
「創造の力」創世記1章1〜5節
あらゆる配慮のもと、天と地を造られたお方が無目的に人をお造りになったわけではありません。ただ被造物は自分でその目的と意味を知らない、分からない、認めないことはあります。人は神の似姿に造られましたから、自然界に有る素材を組み合わせ造作することは可能です。しかし無いものから有るものを作り出すことは未だ困難です。神は無から有へ、言葉によって世界を創造されました。世界の始まる前から神(父、御子、御霊の神、コロサイ:1〜15〜17)はおられ、万物は「御子によって造られ、御子のために造られた」のです。神は木や石、金属で作るやがて朽ちてゆくものではありません。また何かのイメージを拡大したものでもありません。神は初めであり、何よりも先に存在されたお方です。創世記1:2「地は形なく、むなしく、闇が淵のおもてにあり」他の訳では「地は混沌であって」という表現が使われています。混沌とは「区別が立たず物事が入り交じっている状態」つまり無秩序状態です。人は安定した秩序の中、未来を思い描けるものですが、自然災害や戦争、疫病の蔓延など命が脅かされ混沌とした世界では不安と絶望が先立つかもしれません。そこで私たちを励まし勇気を与えるのは「創造の力」を持つ神への信仰です。神は無目的に人に命を与えられたわけではありません。神のご意思による意味づけ(目的)がり、神が造られた世界には神の定められた秩序があります。天地を造られ、それを「良し」とされた神が私たちの人生も「良い」方向へ導いて下さると信じ、神の御心(祝福)を求めて歩んで行きましょう。

「主権と栄光」ダニエル7章
主権とは、他の意思に支配されない統治する力という意味があり、栄光とは一般的には名誉のことを意味し、キリスト教においては神のあらゆる素晴らしい性質のことを意味します。歴史の支配者である神が、創造以前に定められたご計画により、イエス・キリストの死と復活を中心に堕落した罪人を救う、全ての御わざを指して救済史といます。救済という言葉は「解放」と似た意味として、罪という束縛から代価を支払い自由となる「救い」を指しています。つまり聖書でいうと救済とは必ず何か代価を支払わなくてはいけないということを前提としています。罪の結果である死 (ローマ6:23) の代価を、私たちの代わりに支払い、救ってくださるのは天においても地においてもイエス・キリストただ一人です (マタイ20:28)。救済史的視点からダニエルが見た幻の意味と今日における私たちに向けられたメッセージを見てみましょう。ペルシャ、マケドニア、ローマ…国家の盛衰が預言されます。人の世には限りがあるが、永遠なるお方である神が統治される。「人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、……彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」(13.14)つまり、ダニエルは紀元前500年からの2500年以上の歴史を見せられ、神の支配と裁きを告げられるのです。獰猛な獣のような国々の略奪や殺戮に恐怖することがあろうとも、イエスが裁きの座に着かれ、人の子は教会のかしらとなり、羊を獣から守る羊飼いのように信仰者を助けて下さるのです。私たちは終末の危機に一喜一憂するのではなく、全てを俯瞰しておられる羊飼いの声に聞き従い、まだ神の守りの囲いに入っていない人々も導かれるよう祈りましょう。

「たとえそうでなくとも」ダニエル3章
エレミヤ、エゼキエル、ダニエルに共通するのはバビロン捕囚の初期に活躍した預言者であることです。本日の箇所はダニエルと同世代のユダヤ人3名が信仰による勇気を示した場面です。ネブカドネザルは自らの権力を誇示するため金の像を造りこれを拝ませました。富の豊かさと技術の高さも表すものでしたが、高さ約27m、幅約3mと不安定なところがはたから見て愉快です。しかし当時の人々はバビロン王の力を象徴するこの金の像にひれ伏すのでした。様々な国や民族を治めるため、バビロンは力を誇示し恐怖により人民を支配する方法をとりました。国の高官や支配地域の有力者たちはどのような命令にも従うのか、各々の宗教や戒律よりもバビロンの法律が優位であるよう、金の像は試金石となったのです。しかし意外な人々が拝もうとしません。ユダヤ人の3名です。彼らは幼少よりバビロンの国益になるべく時間と労力、資財を投じ教育を与えられた優秀な敗戦国の子弟です。なぜ王の意に添わぬことをするのか。空気を読め。人々の心の声が聞こえてきそうです。「拝まなければ焼き殺す」これは口先だけの脅しではありません(エレミア29:22)。王は彼らに態度を改めるように諭します(脅します)が、彼らは「(私たちの)神が救い出して下さる」そして「たとえそうでなくとも」(ダニエル3:18)自分たちが願う結果にならなかったとしても、自分たちはこの世の力に屈することなく神に従うと信仰を表明しました。自分の意に従おうとしないユダヤ人3名を、バビロンの王は容赦なく彼らを炎の中に投げ込みます。民衆への見せしめとなるはずが、ネブカドネザルが見たのは燃えさかる炎の中で生きている3人と、彼らを守るもう1人の白いお方でした。バビロン王の力を誇示する装置の金の像が、イスラエルの神が今も信じる者を救うことを証しする機会に用いられたのです。

「死んでいたものが生きる」エゼキエル37章
第一次バビロン捕囚ではエルサレムは王たちが捕らえられても、まだ王国としては存続していました。しかしゼデキヤ王の反乱を経て11年後、エルサレムは滅ぼされ、捕囚された民は本当に帰る所を失ったのです。「われわれは望みを失った」神に見放され見殺しにされた、自分たちにはもう未来はなく生きていても死んだような者であると感じ、嘆いていました。しかし実は、神の御心を知ろうとしないイスエラエルに対する裁きであり、神のご計画のうちに起こったのです。そのような中でエゼキエルは預言者として召命を受け、一つの幻を見ます。多くの人が殺されたか死体を捨てる所として枯れた骨が埋まる谷があり、風雨にさらされた沢山の人骨に向かって預言せよと神は言われます。エゼキエルが命なき骨に預言すると、骨と骨がつながり始め、肉と皮膚がつけられ人のような形となりました。しかしまだ生きた人間ではなく死人のようでした。神は再び語るように命じられエゼキエルが預言すると「息」が体に入り、命の灯が宿り大勢の生きた人間の群れとなりました。これは捕囚によって生ける屍のようになったイスラエル、造り主から離れ、いのちの豊かさが枯れてしまった民たちに、神の息=いのちと希望を受けると信仰により新しいいのちが与えられる、人生は主の御言葉によって生きることができる、ということが示されたのです。またエフライム(北イスラエルの別称)と南ユダは一つにされ、争いによらず平和のうちに一人の王が立つと預言されます。イスラエルは苦境にあり望みも枯れ、このまま子孫は絶えるだろうと思っていました。しかしイスラエル王国はひとりの牧者が治め、永遠に主の祝福があると預言されます。この牧者とはイエスキリストであり、キリストを信じる者はその祝福の約束にあずかるのです。将来のイスラエルの帰還の約束だけでなく、遠い未来の人々の救いのご計画まで示されたのです。

「新しい心と新しい霊」エゼキエル36:22〜32
前回「巻物を食べよ」では神の御言葉を身に着けよ、相手が聞いても聞かなくても語り続けよ、語る対象は反逆の家だから悔い改めても忘れてしまう、語り続けよということでした。本日の箇所で神は「新しい心と新しい霊」を与えるというのです。異邦人の間で地に落ちた聖なる御名の回復のためです。イスラエルが回復しても彼らは再び罪を犯すだろう。もう少し確かなところから再建する。それが「聖なる御名の回復」です。彼らから「石の心(頑なな心、自己中心的でしなやかさを失った心)」を取り除くと主は言われます。固く鋭くなった心は相手を傷付け痛めつけ、自分の律法で一方的に人を裁く心、攻撃する心です。一方、肉の心とは新約聖書では人の欲とか流されやすい心理を指すのですが、ここでは「石の心」の対になる意味すなわち、しなやかな強さを秘めた「柔らかい心」です。神に依り頼み、神の教えと戒めを守り行う強い意志(信仰)、それを行わせて下さるのは「新しい心と新しい霊」です。(参考:エゼキエル18章「罪の責任」エレミヤ31章「心に刻む新しい契約」)新しい霊、神の御霊なる「聖霊」が注がれたのはエゼキエルの時代から約600年後、イエス・キリストの十字架、復活を経なければなりませんでした。主イエス曰く「人はだれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう。これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。」(ヨハネ7:38、39)エゼキエルの預言「わたしは清い水をあなたがたに注いで、すべての汚れから清め、またあなたがたを、すべての偶像から清める」(エゼキエル36:25)は、聖霊の注ぎにより成就したのです。