岸辺の葦の上におきました。この子が何とかして生きのびてほしいと出来る限りのことをしました。しかし、死は時間の問題です。「もう駄目だ」このような感情が芽生える瞬間は、信仰者の長い人生の中にもあります。「あとは神に委ねるしかない」そう心から委ねることが出来る人は幸いです。神が備えられたのは、ヘブル人の男子を殺せと命令を下した当のエジプト王の娘でした。彼女にあわれみの心を与え、モーセを助けるように動かされたのです。エジプト王の娘の子として扶助を受けながら育ち、王族の一員としてエジプトの一級の教養を身に着けました。エジプト脱出の際のイスラエル指導者として、神の訓練は始まっていたのです。後に神と群衆の仲保者として立つモーセも、誕生した時は自分のことを守ることもできない非力な赤子でした。神は母親の心、王の娘の心に働きかけモーセを守られたのです。私たちの人生の中にも危機的状況はあることでしょう。そのような時こそ神はこの状況をどの様に用いられるのか、またどの様に備えて下さっているのか期待したいと思います。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-02-10 17:06:43 (96 ヒット)
メッセージ

「恵みの日々の中で」(出エジプト1章)
創世記でヨセフは神の助けと導きにより、エジプトで位人臣を極めました。当時のエジプト王朝はヒクソス人が治めていましたが、それから400年後にエジプト人による支配が再興すると、イスラエル人に理解を示さない(ヨセフのエジプトに対する貢献を知らない)王が登場します。ヤコブの一族は激しい飢饉にあい、食料難から逃げるようにエジプトへ移住したわけですが、70人ほどの家族が何百万という民族におびただしく増え広がっていました。神がアブラハムに約束された通りにその子孫が繁栄したのです。それに恐れを感じたエジプト王はヘブル人(=イスラエル人)の勢力をそごうと謀り、過酷な苦役を課しました。そしてヘブル人の男子は生まれたらみな殺せと命令します。しかし王の意図に反してヘブル人はますます増え続けました。新約聖書のヘロデ大王によるベツレヘム周辺の男子虐殺(マタイ2:13〜)を想起させますが、人の手で神のご計画を遮るような妨害があろうと、神のご計画は御手により必ず成就されるのです。またそこには神を畏れる助産師達の働きもありました。神は彼女らの家を栄えさせました。いのちの尊厳に対し様々な場面で問われることがありますが、胎内に形造られる前から神が人を愛していた、という神への畏れがその問いに対する答えを出し、生き方に反映するのです。様々な職業があり、その価値判断も色々あり容易ではないかもしれませんが、神を畏れる者でありたいものです。この地上において私達も寄留者ですが、思いもよらない出来事も時がたてば喜びに変えられると信頼し、恵みの内を歩めますように。


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