アーカイブ | RSS |
投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2021-05-07 10:22:55 (7 ヒット)
メッセージ

「イエスは聖書を悟らせるために」 ルカ24:33〜49
イエスがすでに予告していたキリストの条件は^き渡される∋Δ気譴覘よみがえる。これらの「必ず〜なければならない」が成就しました。しかし弟子たちはイエスがよみがえられたことを信じることができません。そこでまず御使いから女性たちへ主イエスのよみがえりを告げられ「思い出す」ことが出来、クレオパらは聖書を理解していく中で心が燃やされ更に真理を求めたところ目が開かれ復活のイエスを信じることが出来ました。マタイの福音書では、「疑い」信じることができない人もいたことが分かります。目の前で神の奇蹟を見ることができても、復活のイエスに直接お会いできたとしても、聖書の裏付けによる理解がなければ信仰に入ることはできないのです。復活のイエスは11人の弟子とその仲間たちの前に現れ、聖書の教えを悟らせるために「彼らの心を開いて」語られました。ここで言う心は「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして主なる神を愛せよ」(ルカ10:27)の、思い(知性、理解力、判断力、分別、考える力)を示します。心を開く、という表現は使徒行伝16:14のヨーロッパ伝道で紫衣の女性商人ルデヤに「主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに耳を傾けさせた」でも見られます。亡くなったはずのイエスを目の当たりにして、弟子たちは幽霊だ幻だ、と恐れと驚きと不安で心の目がふさがれました。イエスは彼らを現実に引き戻すために共に食事をし、復活を現実のこととして実感し信じられるよう、聖書全体から解き明かされました。「私の手や足を見なさい。まさしく私なのだ(私自身だ)」とは、キリストの自己宣告です。キリストがご自分を表す宣言は[いのちのパン、羊の門、世の光、真理、道、命]7つあります。苦しみを受けて三日目に死人の中からよみがえった、復活の体が救い主のあかしであり、聖書の預言の成就なのです。そしてキリストの名によって罪のゆるしを得させる悔い改めが諸々の国民に宣べ伝えられることを宣言されたのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2021-04-27 12:13:20 (18 ヒット)
メッセージ

「エマオの往路」 ルカ24:13〜32
イエスが死なれ三日後、女性たちは葬りの残りの作業を行うために墓に行くと御使いが現れ「イエスのことばを思い出せ」と話しかけるのです。^き渡され⊇住架につけられ三日目によみがえる。女性たちは歓喜し、弟子たちに報告するのですが弟子たちは信じることが出来ません。イエスは生きていたのか、いやローマ兵によって確実に殺されたのを大勢の目が見逃すはずがない、では女性たちは悲しみのあまり幻を見たのか?「不思議なことがある」クレオパら二人は暗い顔をしてエマオへ向かって歩いていました。すると「何の話をしているのか」もう一人が話に加わってきました。二人は先入観や思い込み、常識やつちかってきた経験らが邪魔をして、それがイエスだと気づくことが出来ません。彼らからするとイエスがここにいることはあり得ないのです。「あなたはエルサレムでの出来事を知らないのか」イエスがイスラエルを救ってくれると期待していたのに十字架につけられ殺されて望みは絶たれたこと、しかも遺体が無くなったということ。イエスはよみがえったと女性たちは喜ぶが自分たちには分からないと彼らは意気消沈です。恐れや不安のため知性がにぶくなっている彼らに、イエスは旧約聖書を用いてメシアについての預言の成就について話し聞かせました。二人のこれまでの聖書知識がキリストについて繋がり結び合わされ理解が進みます。イエスはなお先に進み行きそうでしたが、彼らは強いて引き留め懇願したのです。「わたしたちと一緒におとまりください」食事をしながら、神の御言葉をキリストのことをもっと聞きたい、教えて下さいとイエスに求めました。ともに食卓につきイエスがパンを祝福し割き、渡された時、彼らのふさがれていた真理を見る目は開かれ、今まで話して下さっていたのが主イエスだと気づくことが出来たのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2021-04-23 10:19:17 (25 ヒット)
メッセージ

「キリストのよみがえり」 ルカ24:1〜12
アリマタヤのヨセフが用意した墓にイエスの遺体がおさめられた時は夕方で、安息日が始まりかけていました。本来なら遺体には腐敗防止の油をぬりこんだ上で石の棺にも没薬を注ぎこみます。香料を用い葬りのための作業を終えるのですが、それは安息日明けまで持ち越されました。ヨセフは残りの作業を安息後、出来るように墓の入口はしっかり塞いでしまわず、人が入れるように少し開けて石を転がしておいたのですが、祭司長たちはピラトにイエスの墓に番兵を置くように頼み込み、墓の入口も封印してしまいました。マタイの福音書によると、安息日が終わった明け方、大きな地震があり主の御使いが墓の石を転がしたので、番兵たちは震えあがって動けなくなりました。香料を携えて墓にやって来たマリヤたちが墓の中に入ってみると、イエスの遺体がなくなっていました。遺体が傷つけられ侮辱されるために盗まれたのだと早とちりし、途方に暮れました。これから先どうしたらいいのか分からない。わずかな望みが消えてしまった。彼女たちだけではありません。イエスに従っていた多くの者たちが途方に暮れていたのです。しかし彼女たちの前に御使いが現れ話しかけました「その方はここにおられない。よみがえられたのです」思い出せ。イエスが十字架以前に話されていたことを。救い主は^き渡され⊇住架にかけられ三日目によみがえる。神の救いのご計画のためにイエスの身に起こることをすでに予告され、それが実現されたのです。彼女たちは神の憐れみにより思い起こすことが出来、「イエス様はよみがえられた」と歓喜し、急いで弟子たちにこの福音を伝えに行くのです。しかし、弟子たちはこの喜びの知らせを受け取れませんでした。女性たちの証言と主イエスの復活を信じられなかったのです。先入観や思い込み、高慢さが真理を得させることの邪魔をします。復活を信じることができなければ人生のその先、死と滅びを前に希望を見失い、虚しさに思考が行き詰まり、進むべき道が見えなくなってしまいます。復活の真理を理解するため謙遜さを得させてくださいと祈りましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2021-04-16 11:00:59 (27 ヒット)
メッセージ

「キリストの葬り」 ルカ23:50〜56、ヨハネ19:38〜42
罪に目が覆われて真理(本質)が見えないことがあります。また強い同調圧力(共同体や職場、グループ内で意思決定・合意形成を行う際、少数意見を多数意見に合わせようと誘導すること)に負けて不鮮明な態度をとったことで、後に本人は後悔するということがあります。イエスの十字架による死が契機となり態度を鮮明にした人物にアリマタヤのヨセフとニコデモがいました。またイエスを十字架につけたピラトは「手を洗い」この件については私には責任がないと表明しましたが、十字架刑の現場責任者の百人隊長は「本当に、この人は正しい人であった」と神を崇めています。ピラトはその後にアリマタヤのヨセフからイエスの遺体の引き取りの願いを聞き入れ許可しますが、彼自身は神に対する恐れやイエスに対する信仰の態度を表すことがなかったことにより使徒信条に名前が記され教会で忘れられない者となったのです。アリマタヤのヨセフはユダヤ人議会の議員の一人で善良で正しい人との評価を得ていますが、ユダヤ人を恐れ、十字架以前にイエスに対する信仰を公に表明出来ないでいましたが、イエスを排斥しようとする議会の決議や行動に同意はしていませんでした。(※彼やニコデモのような議員が少なからずいるので冒涜罪によるイエス死刑の裁判は、夜中、臨時に反イエスの議員が徴集され行われた。)アリマタヤはヘブル語ではラマハイムで、旧約でラマの名称で登場する地名です。ラマ出身の預言者サムエルによりイスラエル最初の王サウル、ダビデが任命され油注ぎを受けました。そのラマゆかりのヨセフがイスラエルの真の王イエスの葬りを行うというのです。犯罪人の遺体は墓に葬られず谷に捨てられることもあった時代です。死者の葬りは、その死者との生前の関係性を反映するものです。未だ反イエスの立場の人が多い中、イエスの遺体を引き取ることで自分の立場を表明したのです。ニコデモにしても没薬30圓鯀鬚蠅里燭畚猗しています。イエスの遺体に関わることにより共同体内で被る不利益よりも自身の立場を明らかにすること(信仰を表明することになる)を選んだのです。彼らがとった行動やそれに至るまで恐れや不安はあったかもしれませんが、死者の葬りはイエスのよみがえりにより死と復活の証明になったのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2021-04-09 10:17:37 (32 ヒット)
メッセージ

 「罪の赦し」ルカ23章32〜49節
反イエスの宗教指導者たちはイエスをただ殺すだけで良しとせず、その影響力を完全に消し去るため偽キリストとして公衆の面前で侮辱を加えます。計算高い彼らはユダヤ総督府を巻き込みローマの力を利用しようとピラトの元にイエスの身柄を送ります。しかしピラトからすると死罪に該当する罪をイエスから見つけることは出来ません。ピラトは領主ヘロデの元にイエスを移送しますが、再びピラトのもとに送り返されました。結局、イエスを亡き者にしたいが誰もイエスを死刑にする責任を負いたくないのです。それでイエスは3つの裁判を受け、最終的な判断をピラトが下し死罪にされました。十字架刑はすぐ死には至らない痛みと苦しみを与えつつ殺す当時の死刑の中で最も残酷な方法です。木に上げられたイエスは「父よ。彼らをお赦しください」と執り成されます。気絶しそうな痛みの中、自分を侮辱し痛めつける者たちのために祈られました。「父よ」イエスから神への親しい呼びかけは、宗教指導者たちからすると神への冒涜です。真実の目が塞がれている人々の反応は「キリストであるなら自分を救ってみろ」というのでした。極限の状況の中、私たちは神を信頼し仰ぎ見続けることが出来るでしょうか。共に十字架刑につけられた一人はイエスをののしり続け、一人はそれをたしなめイエスに「あなたが御国に入る時、私を思い出して下さい」と言います。イエスの祈りを聞き心に著しい変化が起こって信仰告白したのです。地上の生涯を今まさに終わろうとする間際に救い主を信じた彼もまた、失われて迷い出た一匹の羊でした。「よく言っておくが」イエスが重要な真理を話される前の常套句です。「あなたは今日、わたしと一緒にパラダイスにいる」遠い未来の話ではない、それは今日だと言うのです。「父よ。わたしの霊を御手にゆだねます」最後までイエスは父なる神に対する信頼を失いませんでした。真理の近くにいても、目の前に神の子(救い主)がいても、罪により本質が見えないことがあるのです。イエスを信じ、神の愛を見ること知ることができますように。


(1) 2 3 4 ... 97 »
ID : Pass :