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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2022-10-06 21:18:09 (1 ヒット)
メッセージ

「起きて食べよ、道はまだ遠い」列王紀上19:1〜8


カルメル山にてバアル預言者とアシェラ預言者あわせて850名が殺された報を聞き、イゼベルは「24時間以内にエリヤを殺す」と怒ります。アハブ王の前で異教の預言者らに大勝利したエリヤでしたが、王のとりなしや庇護もなく、エリヤは自らの命を救うために逃げ出しました。自分の全存在をかけてイスラエルの神の信頼回復のためにあれほどのことをしたのに、自分をとりまく状況に影響は与えず、表立った応援も得られなかった…エリヤは孤独感と虚しさと疲労から「わたしは先祖にまさる者ではありません、もう充分です、命を取ってください」と神に訴えます。誰も分かってくれない、助けてくれない、わたしは特別な人間ではなかったのだ、人々から評価も共感も得られず、自分の働きも理解されない…肉体的にも精神的にも疲れ切った時、私たちも「神様、もう疲れました、もういいです」と絶望してしまいます。その時、主はエリヤに「もっと頑張れ」と叱咤激励したのではなく、「あなたはこうあるべきだ」と方法論を展開するのでもなく、御使いによって水と食糧を与えられました。「起きて、食べなさい」眠り続けて心も弱っていく前に、活力の源になる食べ物を口にしなさい、生きよ、と。主は遠くから観念的にだけ語りかけられるのではなく、この時は御使いが「彼にさわり」食べるよう呼びかけています。身近に実体をもって応援し守ってくれる存在があることを感じられると、人は力がわいてきます。主のいつくしみにより休息できたエリヤは霊的にも回復が与えられました。その場所(ベエル・シェバ)は創世記21:8〜21でアブラハムの元を離れ荒野をさまようハガルとイシュマエルに主が語りかけられた所です。孤独と絶望で生きる力を失った者に、いつでも神はなぐさめ、導きと新しい力を与えてくださるお方です。 


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2022-09-30 09:58:16 (11 ヒット)
メッセージ

「主の御手が差し伸べられ」列王紀上18:41〜46


「天からの火で応えられた神」に民衆は信仰の目を覚まし「主こそ神です」と告白します。偶像は人間の都合がいいように造り出した物ですが、それに向かっていくら呼ばわっても、何の答えもなく顧みられることもありません。人間を造られた神は生きておられ、「応えてくださる」お方です。「応えられる」とは「何でも願うようになる」と言う意味ではありません。親は子どもの最善を考え、導こうとします。また願う側も、何でも思い通りにさせようとするのは神を従わせようとする高慢です。祝福(恵みと赦し)は与えられるものであって、対価の報酬ではありません。バアル預言者450人はまどわす者として捕らえられ、ことごとく殺されました。頼みにしていたバアル預言者たちは殺戮され、エリヤの圧倒的な大勝利、偶像礼拝のむなしさに気づいて心をひるがえした民衆たち、混乱を招いた指導者として我が身の危険も感じるアハブ王でしたが、エリヤは意外な声かけをします「上って行って飲み食いしなさい。雨の音がするから」そもそもこの騒動の発端は、偶像礼拝に対する神の裁きである干ばつが三年続いたことでした。国中が飢饉の中にありましたが、その干ばつを終わらせるというのです。善人にも悪人にも神は等しく雨を降らせます。アハブ王は素直に山に登り飲み食いします。エリヤが祈り続けると、手ほどの雲が彼方に見えてきました「大雨に閉じ込められないように、ここから逃げなさい」とアハブ王に忠告します。この時もためらわずエリヤの言葉に従い、カルメル山を下り大雨の難を逃れ宮殿に帰還します。アハブ王は晩年悔い改めることもありましたが自分の欲望に忠実で、神に従う善王にはなれませんでした。しかし神のイスラエルに対する憐れみは消えず、迷いの多い、迷惑なアハブ王にも助けの手を差し伸べ、守られました。「主の手が下り」主の力が働く時、未来が切り拓かれいのちの希望が与えられるのです。 


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2022-09-23 20:43:24 (25 ヒット)
メッセージ

「迷いと決断」列王紀上18:20〜40


カルメル山に集結したバアルおよびアシェラの預言者と対決する前に、エリヤはイスラエルの民たちに「あなた方はいつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら主に従いなさい」と言いました。信じることは決断です。しかし神に従うのか、偶像に従うのか、決めかねている民たちは答えられませんでした。信じるに値するのか、自分の全てをゆだねてもいい存在なのか。天地を創造され人をも造られた神を礼拝するのか、人間が作った神々を優先するのか。日本人はよく「一神教の信者は恐れ知らずに戦い、頑固で時には国家権力にも逆らう危険な宗教だ。日本は多神教だから大らかで、周りとの調和を乱さないから平和なのだ」と考えがちですが、日本の支配者や国家が宗教を弾圧してきた歴史をかえりみると、多神教だから寛容、争いがないというのは勘違いです。宗教に対する無知が、時には信仰している人に対する迫害を生みます。信教、思想、良心の自由は、人の権利として保障されるべきものです。もし他人の利益や幸福を侵害する宗教であれば、法律によって適切に裁くべきですが、何を信じるかはその人の意志が尊重されなければなりません。この戦いは、民衆一人ひとりの信仰の決断をうながす場でもあったのです。バアルの預言者たちは自分たちの神に叫び呼び続けましたが、物言わぬ偶像の前には何の変化も起こりませんでした。彼らはいけにえが足りないから、自分たちの努力が足りないから神が答えられないのだと考えます。しかしエリヤが祭壇を築き、主に呼ばわると天から火が降りいけにえを焼き尽くしました。この火の奇蹟を見て、民たちは祈りに応えられる神、生ける主である神を認め、信じることを決断するのです。 


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2022-09-23 20:37:25 (20 ヒット)
メッセージ

「御国とキリスト者の眠り」ヨハネ福音14:27〜29


先日、告別式を執り行いました。キリスト者は死後、どこへ行くのでしょうか?なぜ天国へ行けると確信を持って言えるのでしょうか。今日の聖書箇所はイエスが十字架にかかる前に弟子に話された内容からです。「平安を残して行く」と言われていますが、イエスが与える平安とは何でしょうか?それは罪の赦しから来る平安です。罪の責任はイエスが十字架によって代わりに負って下さった、けがれも咎もきよめられ、罪のない者とみなされ神の家族として天の国籍が与えられる、それが永遠のいのちです。人は誰しも、神に対して、他人に対して、とがめや後ろめたいことがあります。不誠実だったこと、あやまち、やがて来る後悔と「赦してほしい」と願う思い。そういったわだかまりを幾重にも心に積もらせて日々を過ごしていますが、もし人生の終わりまでその罪の意識を残したままだったらどうでしょうか。「あなたの罪は赦されました」と神の権威によって宣言される安堵感、赦された恵みを受け取ることができたら、死の向こう側に対する恐れや不安も取り除かれます。亡くなられた兄弟もイエスが約束された平安の中、眠りについています。私たちは日常に「眠る」という行為を繰り返しています。「明日が来なかったらどうしよう」と不安にならず、必ず明日も目覚める、と疑うことなく眠りにつきます。だからキリスト者の死は「眠り」だと表現されています(テサロニケ4:13-18)。死に伴う痛みや苦しみはありますが、それは永遠に続くものではありません。死の向こう側にある永遠のいのち、神との和解、回復された新しい神と人との関係、時間や物理的な制約を超えたお方の元で、平安に過ごすことができるのです。先に召された兄弟姉妹たちと再び会える日まで、長いか短いか人によって様々ですが、地上の生活の中で主の平安の内に過ごすことが出来るように、祈りながら歩んでまいりましょう。 


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2022-09-15 09:12:58 (28 ヒット)
メッセージ

「主を畏れ敬う人」列王紀上18:1〜19


メディアで毎日のように政党とカルト団体の関係が取りざたされていますが、政治家が宗教勢力を自分たちの利益のために利用するのは列王紀の時代にもありました。北イスラエルのアハブ王は、シドンの王女でありバアルの祭司の娘、イザベラを王妃としました。アハブ王は政治的な手腕もありツロ・シドンとの交易で成功し、ばく大な富を築きました。王は外交上の理由からバアル信仰を国策として用いましたが、それをとがめる預言者エリヤの存在をイザベラはけむたく思っていました。「主の怒りでイスラエルに3年雨が降らない」と預言したエリヤを捕らえるよう命じ、殺そうと思っていました。主の預言者たちも迫害されました。そのような中、宮廷長のオバデヤは王と王妃に見つからないよう、主の預言者たち100人をこっそり洞窟にかくまいました。王の懐刀ともいえる存在が主君の目をかいくぐり、命令にそむいて預言者たちを隠し続けたのです。エリヤのように正面きって堂々と王に物言うわけではないけれど、オバデヤは主をおそれる人だったから信仰を働かせ、その立場で出来ることをしたのです。もしそのことが知られたら、オバデヤもその働きを手助けした部下や家の者たちも殺されてしまうでしょう。彼の前にエリヤが現れ「エリヤはここにいると王に告げなさい」と言われ、オバデヤは激しく動揺しますが「私の仕える万軍の主は生きておられる」というエリヤの言葉に心を決めます。「万軍の主」とは戦の神というより「偉大な畏れるべき神」「契約を守り、真心を示す真実な神」「命の主なる神」という意味です。信仰者は時として孤独を感じがちですが万軍の主が共におられる、決して一人ではないという神の約束を基とし、励ましとし、歩んでまいりましょう。 


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