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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2021-04-09 10:17:37 (6 ヒット)
メッセージ

 「罪の赦し」ルカ23章32〜49節
反イエスの宗教指導者たちはイエスをただ殺すだけで良しとせず、その影響力を完全に消し去るため偽キリストとして公衆の面前で侮辱を加えます。計算高い彼らはユダヤ総督府を巻き込みローマの力を利用しようとピラトの元にイエスの身柄を送ります。しかしピラトからすると死罪に該当する罪をイエスから見つけることは出来ません。ピラトは領主ヘロデの元にイエスを移送しますが、再びピラトのもとに送り返されました。結局、イエスを亡き者にしたいが誰もイエスを死刑にする責任を負いたくないのです。それでイエスは3つの裁判を受け、最終的な判断をピラトが下し死罪にされました。十字架刑はすぐ死には至らない痛みと苦しみを与えつつ殺す当時の死刑の中で最も残酷な方法です。木に上げられたイエスは「父よ。彼らをお赦しください」と執り成されます。気絶しそうな痛みの中、自分を侮辱し痛めつける者たちのために祈られました。「父よ」イエスから神への親しい呼びかけは、宗教指導者たちからすると神への冒涜です。真実の目が塞がれている人々の反応は「キリストであるなら自分を救ってみろ」というのでした。極限の状況の中、私たちは神を信頼し仰ぎ見続けることが出来るでしょうか。共に十字架刑につけられた一人はイエスをののしり続け、一人はそれをたしなめイエスに「あなたが御国に入る時、私を思い出して下さい」と言います。イエスの祈りを聞き心に著しい変化が起こって信仰告白したのです。地上の生涯を今まさに終わろうとする間際に救い主を信じた彼もまた、失われて迷い出た一匹の羊でした。「よく言っておくが」イエスが重要な真理を話される前の常套句です。「あなたは今日、わたしと一緒にパラダイスにいる」遠い未来の話ではない、それは今日だと言うのです。「父よ。わたしの霊を御手にゆだねます」最後までイエスは父なる神に対する信頼を失いませんでした。真理の近くにいても、目の前に神の子(救い主)がいても、罪により本質が見えないことがあるのです。イエスを信じ、神の愛を見ること知ることができますように。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2021-04-02 09:51:52 (13 ヒット)
メッセージ

 「誰が一番偉いだろうか」ルカ22:24〜34
放蕩息子、ぶどう園の悪い農夫などのたとえ話に出てくる父親と主人は愚直なまでの人の良さを感じますが、「十字架のことばは、滅び行く者には愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です」(コリント1:18)驚くほど寛容な神の愛を教えられました。これまでイエスは反対する人々を意識し話していましたが、最後の晩餐においては弟子たちに対し、聖餐の制定、新しい契約、裏切り者の予告など大切なことを話されました。弟子たちは疑心暗鬼になり仲間内で裁きあい議論し、やがて妬みや競争心により「誰が一番偉いのか」言い争いは激しさを増していきます。イエスとの最後の夜に最もふさわしくない争いです。神の国の建設において弟子たちの中で誰が一番報われるのか。(※ユダがイエスを見限った原因の一つに、共にいても自分の願っていた将来展望が果たせそうになく、望んだ報いがないことがあげられるでしょう。)小さな社会における競争は人の目に、または自分の目にどう映るかという事にこだわり、比較による価値観に呪縛され、真の自由を奪われているようです。神の国について、救い主について誤解したままの争いは不毛で無益です。福音は誰かとの比較ではなく、神の絶対的な愛(イザヤ43:4)が価値基準なのです。イエスは弟子たちに「あなたがたは異邦の王のようであってはならない」と優しく諭します。そして「指導する人は仕える者のようになりなさい」と教えられるのです。イエスの十字架と復活、聖霊の注ぎと導きによりこの世の相対的な競争社会の倫理観・価値観から自由にされないと福音は理解しにくいものなのです。この世の優劣に関係なく、信じる者全てに等しく与えられるから神の恵みは尊い、だから人にではなく神に栄光が帰されるべきなのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2021-03-26 09:54:24 (21 ヒット)
メッセージ

 「反逆と愛息の死」ルカ20章9〜18節
イエスに反対する宗教指導者たちも手をこまねいていたわけではありません。イエスから民衆の支持を失わせようと嫌らしい質問を繰り返します。そんな指導者たちに怒りと悲しみと憐れみをもって「ぶどう園の悪い農夫」のたとえ話をされました。ここでも3つのありえないことが話されています。,屬匹Ρ爐両茲端茲蝓⇔亮腓紡个垢詒慎奸クーデターの成功は力の掌握の可否にかかっています。少し知恵のある者が農夫の中にいれば「主人の力は圧倒的だ、そんなこと成功しない」と止めたでしょう。法的にも倫理的にも筋が通らない。しかし、ぶどう園に執着する悪意ある農夫たちは主人から遣わされた3人のしもべを袋叩きにし、侮辱して帰します。主人に宣戦布告したようなものです。⊆膺佑和┨錙⇔呂鬚發辰独慎佞鯆丹気垢戮なのに、4人目に愛する息子を遣わしています。この主人は何が起きているのか分かっていないのか、または呆れるほどお人好しなのでしょうか。主人の発言には「今度こそ敬ってくれるだろう」とありますから、農夫たちの悪意ある企ては承知の上で彼らの反省と悔い改めを期待し、愛息を送り出していたのです。しかし主人のその心を知ろうともしない農夫たちは、相続者であるあの息子を殺せばこのぶどう園は自分たちのものになると勘違いし無法を行います。0βの死を知った主人はついに彼らを滅ぼします。そしてこれまで農夫に管理を任せていたぶどう園を他の誰かに与えるというのです。ここまでの話に「イスラエルにこのようなことがあってはならない」と聞き入る人々。しかし宗教指導者たちは、このたとえ話は自分たちに向けられていると気づき「あの邪悪で厚かましく愚かな農夫たちが我々のことだというのか」と憤慨します。農夫たちにとって滅びは当然の報い(結果)でしょうが、思いがけずぶどう園を与えられる者にとっては突然降ってきた恵みです。捨てられた石が、かしら石(基礎)となる(詩篇118:22)。イエスはこのたとえ話で、宗教指導者たちが自分の正しさに目がくらんでいると神の恵みを受け継ぐことができなくなる、と忠告しているのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2021-03-26 09:51:40 (21 ヒット)
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「イエスの目的」ルカ19章1〜10節
放蕩息子のたとえ話は、自分を正しいとする律法学者やパリサイ派の人々からするとありえない話でした。兄は今まで父親のために真面目に家に尽くしてきたのに、自分勝手に生きた弟が同じように父親の息子として受け入れられることが耐え難かったように、律法を何よりも大切に守り神様に従ってきたという自負がある彼らは、律法では罪人とされる人々が「何もしていないのに」神様にゆるされるなんて考えられないことでした。取税人と交流することもパリサイ人たちにとってありえない話です。ローマから税の取り立てを請負う取税人は、ユダヤ人からすると異邦人の手下、売国奴、強奪者と悪口を言われ嫌われていたのです。ザアカイの名の意味は「きよい人」です。両親や祖父母の思いが込められた名前ですが、その期待から外れた生き方をしていました。しかし「罪人」と言われる人々も、好んで共同体からさげすまれるような道を選んだわけではなく、命の糧を得るために職業の選択肢がない環境の中で、そのようにしか生きられなかった人もいます。しかしユダヤ社会から断たれた罪人は、神様の祝福の外側にいると考えられていました。そんなザアカイがイエスの姿を見たいと日頃からずっと願っていましたが、身体的な不利があっても職業的に人々の協力を得られず、いちじくの木の上に一人のぼっていました。そんなザアカイにイエスは名前を呼び「急いで降りて来なさい、今夜はあなたの家に泊まるから」と声をかけられました。大勢の人の面前で罪人に向かって親しげに話しかけるなど、ましてや取税人と食事をしその家に泊まるなど、律法学者たちにはありえない行動ですが、ザアカイ当人にとっても信じられないようなことでした。感激したザアカイは全財産を失ってでもイエスについて行こうと喜びました。どんな罪人でも、神様の救いの計画に入れられているのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2021-03-19 09:46:13 (24 ヒット)
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「放蕩息子」ルカ15章11〜32節
取税人や罪人たちがイエスの元に集まるのを見て批判した律法学者たちに対し、イエスは失ったものが見つかると大きな喜びがあるという3つのたとえ話をします。これは律法主義者からすると3つの「ありえない話」です。1匹の愚かな羊の為に何故99匹を置いて行くのか。1枚失くした銀貨が見つかったところで他人に喜ぶことがあるのか。放蕩息子にしても相続財産の生前贈与を子から言い出すなどもってのほか、石打ものです。にもかかわらず父親は財産を分け与えました。考えられないことです。しかも金を持った息子は一族の義務も果たさずに出て行きました。噴飯ものです。挙げ句、親不孝な息子は全財産使い果たして貧窮の極みに陥ります。そんな自業自得の息子が帰って来たところで、受け入れるわけにはいきまさん。ところが父親は喜んで迎え、祝宴をはるというから呆れます。兄息子の怒りは当然でしょう。以上、律法主義者からすれば最初から最後まであり得ない愚かな親子の話なのです。しかし、父なる神の視点からすると死んでいたと思っていた息子が帰って来た大きな喜びがあるのです。父は親愛の情を注いで兄をなだめ続けますが、兄は父のその心を知ろうとしません。父の悲しみはここにもあります。兄も父の心からも離れているから「死んでいる」ような者なのです。弟は父のもとに帰りました(ヘブル表現では「帰る」は「悔い改める」の意)。「人の子は失われた者を捜して救うために来たのです」(ルカ19:10)父なる神の心を知るイエスは、道を失った者や神の心から離れ死んだままの者を救うため、来られたのです。


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