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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2021-02-27 17:50:25 (6 ヒット)
メッセージ

 「恐れることはない。ただ信じなさい」 (ルカ84056

イエスがガリラヤ湖の対岸ゲサラから帰って来るのを待ちわびていた民衆は、喜び迎えました。その群衆の中に娘を癒してほしい父親と、病を治してほしい女性がいました。会堂司ヤイロの12歳になる愛娘が死にそうだ。会堂司は地域の有力者であり、顔も広く医者や祭司に頼ることも考えたでしょう。しかしイエスが救ってくれると信じてすがったのです。ヤイロの家に行く途中でイエスが立ち止まり「誰かが私に触れた」と言います。大勢の人々がイエスを取り巻いているため、分かりません。私たちなら娘の元へ急ごうと「先生、今それは重要なことなのですか」と考えることでしょう。12年間婦人病で出血が治らなかった女性は、病気を負い目に「汚れ(レビ1525,26)」のため社会から外れたところで人目を避けるように暮らしていました。この女性はイエスの噂を聞き「衣の房にでも触れることが出来たならば癒される(義の翼マラキ42)」と信じ期待して、律法を犯してまでも群衆にまぎれて癒しを求めに進み出て来ました。それを打ち明けた女性に「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」と優しく声をかけられました。イエスは彼女を捜し、引き留め、公に告白させることで彼女のこれからの社会生活のために癒しときよめ・神の平安を宣言されたのです。イエスは病いの癒しだけでは終わらず、深く一人の人生に関わって下さるお方です。そこへヤイロ宅から娘の死を告げに人がやってきました。ヤイロの心が絶望に揺れる前にイエスは「恐れることをやめろ。信じ続けよ。娘は助かる」と励まされました。イエスは間に合わなかった、死の前に何が出来るのかと、人々があざ笑います。そんな人々の侮蔑をよそにイエスは娘を生き返らせます。両親は驚き呆然とします。地上における肉体の死は絶対的な終わりではないのです。死に勝利されたイエスは、「恐れるな。あきらめるな。信仰を失うな」と今日も励まして下さるお方です。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2021-02-27 17:47:06 (6 ヒット)
メッセージ

 「罪の赦し」 (ルカ福音書51726節)

ルカの福音書5章から、イエスの奇蹟の業が書かれています。大漁の奇蹟を目の当たりにしてシモンペテロがイエスに従う決心をし、重い皮膚病の人にイエスが「わたしの心だ、きよくなれ」と言われると、たちどころにいやされました。その奇蹟を誰にも話さないよう言い聞かせましたが、イエスの評判はますます広がって行き、病気を治してもらうため、教えを聞くために大勢の人がイエスを見に集まってきました。そんな中、中風(脳卒中)の人が天井からつり降ろされイエスの前に置かれました。当時、長い病いは何かの罪の裁きと考えられており、病人自身がとがめを感じ、自らの罪が赦されないから病いが治らないという思いにさいなまれていました。そんな彼の心を見て、イエスは「人よ(友よ)あなたの罪は赦されました」と宣言されました。イエスに期待し、いやされることを信じている人々の願いに答えられて、イエスは病人の彼が必死に求めていること、彼に一番必要なこと=罪の赦しをまず与えられたのです。そのやり取りを見た律法学者やパリサイ人らは「この男は何者だ、神でなければ罪を赦すことはできないのに」と反発します。彼らの発言は正論ですが、イエスご自身が神の子であることを決して認めていないゆえの発言です。そこでイエスは「罪の赦しと、病気のいやしとどちらが易しいか」とたずねます。神を畏れない人、口先だけなら何でも言えますが、実際には罪の赦しの方が難しいのです。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることがあなた方に分かるために」イエスは中風の人をいやされます。いやしの奇蹟は、罪の赦しのしるしなのです。イエスは人の心を見られるお方です。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2021-01-30 12:06:29 (52 ヒット)
メッセージ

 「恵みの年を告げ知らせ」 (ルカ福音書41430節)

聖書で言う「恵みの年」、ヨベルの年は奴隷が解放され、借財が免除される年のことです。ヘブル語、ギリシャ語で「恵み」は一方的な恩賜、優れた者が持たざる者に与えることを意味します。イエスの公生涯の最初の頃、安息日にガリラヤ地方の礼拝において、会堂管理者が朗読する箇所としてイエスに手渡されたのがイザヤ書61章でした。恵みの年を告げ知らせる、という「この御言葉が今日、成就しました」とイエスは宣言しました。会堂にいたユダヤ人たちは困惑しました。「あれは大工ヨセフの子ではないか」権威ある場で学んだ者ではない。どういう立場から、何故そう言い切れるのか、という非難もあります。また「そもそも我々は奴隷ではない、負債もない、律法を守り、生贄を捧げている」という自負があり、その宣言に歓喜できなかったのです。イエスは「預言者は、自分の故郷では歓迎されない」と言われ、エリヤとエリシャの例をあげます。どの時代もイスラエルに偶像崇拝がはびこり、神は不信仰なイスラエルの民ではなく異邦人の女性と家族を救い、敵国の将軍に癒しの奇蹟を現されたのです。イエスの発言を神への冒涜と自分たちに対する侮辱と受け取った人々は、怒りに燃やされイエスを崖まで連れて行き突き落とそうとしました。しかしイエスは慌てて逃げ出すでもなく、彼らの真ん中を堂々と立ち去り、彼らは見送ることしかできませんでした。イエスの宣言した「恵みの時」、すなわち貧しい人に福音を、捕らわれている人に解放を、打ちひしがれている人に自由を、罪と死の支配からの解放、は今なお続いており、信仰によってそれは受け取ることができるのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2021-01-30 12:04:13 (33 ヒット)
メッセージ

 「いのちの光」(ヨハネ福音書115節)

救い(赦し)はイエス・キリストにあります。聖書は罪と死を「闇」として表現し、イエスを「いのちの光」と表しています。イエスの弟子ヨハネはイエスに従い60数年、信仰者として様々なことを経験しました。決して順風満帆ではなく、むしろ逆境の方が多かったことでしょう。イエスに対する迫害、十字架刑、教会に対する迫害。その迫害はヨハネ自身にも及びました。しかし、ヨハネは記します「闇は光に勝たなかった」。闇の勢力は光を消そうとするけれど、ついに消されなかった。むしろ輝き続けている。今も昔も、これからも変わらない真理だというのです。そして創造主たる神と共におられるイエスに「命」があったと言います。神が人型にいのちの息吹(霊)を吹き入れられて人が誕生したように、死んだ者にもいのちを注ぎ生かす力があるのです。いのちを失う、または奪うのは病気やケガだけではありません。昨年からコロナ感染症で亡くなられた方は4000人を越えましたが、自ら命を絶つ人は2万人を越える勢いです。コロナ禍が後を押した部分もあるでしょう。社会や人との関わりの分断が途絶感を加え、孤独感に拍車がかかり世に絶望する。家屋の中にいることでウイルスから守られても孤独や絶望、無力感からくるストレスは避けられないのです。解決策または逃れの道はあるのでしょうか。私たちはイエスにこそ希望を見出します。人に生きる力を与えて下さるお方が「わたしは世の終わりまであなた方とともにいます」と話されました。目には見えないけれども、いつでもイエスが共にいてくださるのです。決して一人ではない。私たちが抱く自信、その希望の根拠は信仰です。主イエスはいのちの光ですから。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2021-01-16 19:39:33 (51 ヒット)
メッセージ

「救いは主にある」(ヨナ書2章9節)
2021年の標語は「救いは主にある」です。コロナ禍の中スタートを切った、この一年もどうなるのだろうか、先行きが見えず混迷が増すばかりです。一寸先は闇。その闇の中にあっても希望の光をともし続けてくださるのが我らの主イエス・キリストです。聖書は罪と死を「闇」と表現しています。キリストによる「救い」または「光」について記されている聖書箇所は多くあります。この箇所では預言者ヨナが暗闇の腹の底から悔い改めて叫び祈り、神様の取り扱いを受ける中で感謝と真理の言葉を口にするのです。ヨナは旧約の預言者として珍しく世界宣教に用いられた人物で、名前の意味は「鳩」です。聖書に最初に登場する鳩は創世記のノアの箱舟のところです。そこから鳩は神との平和の象徴としても用いられることがあります。ヨナは最初、神様からニネベで裁きの宣告をせよと命令がくだりますが、主の前を離れようと船でタルシシュ(現在のスペイン)へと逃亡を図ります。しかし神の御手によりさえぎられ嵐にあい難船し、同乗の皆が死にそうになります。自分が原因であると自覚するヨナは海に投げ入れられ船は助かるのですが、ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいることになります。光の届かない暗闇の中、悔い改め変えられたヨナは神のご計画には抗えないと悟りニネベへ赴くのです。新約聖書でこの出来事を言及されたのはイエス様です(マタイ12:38〜)。律法学者やパリサイ人らがイエスに対し何の権威によって教えるのか、神に遣わされた者として証拠を見せろと言われ「預言者ヨナのしるし」以外与えられない、と答えられます。復活の予告です。神の赦しと救いは主イエス・キリストにあるのです。


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