アーカイブ | RSS |
投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-11-13 09:24:21 (5 ヒット)
メッセージ

『わたしの支えるしもべ』イザヤ42章1〜9節
「神が共におられた」「ダビデの道を歩んだ」などいくつかある信仰者の良き形容に中に「主のしもべ」があります。神の御心を行う者、救いのご計画を地上で実現するために遣わされた者のことです。イザヤ書に頻出の「主のしもべ」ですが、誰が「主のしもべ」なのでしょうか。考えられるのが.瓮轡↓⇒存声圻Aばれた者ぅぅ好薀┘襪任后キリストについての預言もあれば、弱さを覚える主を信じ仕える者に対する慰めと励ましがあるからです。「主のしもべ」の特徴は/世忙戮┐蕕譴討い覘⊃世亡遒个譴觴圓任△覘神に選ばれた者であるた世慮耄遒覆訐士遒鬚い燭世い討い襪海箸分かります。「主のしもべ」の働きは々顱垢紡个係義をもたらす▲ぅ┘后Εリストによる新しい契約を伝える0柬人に対し神を畏れる道を教え、いのちの光の希望を伝えるさ圓欧蕕譴深圓紡个靴動徹任了拉曚らの解放を告げることです。広範で力強い働きが期待されますが「主のしもべ」はその働きを戦車のように怒涛の如く推し進めるようなものではなく、痛みを抱える人の魂に配慮し、消えかかった神の律法を再び燃え立たせるように御言葉を回復する使命を果たすのです。また抵抗や迫害があってもその働きを止めることはせず、衰えず、落胆せず、ついに道を確立するのです。神を信じる私たちも主のしもべといえますが、弱さと愚かさを持つ身です。如何にくじけずにその使命をなしとげることが出来るでしょうか。それは自分で選んだ働きではなく、神が私を選び、神の霊を注いで任命されたことを知ることです。神の守りと支えを信じること(:1)、聖霊に委ねること(:5)、正義を行われる神が全てを成して下さる(:6)と期待し、信仰の生涯を歩んでまいりましょう


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-11-08 10:18:15 (10 ヒット)
メッセージ

『喜びのうちに救いの水を』イザヤ12章
救いの井戸とは尽きることのない恵みの源泉を意味します。信仰者はその泉から喜びをもって恵みを汲み取っていくのです。かつて井戸または河川から水を汲み取り運ぶ作業は大変重要な労働でした。旧約では創世記に「水を汲む」作業は頻出します。アブラハム物語の終盤イサクの嫁探しにおいて、僕のエリエゼルがイサクにふさわしい娘を教えて下さいと神に祈り、自分に水を汲み入れ、ラクダ達にも飲ませてくれるよう願うと、その条件を満たす娘リベカが現れました。新約ではヨハネ福音書のサマリヤの女性はイエスから「わたしが与える水を飲む者は誰でも決して渇くことがありません。わたしが与える水はその人の内で泉となり永遠のいのちの水がわき出ます」と話され、「その水を私にください」と願いました。最初は水汲みの労働からの解放を期待したかもしれませんが、イエスが与えんとする水とは霊的な真理、救いの喜びのことでした。後にこのサマリヤの女性はイエスを信じ永遠のいのちの源泉を得たのです。人と出会うことを嫌っていた女性は、自ら人々に証しする者と変えられたのです。その恵みは信仰者にとって慰めであり、励ましであり、力になるからです。仮庵の祭りは水取りの儀式です。祭りの最初の日に折り立てた柳の木が、最後の日には水がないためしおれ、その横で主に祈りをささげるのです。水は命そのもの、水がなくなれば枯れてしまう木のように、私達は神の恵みなしでは生きていけない、どうか救ってくださいと祈るのです。その祭りの最後の日、イエスは「だれでも渇いているならわたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになる。」とおっしゃいました。救いの喜びとは私達が努力して汲むものではなく、救い主イエスを信じることで、神様からの賜物として腹の底から湧き上がりあふれてくる、真実なる主を知ることの喜びです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-11-02 21:42:09 (13 ヒット)
メッセージ

『サウル王の死』サムエル上31章
サウル王、ダビデ共に絶体絶命の危機が訪れましたが、それぞれがとった行動により人生の明暗がはっきり分かれたのです。ダビデはペリシテ軍に席を置くも不信任により離脱を余儀なくされ、チクラグへ帰還します(29章)。するとアマレク人の略奪隊によって家族は連れ去られ財産も奪われ火を放たれていたのです(30章)。部下たちは非常に悲しみ怒り、自分たちがこんな目にあったのは指導者であるダビデのせいだ、石打にして殺してしまおうという者さえ現れました。ダビデはこの危機に際し、信仰を回復し主に伺います。するとアマレクの略奪隊を追跡せよと示され、部下たちと共に直ちに行動します。そしてアマレクの略奪隊を襲撃し家族を取り返すことができ、さらにアマレクが方々で略奪してきたものも奪い、部下たちだけではなくユダの町々の長老にも分配したのです。それはダビデがイスラエルに帰る道備えとなりました。一方サウル王は迫りくるペリシテの脅威にどうしたらよいか相談できる者がなく、ついにイスラエルでは禁忌の霊媒師によりサムエルの霊を呼び出します(28章)。そこではっきりと、イスラエルの今の状況は主が造られたもので、サウルと息子たちとイスラエルはペリシテの手に渡されると宣告されます。その後サウル王とイスラエルの精兵はギルボア山でペリシテ軍と激突し、サウル王と息子たち(ヨナタンら)が戦死しました。彼らの死体は城壁にさらされ辱められました。それを聞き、心を痛めたヤベシュの住民が夜陰に乗じて遺体を回収し、ヤベシュに葬りました。ヤベシュ・ギルアドの住人は、サウルが王として即位してから最初の異民族との戦いに勝利しアンモン人を追い払ったこと(11章)を恩義に感じていたのでしょう。サウルは全イスラエルの王として認められましたが、不信仰によりリーダーには不適格として神の霊は離れていきました。ダビデとの違いは、他者を神に愛された人として敬い自身のことも神のしもべとして神の愛と赦しを受け取ったか否かでした(ペテロ2:16・17)


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-11-02 21:40:47 (10 ヒット)
メッセージ

『ダビデ再びペリシテへ』サムエル上27章
24章、26章でサウル王とダビデ討伐軍は帰って行きましたが、ダビデは再度サウルの追手が来ることを怖れ、600の兵とその家族とともにイスラエルの敵であるペリシテへ移動することを決断しました。10年も続く長い逃亡生活に、部下たちからも不平不満が出ていたことでしょう。ダビデは重要な判断を下す時、主に祈り、主に伺う人でしたが、今回はそれがありません。ダビデは21章でペリシテのアキシ王のもとに逃れましたが、ここに安全な居場所は無いと判断すると気が狂ったふりをして城外へ出されたという出来事がありました。にもかかわらずアキシ王はダビデたちを受け入れ、かつてのイスラエル領チクラグの町が与えられ、ダビデはここを本拠とします。600人とその家族を養っていくことは容易ではありません。ダビデは略奪隊を編成し、イスラエルでもペリシテでもない集落を襲い、戦利品を得て財産を増やします。アキシ王には「ユダを襲った」などと嘘の報告をして警戒心を解き、生き残った者が真実を告げないよう女性も子どもも皆殺しにします。ペリシテで生きながらえるための方便、工作は神から出た知恵ではなく、政治家としての人間ダビデの策略です。自分たちが生き残るためには偽りも非情なことも辞さないダビデ。ペリシテでの1年4ヶ月の生活の中でアキシ王からは信頼され護衛官まで任せられますが、信仰の低調はしばらく続きます。不利な状況を忍ぶために世俗の手段と計略で保身を図ると、自分のついた嘘で立場を危うくするという負の連鎖から脱出できなくなります。そこにはかつての信仰の勇者ダビデの姿はなかったかもしれません。チクラグの町という領土は得ましたが、神の守りを手放したために安息の地とはなりませんでした。主に伺い求める信仰を取り戻したのは更なる危機の際(29章)でした。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-10-28 10:17:46 (15 ヒット)
メッセージ

10/6礼拝説教『ダビデとサウルの再会』サムエル上26章
ダビデがサウルのもとを出奔して以降、2度サウルに手をかける機会がありました。1度目は24章でダビデ討伐を企てたサウル王がエンデゲの荒野に到着後、小用を足しに洞穴に入ったところにダビデがいたのです。部下たちは今こそサウルを討つ時だとダビデに進言しましたが「主に油注がれた方を打つことは出来ない」と、気づかれぬ内にサウルの上着のすそを切り取るだけにとどめました。サウル王は自らの非とダビデの正しさを認め、ダビデが王になった時、自分の子や孫たちを害さないよう懇願し、ダビデは誓います。その出来事があったにも関わらず、26章でサウル王は再びダビデ討伐軍三千を率いジフの荒野へやってきました。24章で「なぜあなたはダビデがあなたに危害を加えようとしている、などという人の噂に耳を傾けるのですか」とダビデが言うように、サウル一人の思い込みやしつこさだけでなく、王の取り巻きにダビデ排斥を根強く主張する人々がいたということが分かります。敵意はないと分かっているダビデを追跡し亡き者にすることは間違っているけれども、部下たちの意見を無視することは出来ない。後代ユダ王国のゼデキヤ王も、預言者エレミヤの言うことは正しいと思うが、王の取り巻きがそうはさせない。自分が決断すれば未来を変えることが出来るのに周囲の人々の思惑に流されてしまう。神の言葉を聞きながらも、意志の弱さによって御言葉に従わず、悲惨な末路を迎える滅びに向かうパターンがサウル王のところでも見られます。26章でダビデはアビシャイと共に、夜陰に乗じて兵営に忍び込み、サウル王の槍と水差しを持ちだします。ここでサウル王を殺せば逃亡生活の非自由さから解放されますが、しかしこの時もダビデは「神に選ばれた者に手を下してはならない」と、サウル王を害することを許さず立ち去ります。ダビデの行動と決断は状況に左右されず周囲の人の意見に流されず、神のご計画の中で生かされている自分の命を神に委ねるというぶれない信仰に立ってなされていたのです。こうしてイスラエルの王として神に訓練され、磨かれていったのです。


(1) 2 3 4 ... 82 »
ID : Pass :