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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2024-04-20 09:10:39 (24 ヒット)
メッセージ

「神の栄光にあずかる希望」ローマ5章1〜2節

「わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。わたしたちは更に彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる」「神の栄光」とは神の素晴らしさ、神の奇蹟を言い表しています。数々の奇蹟の内、神が人のためになして下さった大きな御業は3つ、【―住架の贖い=罪の赦し、復活=永遠のいのち、聖霊の注ぎ=信仰の動力、信仰による勇気】があげられます。では神の栄光をあずかることによって得られるものは何でしょうか?【〆畧佞らの解放(罪と死からの解放)、⊃世箸諒刃臓△海海蹐諒唇臓平世箸隆愀言の回復)】そして神の栄光にあずかる「希望」とは何でしょうか。【/世箸慮鬚錣蝓П扮鸚=とこしえに変わらない(いつでも、どこでも‥)、普遍性=時間・場所にとらわれない(全てに共通)。⊃靴靴いい里舛鮴犬る:イエス・キリストに似た者と変えられる】 世界を見ても経済は不安定で、戦争は終わらず、地震や災害や病気の脅威がつきまといます。そんな中でも人の善意は信じられると思いきや、混乱に乗じて弱みにつけこみ、むさぼり奪い尽くそうとするたちのわるい人間もいます。嫌なニュースばかり耳にすると、自分はこの先どうなるのか、今の生活はこのままでいけるのか、教会の将来はどうなるのか、日本のこの国は安全なのか。考え出すと気が滅入りそうなことばかり、生きようとする力が湧いてこない状況ですが、だからこそ神が起死回生の希望なのです。福音を聞き神の栄光にあずかる希望をいただき、今年も歩んでまいりましょう。 


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2024-03-02 18:18:20 (113 ヒット)
メッセージ

 「神われらと共にいます」イザヤ7:1〜17


旧約聖書からイスラエルの歴史に出て来る人を見ると、アダム、エバ、ノアやアブラハム、ヤコブとその子ヨセフ、モーセ、ヨシュア、ダビデ、どの時代であっても神がその人と「共におられる」ことが分かります。「インマヌエル」私たちと共にいてくださる神、の意味です。どこかの建物に鎮座してそこから動かない神ではなく、いつもどこでも私たちと一緒におられる神です。聖書では神が「わたしを信じよ」と語りかけます。神は信仰者に対して後ろからむち打ち「走れ、進め」と歩ませるお方ではなく、恵みと祝福の約束を持って「わたしはこのようにするから信頼して共に歩みなさい」と教えられているのです。イザヤ書の中で“信仰”とは一生けん命に努力して行うというよりも「静かに」「より頼む」神に一切を委ねて神のご計画が成るのを見上げる姿勢です。「神が我々と共におられる」(イザヤ8:10)周りを敵の大軍に囲まれても南ユダ王国を助けられたように、大いなる力を持つ方が人の子として生まれました。(マタイ1:23)『見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。これは「神われらと共にいます」という意味である。』人間と同じ朽ちる肉体をもって生まれ、ご自分の死によって死の恐怖に奴隷となっている者たちを解き放つために来られたキリストは、弱い人間と同様に試練を受けて苦しまれたから、試練の中にある者たちを助けることができる(ヘブル2:14〜18)その痛みに寄り添うことができるのです。私たちと共にいて下さる神は、私たちの弱さに同情できない方でなくマタイ28:20 『世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる』と約束し励まして下さる方です。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2024-03-02 18:12:05 (105 ヒット)
メッセージ

 「主の声に従うことは」エレミヤ書42章


苦しみや痛みが続く時、神はそれを「忍耐」を学ぶために強いておられるのでしょうか?私たちを存分に痛めつけて掟(おきて)とは何か思い知らせるためでしょうか?神の御心がどこにあるのか、エレミヤ書を見てまいりましょう。イスラエルの民は国を滅ぼしたバビロンの支配下にありました。ユダヤ政府高官のシャパン一族は被害を小さくしたいとバビロンに水面下で交渉していたのでしょう。能力も買われて一族は敗戦後もバビロンで信任されました。バビロンに降りそこで生きよと預言していたエレミヤも、バビロンの王に庇護されました。面白くないのは元王族や親エジプト派の生き残りです。バビロン軍に包囲される前に他国へ逃れていた王族イシマエルが反乱を起こしますが、失敗。イシマエルがバビロンの役人たちを殺した報復が自分たちに降りかかるであろうと途方にくれた民たちは、エジプトへ逃れるべきかエレミヤに問います。無理にエジプトへ逃れようとする者には災いが降りかかる、と神の言葉を伝えるエレミヤに対して民たちは「我々は良くても悪くても、我々の神、主の声に従います。(そうすれば)我々は幸を得るでしょう」と言います。しかしその後、様々な政治関係や恐慌などから、彼らはエレミヤを「嘘つき」呼ばわりし、彼らの最善の判断として「神の声に聞き従わない」ことを選択します。しかし神の御心を問うのではなく、自分たちの願望を承認してもらうつもりだった彼らは、結果、神の御心に背くことになったのでした。神はバビロンを用いてエルサレムに裁きを下し、また回復も神のご計画の内にあるという真の御心を見失わないために、神の声に耳をすまし続ける必要があるのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2024-03-02 18:06:20 (299 ヒット)
メッセージ

 「あきらめない神」エレミヤ書31114

人は罪を犯し、悔い改める、をくり返します。私たちは世にある限り【罪(自己中心・自分本位、愚かさと狂気の渦)】に巻き込まれる恐れは常にあります。ですから「あなたならどうする」という問いに対し答えを準備しておくのです。キリスト者の生き方は「3つの愛に生きる」、すなわち神を愛し、自分を愛する様に隣り人を愛することです。平和の神に救われ、いのち与えられた私たちに「自らすすんで争いを起こす」ことはあり得ません。平和のために出来ることを尽くすべきです。出来ることなどない、人は自分勝手な生き物だから、ひとりの努力ではどうにもならないことがある、平和の実現も、罪人が救われることも、到底無理なのだと「あきらめる」と悟ることが賢いのでしょうか。否、私たちは諦めません。旧約聖書でイスラエルの国家が崩壊し、滅ぼし尽くされたエルサレムの瓦礫に立ってエレミヤは自分が生かされていることの不思議に、主の恵み・憐れみに思いをはせます(哀歌322)。主の「恵み」「憐れみ」のヘブル語の原語は、他の国の言語に訳しにくい言葉で「揺るがない愛」「慈愛」「誠実」「憐れみ」と色々な訳がなされますが、基本にあるのは「契約に基づく愛」です。神の契約により裁きが下されても、回復も既に準備されておられるのです。自力救済できない愚かで弱い人間のために、神のひとり子が送られ、助け主である聖霊が遣わされたのです。人間には可能性がなくても、神が働かれるなら私たちの想像を超えた方法があるのです。神は人が悔い改め、神に立ち返ることを諦めないお方です。ここに愛があるのです。このお方に希望があるのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2023-11-10 09:20:33 (372 ヒット)
メッセージ

 「忍耐と慰めの神」ローマ15:1〜6

教会は力のある人だけが重んじられる所ではありません。「自分を喜ばす」ことは、しばしば自己中心的な思いから始めますが「隣り人の徳を高めるために、その益を図って彼らを喜ばす」ことは思いやり、親切、善意に基づきます。そのモデルとなるのがイエス・キリストです。キリストはご自身を喜ばせることはされず、むしろ「あなたをそしる者のそしりが、わたしに降りかかった」(詩篇69:10)と書いてあるとおり、忍耐する神の御姿を見せられました。今も昔も神を信じる人々は同じような状況にあり、聖書はイエスにならって慰めと望みを得るよう勧めています。「こうして心を一つにし、声を合わせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神をあがめさせて下さるように」ばらばらの個性・人格であった人々がキリストのもとに一つになる。では「一致」とは何でしょうか?命令されて隣りの人の真似をすること、没個性を要求され司令官の意のままに、足並みをそろえて軍隊のように進むことではありません。人はそれぞれ歩くスピードも違えば、歩幅も違います。ばらばらでも良いのです。ではどこに一致があるのでしょうか。それは同じ目的に向かうところです。イエス・キリストのまなざしのその先、つまり神のご計画(御心)を求め、目指すところは一つであるということです。高慢、自己中心の罪(歪む・曲げるの意)は、人の集まり(組織・共同体・人間関係)を壊す方向性をもっています。一致をもたらすものは、謙遜と他者への思いやりです。旧約聖書全体はイエス・キリストを指し示す書物(ルカ24:27)で、神の忍耐の歴史、神を信じ成長していく神の民の歴史を学ぶことが出来ます。いかに神の御心に応答するべきでしょうか。様々な違いを認め合い、理解することを諦めないこと、共に神に向かい礼拝をささげることです。礼拝とは、バラバラだった人たちが神を中心に一つとなる神の奇蹟であり、救いの喜びと永遠の命の恵みを分かち合うことができるのが、信仰の素晴らしさです。


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