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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2021-07-30 10:35:06 (4 ヒット)
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「誤解」ヨシュア記22章
モーセの最晩年、ヨルダン川を渡る手前でルベン、ガド、マナセ族の者たちは「ここは放牧に適した地なので、私たちの割り当てはここにして下さい」と申し出ました(民数32)。モーセは「武装した男たちは一緒にヨルダン川を渡り、共に戦いなさい。イスラエルがカナンを征服した時、あなた方の相続地はヨルダン川の東側としよう」と命じ、彼らはそれを守って他の部族と共に戦ってきました。ヨシュアがくじ引きで各部族の割り当てを決めた後、ルベン、ガド、マナセ族の者たちを祝福し、モーセの時に先約していた所有地へ彼らを帰しました。ヨルダン川を境界としてもカナンにいる人々と同じく、彼らも主から割り当てを受け取ったのだということを子々孫々まで語り継ぐために、証拠(記念)となるよう祭壇を築きました。またヨルダン川の東に住む者は無関係であると考えられる日が来るかもしれないと恐れ、12の部族は一つであるようにという願いをこめて、川向うの人にも見えるように、とても大きな祭壇でした。それを見たイスラエルの人々の間に「彼らは自分たちのために、勝手に捧げ物をする祭壇を築いた、これは主への背信行為だ」と不穏な噂が広まりました。そこでイスラエルの全会衆が集まり、彼らを聖絶しろ、滅ぼそうと一群となって攻め上ろうとしましたが、ひとまず各部族の長が彼らのもとに行って話をしました。「あなた方はゼラの子アカンが罪を犯した時、その過ちによってイスラエル全会衆に主の怒りが下ったことを忘れたのか。あなた方が主に逆らうと、私たちにも災いが下るのだ」ととがめると、ルベン、ガド、マナセ族の者たちは「決して主から離れたわけではない」と弁明し、その話を聞いてイスラエルの人々は納得し、誤解によって同族同士で戦うのを回避できたことを主に感謝しました。最悪の事態に至らなかった理由は〔簑蠅僚萢が早かったこと、適切な調査団(各氏族から信頼されてるリーダー達)が派遣されたこと、E貘Δ叛沼Δ量韻燭舛正面からこの問題を取り上げ、相手の言い分にじっくり耳を傾けたこと、でした。フェイクニュースを鵜呑みにして怒ったり、相手の釈明も聞かず武力で先制攻撃したりすると取り返しのつかないことになります。真相を知り、相手を正しく理解することがトラブルに発展しない方策の一つです。ルベン、ガドの一族はこの祭壇を「私たちの間で、主こそが神であることの証し」と呼ぶようになりました


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2021-07-30 10:32:08 (4 ヒット)
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「主が彼らの嗣業(相続地)」ヨシュア13:14〜33
イスラエルの12部族はそれぞれにカナンに割当地を配されますが、レビ族には割当地がありませんでした。「主が彼らの嗣業」だからです。嗣業とは神から与えられた土地、財産などのことですが、新約に入ると「神の国そのものを受け継ぐこと」が、神の最大の祝福とされています。レビ族は地上の事物ではない、神の祝福の割り当てがあったのです。レビ族がなにゆえ特別なのでしょうか。そもそもレビ族の祖であるイスラエル(ヤコブ)の三男レビは神の大切な働きを託せられるほど敬虔な人物だったのでしょうか。創世記34章では妹ディナが辱めを受けました。煮え切らない父ヤコブを尻目に兄弟シメオンと共に一計を案じ復讐を企みます。相手の一族男子を皆殺しにし、子どもと女性たちを捕虜にし、富を略奪するということをやりました。父ヤコブはカナン人からの報復を恐れました。この出来事を後年まで覚えていました。彼は人生の最後に子供たち孫たちを祝福しますが、シメオンとレビを呪うのです(創49:7)。偉大な父祖から呪われてしまいましたが、神の御心はヤコブの思いとは異なったようで、レビ族からモーセが選ばれイスラエルをエジプトから脱出させるのです。先祖の罪の咎めを負い続けたゆえに、神への敬虔さを培ったのでしょうか。イスラエルの民が偶像の罪を犯した折、モーセが「主の側に付く者は私のもとに来なさい」と訴え、真っ先にモーセに付いたのがレビ族でした。「主に身をささげよ。主があなたがたを祝福される」(出エジ32章)。それから彼らは神に仕える祭司として務めを与えられました(民数3章)。レビ人としての働きは、主に1、祭司に仕える 2、幕屋(聖所)で仕える 3.礼拝で奉仕者として仕えることでした。時代は下り、バビロン捕囚の艱難を迎えた時、エルサレム帰還民を指導し信仰回帰を訴えたのがレビ族で祭司アロンの子孫エズラです。イスラエルはヨシュアの代に割当てられた地所を失いましたが、霊的遺産である信仰は受け継がれていったのです。「主が彼らの嗣業(相続地)」今日、キリストの血潮でもって清められた私たちは、神の国の祭司としてその働きを期待されています。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2021-07-09 13:48:31 (28 ヒット)
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「命の言葉を漏れなく語る」使徒行伝5:12〜32
美しの門でいやしの奇跡を行ったことによりペテロとヨハネは捕らえられ、その後ゆるされてから多くのしるしと奇跡が使徒たちの手により行われました。民衆は、使徒の共同体には入ろうとはしませんでしたが、彼らを尊敬し認めるようになりました。エルサレムだけでなく付近の町からも大勢の人がやってきて、ペテロたちにいやしの業を求めるようになりました。そこで大祭司とサドカイ派の者たちが嫉妬し、再びイエスの弟子たちを捕らえました。ところが夜、主の御使いが使徒たちを錠のかかった獄舎から連れ出し、「宮の庭に立ち、この命の言葉を漏れなく、人々に語りなさい」と言いました。夜が明けて、大祭司とその仲間の者たちは議会を召集し、使徒たちを引き出そうとしましたが、番人が見張っていたはずの牢の中には誰もいませんでした。彼らが宮の庭に立って、人々を教えていると報告され、宮の守衛長らが使徒たちを連れ戻しに行きましたが、多くの民衆が抗議して石を投げてくるのを恐れ、手荒なことはできませんでした。議会で大祭司が「あの名を使って教えてはならぬと厳しく命じておいたはずなのに、エルサレム中にあなた方の教えを氾濫させている。権威に逆らい、命令を無視して、民衆を扇動し、イエスの血の責任を私たちに負わせようとたくらんでいるのだろう」と追及するとペテロたちは、「人間に従うよりは、神に従うべきである」と断言し、「ユダヤ人たちはイエスを呪い十字架にかけたが、神はイエスをよみがえらせ救い主とされた。神の御心はイエスにあることは確かで、私たちはその証人だ」と、投獄されることも恐れず堂々と証言しました「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを続けなさい」(テモテ4:2)使徒たちが番兵の監視下から獄舎を出られたのは、神の介入があったからです。また病人や汚れた霊に苦しめられている人々が、使徒の祈りによって一人残らずいやされたのも、何千人もの人が主を信じたのも、聖霊が豊かに働かれたからです。奇跡は伝道のためのパフォーマンスではなく、魂の救いという人ひとりの命の尊厳にかかわることです。肉体的または霊的に悩める人々を救うために、それを望まれる神の権威によってしるしと不思議が行われたことを知る使徒たちは、この「命の言葉を漏れなく語る」ことに自分たちの全てをささげることにしたのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2021-07-02 09:34:21 (29 ヒット)
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「御霊の働きによって」使徒4:1〜22
イエスの名によって足のなえた男性をいやした奇蹟を目前にしながら、ユダヤ最高議会はペテロたちを逮捕しました。祭司や宮の守衛長は大祭司に次ぐ地位で、社会的にも政治的権力を持つ階級の人々です。彼らはモーセ五書以外、預言者も御使いも認めません。つまり死者の復活や聖霊による奇蹟は不都合なことで、宮の治安を司る彼らからすると、何の許可もなく神殿で民に教えることは忌々しき問題でした。「誰の名によってこんなことをしたのか」奇蹟の力の正体が、異邦人たちのあがめる「何々の神」という偶像の名前によって行われたことなら、ユダヤ人にとって神殿を汚す行為になります。しかしペテロは「病の人がいやされたことは良い事だ、良いわざについてなら罰せられるいわれはない」「あなた方が十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人キリストの権威によって、世の権威や死の力をも越える神の力によって」と答弁します。さらに、イスラエルでは奇蹟だからといって、それを行った者をみだりにあがめてはならないという律法があるので(申命13:1-3)ナザレ人イエスがキリストであるということを詩篇118:22を用いて「家を建てる者たちに捨てられた石が、家を支える大きな柱の下に敷く礎の石となった、あなた方が“捨てた”イエスを神はよみがえらせて永遠のいのちの救いの礎に据えられた」と論証しました。イエスを断罪して十字架刑で殺したことで問題は解決したと思っていたのに、そのイエスが復活したと弟子たちが言い広めたことで、事態はかえってややこしくなりました。ナザレのイエスがキリストであるということに矛盾があるならそこを追及したいが、弟子たちを論破することができず、かえって彼らの正しさを強調することに役立ってしまいました。ガリラヤの漁師たち、「無学な普通の人」が大祭司や律法学者ら宗教指導者に対して堂々と弁証したのです。聖霊が生きて働かれ、ペテロたちに知恵と勇気を授けられ、神の御霊に満たされたので語るべき言葉が与えられたのです。ユダヤ当局は「もうその名を唱えてはならない」と脅して釈放するしかありませんでした。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2021-07-02 09:31:52 (23 ヒット)
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「わたしにあるもの」使徒3:1〜10
豪華な門は権威や富の象徴です。聖所を囲む回廊の南北に4つずつ、正面の東に2つ門があり、これらの内9つは金銀でおおわれていましたが、東側の1つはコリントから運ばれてきたもので、他の門よりはるかに大きく値打ちのある分厚い金銀で最も高価に飾られていました。参拝者の多くはこの正門をくぐったであろうし、生まれつき足のきかない施しを受けていた男も、最も人通りの多いこの「美しの門」に誰かに運んで来てもらって、参拝者に施しを乞うていました。それは毎日のことで、大勢のエルサレムにいる敬虔なユダヤ人が彼を見知っていました。ペテロたちもこの男を見たのは初めてではなかったでしょう。しかし男が施しを求めた時、ペテロは聖霊に心を動かされ彼に関心を持ち、深いあわれみをもってこの男を見つめました。そして注意して自分たちを見るように言いました。彼との間にお金や物をはさまず、人格対人格の関係を求めたのです。男は何かくれるのかと期待して、目をあげてペテロとヨハネを見ました。男はこれまで律法主義の世界では神の祝福を失った者として、大勢の人々の無視やさげすみ、うとましい視線を浴びてきました。彼の人格には関わろうとせず、ただ律法に書かれているから施しをするという人の義務感にすがって生かされてきました。ペテロは「金銀はわたしにはないが、わたしにあるもの(金銀にまさるもの)をあげよう」と言いました。この権威と富の象徴である門であなたは施しを受けて養われてきた、しかし今あなたに最も必要なものは神の救いだ。「イエス・キリストの御名によって歩きなさい」(歩み続けよ)と命令し、彼の手をつかんで起こすと、両足の くるぶしが強められ、40年来生まれてこの方、立ったことも歩いたこともない人間が躍り上がって飛び跳ねました。たった一言で、リハビリを繰り返すこともなくただの1回で足のきかない人が歩き回れるようになるのは紛れもない奇蹟です。そしてこの瞬間から、彼は疎外されてきた社会に復帰することができるようになったのです。主は自分が求めるもの(その日の食い扶持となる金銀)よりも、もっと長く自分を生かすものを与えて下さるお方です。


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