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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-08-11 00:09:02 (80 ヒット)
メッセージ

「過越しの犠牲」(出エジプト12章1〜39節)
エジプトの苦役によるイスラエルの苦しみ叫びを聞かれた神は、民を救うためにモーセを遣わされましたが、エジプトを去らせることを頑なに拒むパロに9つの災いを下します。災いの時は民を解放することを口にしても、災いがおさまれば約束を翻すパロに対し、最後の災いが下されます。それがエジプト中の長子の皆殺しの災いです。身分の高い者も低い者も関係なく、パロの家庭から家畜の初子に至るまで神様の処罰は徹底していました。しかしここにもエジプトとイスラエルの区別がありました。信仰による区別が明らかになるように、傷のない小羊を殺しその血を門と鴨居に塗れば主は通り過ぎる、と言われました。羊の血がつけられている家は過ぎ越され、神の死の裁きを免れたことは、罪のない小羊イエスの犠牲によって命を救われることのモデル(型)であることが分かります。ほふられた羊は過越しのいけにえとして火で焼き、食べるよう規定されています。家族という最小単位の共同体で犠牲にした小羊を分かち合い、神の裁きと赦しを知り、生かされた者として感謝しながら共に一歩を踏み出すために、共に食す機会を設けられました。そしてこの過越しを記念すべき主への祭りとして祝うよう規定されました。「あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる」(12:13)神様の言われたことを信じ、従わんとする者は裁きを免れる、過越しの出来事はキリストの十字架の血潮がしるしとして与えられたことを予表しています。赦された者としてこれから生きていく時、孤独ではなく主は共同体を用意して下さり、そこで恵みを分かち合い私たちを送り出して下さることを覚え感謝をささげましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-08-11 00:07:30 (32 ヒット)
メッセージ

頑なな心」(出エジプト10章)
第7の災いでは激しい雹が降り農作物、家畜に甚大な被害を及ぼしました。しかし災いが収まり、雹の被害を免れた作物も残っているのを知るとパロの心はまた頑なになりました。それに対し神はモーセを通して「いなごにより残った作物も全て食い尽くす」と警告します。家臣たちは危機感を抱き、「彼らを去らせて下さい、国が滅びかかっているのが分からないのですか」と初めてパロに進言します。かつてない非常事態だというのに、何度災いが下ってもそこから学ぶことができないパロの目は覆いがかかっているようです。自分のこだわりによって冷静になれず、状況が客観的に見えないために真実からどんどん遠ざかってしまいます。明らかに自分が間違っていると分かったとしても、権力者としてのプライドや目先の利益を優先して、神の前にへりくだることを良しとしなかったのです。その驕り高ぶりが、結果身の滅亡を招くのですが、ここでパロは「壮年だけ行け‥女子ども、財産は置いていけ」と要求します。人質を残して、完全に手中から去らせるつもりはないのです。神はそれをお許しにならず、いなごの害を下されました。台風のように襲撃したいなごの群れは、エジプト全土に渡って緑のものは何も残さず食い尽くし、まさに完膚なきまでにエジプトは叩きのめされました。それでもイスラエルの人を去らせなかったパロに、神は第9の災害として濃い暗闇を3日間続かせました。しかしゴシェンの地だけは光がありました。太陽神ラーの子とされる現人神を打つ災いに、パロはまた妥協案を示します。「家族は連れて行っていいが財産は残せ」と。少しずつ譲歩しているようですが、頑なさというものは何度も砕かれても、核となる部分はなかなか折れないものです。私たちもパロのような強情さがあると、砕かれなければ神に目を向けることはできません。神が言われたことは「ではこの条件なら」と交渉するものではありません。神を信頼し、全てをゆだねる、良きものを捧げるのが礼拝であり、神に仕えるということなのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-08-11 00:05:30 (26 ヒット)
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「神の裁きと救い」(出エジプト9章)
パロは頑なにイスラエルを行かせようとしないため、神は第5の災害を下し、疫病でエジプトの家畜が次々と倒れました。しかしイスラエル人の家畜は一頭も死にませんでした。神聖な動物として祀られる牛などが打たれ、家畜を失い経済的な打撃を受けてもパロの心は動きませんでした。第6の災害はかまどの灰をまき散らし、それが人と獣につくと膿となりました。魔術師たちは潔癖を保つことが彼らの信仰表現でしたが、彼らにも腫物ができてしまいました。それでもパロはモーセの言葉を聞き入れようとしないため、神は「エジプト建国以来、かつてなかった程激しい雹を降らせる」と予告されました。疫病で一瞬にしてエジプト全土の民を滅ぼすこともできたが敢えてしなかったのは「主の力を示すため」「主の名を全地に告げ知らせるため」と言われました。エジプトの信仰する医学の神や農業の神や空の神を打ち、主こそこの全地を統べ治める力ある神であると知らしめたのです。そして「家畜、野にある全てのものを避難させよ」と、御言葉に聞き従う者は災いから逃れるチャンスを与えられました。パロの部下、家来の中にも主の言葉を畏れてその通りにした者もいました。ここでもイスラエルは雹の被害から免れました。神の御手の中で、イスラエルとエジプトははっきり区別されています。しかしエジプト人であっても、御言葉を心に留める者は神の守りに入れられるのです。災いを下されて痛い思いをしてから「主は正しいお方だ」と身をもって知るのではなく、主の言葉に力があると畏れて聞き従い、「主こそ神です」と信仰告白する者でありたいものです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-07-20 13:09:26 (50 ヒット)
メッセージ

「神の裁きと救い」(出エジプト8章1〜24)
エジプトが「主を知るために」神は10の災害をモーセとアロンを通してなされます。ナイル川を始めとしてエジプト中の水を血に変えてしまいました。それでも心変わりしないパロに対し、神は「‥かえるでもって‥撃つ」と悲劇を予感させる強い言葉を伝えられますが、その御業に用いられたのは大量のかえるでした。多産の象徴としてエジプトでは神聖な動物とされていたかえるでしたが、家の中、寝室やかまどの中までもかえるに溢れ、国中が困り果てました。一方、人々にその呪力によって畏れられた魔術師たちにもどうすることもできず、モーセとアロンを真似して更にかえるを出し、むしろ被害を拡大させてしまいます。王宮もかえるだらけになって困ったパロは、「かえるを去らせれば、犠牲を捧げに行くことを許可するから」と神にとりなすようモーセに交渉します。モーセが主に呼び求めるとかえるは次々と死んでいきました。するとパロは意見を翻して心を頑なにします。そこで神は地のちりをぶよに変える奇蹟をされました。エジプトで大地は神の一つとされていましたが、神はその地を打つことで人々と家畜を咬むぶよを大量に発生させました。魔術師たちには真似することができず、自分たちもぶよの被害を受けて「これは神の指の働きです」とパロに言いました。それでも懲りないパロに対し、神はおびただしいあぶを発生させます。しかもエジプトの中でもイスラエルの民が住むゴセン(ゴシェン)の地にはあぶを入れられず、守られたのです。吸血し病気を媒介するあぶの群れによってエジプト全土が荒廃しました。この第4の災害は、神の選びによりイスラエルは特別に守られていることをパロが知るための出来事でした。神を信じる者がそのことを記憶し、従う者は御手が働かれて救われるのだということを覚えて感謝しましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-07-13 22:47:38 (53 ヒット)
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「しるしと不思議」(出エジプト7章)
出エジプト記7章8章ではモーセとアロンがパロの前で行った神の奇蹟を、エジプトの呪術師たちも真似しようとします。奇蹟を起こせることが力の証明、権威の正当性のあかしではありません。マタイ24:23〜でイエス様は偽預言者や偽キリストが現れ、大きなしるしや不思議なことを行って人々を惑わす、と注意しています。数々のしるしを行ったとしても、それが神様の栄光を現すために天から与えられたものか、欲を満たすために人の耳目を集めるためのものなのか、見極める必要があります。イエス様は「私の言葉を信じることができないならば、しるしを見て信じなさい」と言われましたが、目に見える奇蹟というのは私達を納得させる強い力があるのです。しかし奇蹟だけを見てその人物を神から遣わされた者であると安直に判断してはいけません。聖書はその人物や出来事からどのような実が実ったかを見て判断するように教えています。エジプトの魔術師たちが行った秘術は、人々を幸せにすることはできませんでした。モーセとアロンと同じようにナイル川の水を血に変えたり、全土にかえるをあふれさせたりして被害を拡大させても、それを食い止めるための魔術は行えなかったのです。さらにモーセとアロンが地のちりからぶよを大発生させると、魔術師たちにはそれができませんでした。その後も次々と神の奇蹟は行われ、人間の小手先のまやかしを凌駕する超人的な業をエジプト全土に見せつけたのです。もう一つ注目したいのは魔術師たちが杖を蛇に変えたところ、神の杖はその蛇を飲み込んだ奇蹟です。「飲み込む」と同じような言葉が出エジプト15章で追手のエジプトの兵隊が紅海にのまれた時に使われています。いずれもパロが神に抵抗するけれども、最後は神が完全に勝利することを「飲み込まれた」という言葉に表されています。神のご計画であってもそれに抵抗する者、私達を攻撃する者は必ずいます。移りやすい人々は人生の勝利者、力ある者の側につくため私達は侮辱され迫害され、敗けているように感じる時もあります。しかしイエス・キリストによって死は神の勝利に飲み込まれた(コリ15:55)ことを心に留めておきましょう。


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