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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2020-11-27 11:18:09 (10 ヒット)
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「エリコ陥落」 ヨシュア記6章
ヨルダン川を渡るという信仰の体験を経たイスラエルは、父祖が経験したこと(過越しの祭りと割礼)を再度、自分たちも行い、神とのかかわりの刷新をします。そして難攻不落の町エリコを眼前にして、神はここで不思議な指示をします。7人の祭司と7つの角笛を先頭に町の周囲を沈黙のまま6日回ること、7日目には7周回り、最後にときの声を上げること。おそらく最終日は安息日と考えられます。この戦いは「聖戦」であり、「聖絶」行為もすべて神へのささげものとして位置づけられています。ここで必要とされるのは感情的興奮や虚勢をはることではなく、7日の間沈黙を守ること、静まり、「神の時」までは自分の言葉や声を聞かせてはならない、叫んではならないと言われたのです。エリコの町は完全な防護体制がしかれ、目に見える状況では町に攻め入ることが困難であったとしても、すでに主はその町を民たちに「与えた」ので、あなたがたはそこを占領せよと言われたのです。ヨシュア記のテーマは信仰による勝利、信仰によって神の賜物を自分のものとしていく戦いです。新型コロナウイルスの蔓延により、当たり前と思っていた日常、自由に集い礼拝し、会食を楽しみ交わりをすることが困難となりました。人々の中に誤った先入観や狭い視野から生じる敵意・偏見といった大きな壁が築かれてしまいました。しかしいつの時代も、信仰の視点ではどんな強固な壁(伝統という壁、罪の城壁)も主の方法で崩すことが出来るのです(エペソ2:14-16)。民たちは7日も黙して行進する理由を神に問わず、不平不満を言わず神の言葉に従いました。今、ウイルス性の感染症の脅威の中、忍耐強く神の言葉を聞き、祈りながら歩みましょう。必ずいつかこの困難が崩れ去り、共に賛美を主にささげられることを信じ、待ち望みましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2020-11-19 15:01:38 (19 ヒット)
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「ヨルダン川を渡る」 ヨシュア記3章
神はヨルダン川を渡ってカナンへ入れと言われましたが、その時季は川の水量が多く勢いもあり、人が歩いて渡ることなどとても危険なことでした。無謀としか思えない行為ですが、ここで改めて主はヨシュアを励まされます。「イスラエルの前にあなたを尊い者(大いなる者)とするであろう」ヨシュアにモーセと同じような神の賜物と選びがあることを全イスラエルに知らしめ、ヨシュアを指導者として育成するためであると言います。そしてヨルダン川を渡ることは(紅海の奇蹟を体験していない世代の)民衆が信仰を働かせる機会とし、神の奇蹟によってこの難関を突破して信仰豊かな者とされるのです。契約の箱をかつぐ祭司たちの足が川に入った瞬間、流れがせき止められる様子をイスラエルの民たちは目の当たりにし、神の奇蹟の証人となりました。この出来事は、主がカナンの地に住む7つの民を「必ず追い払われる」ことのしるし(保証)となりました。ヨシュアに率いられたイスラエルはヨルダン川を渡る中で神の奇蹟を経験し、信仰の課題を一つ克服するのです。今、私たちにとってヨルダン川(信仰の課題)は何でしょうか。私たちの生涯の中で何度も乗り越えていくべき信仰の課題、壁(困難や問題)が現れます。イスラエルは課題を乗り越えるために必要な荒野の40年がありました。主はキリストによって約束された祝福を必ず与える確証として、聖霊を下さいました。私たちが信仰の課題に向き合い乗り越えていくために必要な勇気を聖霊様がお与えください、と祈ろうではありませんか。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2020-11-14 10:11:19 (20 ヒット)
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「雄々しくあれ」 ヨシュア記1章
ヨシュアはモーセの後継者として民たちをカナンへ導く任務を託されました。この1章に繰り返されているのは「恐れるな」「強くあれ、雄々しくあれ」です。イスラエルの真の敵とは何でしょうか?それは「恐れ」です。恐れはあらゆる悲観的な要素を増幅させ、人を不安にし、未来に対する希望と思考を奪うことを容易にします。歴史を見ると幾多の為政者たちが、恐怖によって人々を支配しました。情報化社会の現在は、さらに巧妙で狡猾な方法が取られていることでしょう。しかし神はご計画を成すにあたり、恐怖を手段として用いられません。聖書は「主を恐れよ」と教えていますが、それは真に恐れる対象は神であって、人ではないということです。神は人がその愛に信頼と信仰をもって応えることを望んでおられるのです。神はヨシュアを何度も励まされました。ヨシュアに託された課題はカナンの地に入るだけでなく、イスラエルの人々の信仰を鼓舞し、恐れを克服させることにありました。30数年前のガデシ・バルネアの失敗がよぎることもあるでしょう。しかし「強く、雄々しくあれ」というのは「努力して、頑張って」という意味ではないのです。40年におよぶ荒野生活を通して、イスラエルの民たちは主を信頼することを学んできました。世には困難がる、しかし勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝利していると主イエスが話されたように、神が共にいて下さるから必ず困難を乗り越えて、約束の地を受け継ぐことができると励まし続けられたのです。主にあって信仰の道を雄々しく歩みましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2020-11-06 09:34:01 (31 ヒット)
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「顔を合わせて知られた者」 申命記34章
信仰の偉人に対する聖書の評価に「主が共におられた」「神と共に歩んだ」「ダビデの道を歩んだ」などがあります。モーセは「主が顔と顔を合わせた者」とあり、神と人との関わりにおける最も親しい関係性が表現されています。そのモーセもついに人生の旅路が終わる時を迎えます。「モーセが死んだときは120歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった」私たちが何を見、どこを見ているかによって歩むべき方向性が定まります。120歳になったモーセの目が「衰えなかった」のは、まさに彼の目は見るべきものを見ていた、つまり神の永遠のご計画を見ていたからだと言えます。もし私たちの目が神の御旨の永遠性を見ていないとしたら、やがて体力や気力が衰えていくように信仰も希望もやせ細るかもしれません。人の限られたいのちの時間からでは、神のなさる業を俯瞰(ふかん)することはできません。どんなに熟慮しようとしても限界があります。しかしモーセは、神のご計画の完成を待ち望む希望、約束の地がイスラエルに与えられることを信仰の目によって見続けていたのです。ときにモーセは癇癪を起しました(※エジプト人殺害、石板を叩き壊す、メリバでは杖で岩を二度叩き水を出した)。人には長所・短所があり失敗もするけれど、聖書はモーセに対し最大限好意的であり、神もそんな彼を受け入れています。「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた」ように、主イエスは私たちにその慈しみ深いまなざしのまま御言葉で語りかけてくださいます。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2020-10-30 23:55:02 (31 ヒット)
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「青銅の蛇」民数記21章
荒野での全ての期間、民たちは水不足という問題に悩まされました。主に命じられてホレブの岩を打った(出エ17章)時のように、メリバの水の時(民20章)も民たちは「あなたがたはこの荒野で死なせようとするのか」と騒ぎます。モーセとアロンは怒りのあまり感情的になり、権威の杖をもって岩を二度打ちました。この時神は「岩に命じれば、水が出る」と言われたのに、言葉通り命じるだけでなく、岩を二度も打ったのです。やがて来るキリストの救いとあがないは「ただ一度(一回限り)」というキーワードがあります。一度で最終的に決定してしまうことを意味する語彙です。神の子が人の罪のために身代わりとなられたあがないは完全で、やり直し、繰り返しはないのです。神の言葉に従って民たちを率いてきたモーセとアロンですが、「約束の地に入れない」と言われてしまいます。その後、エドムをう回して荒野を旅しますが、その途中アロンも亡くなります。う回する道の総距離はかなりのもので困難をきわめました。民たちは忍耐できなくなり、色々な心の思いが一挙に噴き出してしまいます。「私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした」と、天からのマナにも文句をつけます。神は炎の蛇を送られ、多くの者が死にましたが、モーセが青銅の蛇をさおの先にかけると、蛇にかまれた人もそれを仰ぎ見ると生きのびることができました。神の刑罰による痛みを経験した者は、救いを求め神に立ち返りました。誰でも罪を犯し、失敗をします。恵みによって生かされていることを忘れ、当然のことのように思い、不平不満をつぶやきがちです。荒野生活の民への訓練は、私たちの信仰の旅路に多くの示唆を与えます。十字架を仰ぎ見、神の守りと恵みに感謝しつつ歩みましょう。


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