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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-07-19 10:26:29 (1 ヒット)
メッセージ

「士師エフタ」 士師記11章29〜40節
エフタは母親が遊女だったことから出自が疑われ、おそらく相続の件も絡み兄弟から嫌われて家を追い出されました。イスラエルの共同体の法を守れないならず者たちがエフタのもとに集まるようになったのは、彼にダビデのようなカリスマ性があったからでしょう。ごろつきの頭(不良のリーダー)であるエフタですが、聖書は彼を「勇士」として評価しています。アモン人と戦うことになったイスラエルにはふさわしい指揮官がいませんでした。そこでギレアデの頭たちはエフタを呼び出したのですが、エフタはすぐさま引き受けたのではなく、平時においても首領となるよう知恵を用いて交渉しました。戦時も平時も大将となるような士師はエフタだけでしたが、敵との戦いにおいて誓願を立てたのもエフタのみでした。誓願とは自分の願いが聞き届けられた時に、ある事をする・ある物を捧げる、ある事をしない(もの絶ち)と、口に出して神に約束することです。誓願を立てるのは義務ではなく全くの個人の自由意志ですが、神様と特別な取引をするためにそれを破ることはできず、必ず約束は果たさなければならないため、軽々しくすべきではありません。旧約の例としてはハンナの祈りが聞かれて男の子が産まれたため、誓願どおりサムエルを主にささげました。後にサムエルは最後の士師であり預言者として活躍します。エフタはアモン人から勝利を得たら「家の戸口から私を迎えに来る者を全焼のいけにえとする」と誓願を立てます。犠牲が大きいほど願いがかなえられる、と考えたようですが、あきらかに異教の影響からくる愚かな発想でした。創造主なる神は人身御供を望みも教えもしませんでした。それを戒めるかのようにアモン人に勝利し凱旋したエフタを最初に出迎えたのは、最愛の一人娘でした。士師記において主はイスラエルに敵を渡すと約束されましたが、エフタには勝利の約束はなかったため、確信が欲しくて誓願を立てたのでしょう。エフタはモーセの律法において誓願を立てることの意味とその重さを身をもって知り、それに従うことになったのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-07-12 09:31:35 (6 ヒット)
メッセージ

「主は仰せられる」士師記6:19〜40
「主の勇士」とは主の招きに応答し、主の働きに参加し、主と共に歩む者です。ギデオンは主に語りかけられた時、なぜ主がおられるなら私たちを捨ててミデヤン人の手に渡されたのか?と疑問を投げかけます。信仰生活を続けて行く中で私たちは神のご計画と私たちの思いが異なること、神が定められた時と私たちが願う時は違うことを知ります。「神様、なぜですか?」と問いかけることは御心に背くことではありません。すぐに祈りが叶えられないことや願った通りに行かないことが続くと諦めという悟りから、神に何も期待しなくなり、求めなくなります。しかし主が喜ばれる信仰者の姿とはギデオンのように「主よ。なぜですか」と問いを持ち、神に向かって行く者です。イエスは「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われました。聞き方に注意しなさいということです。何度も繰り返したずねると、主は答えて下さいます。幾度となく聖書を読んできたけれど、今日その真意を知ることができた、このことだったのかと理解できることがありますが、それも御言葉にくり返し向き合う中で聖霊が理解を深めて下さるからです。どの様な真理であっても受け取り手により一部の情報として留まる人もいれば、恵みの宝になる人もいるのです。主イエス・キリストを信じ従わんとする者は天の奥義が許されます。天の奥義は知る者を喜びと感謝で満たします。ギデオンは慎重なのか億病なのか、確信を得るために何度もしるしを求めます。その度に不信仰をとがめず、むしろ「主の勇士」としてギデオンを用いるため、喜んで問いかけに応えられます。「主があなたとともにおられる(士6:12,16)」インマヌエルの約束、「安心しなさい。恐れるな(士6:23)」平安の約束、「主の霊がギデオンをおおった(6:34)」聖霊の注ぎ。圧倒的劣勢の中でも主は勝利を与えられます。「自分たちの力でやったと勘違いしないため」主が行われるのを私たちは目撃し、主の証人となるのです。今日、私たちにも約束されています。「主の勇士」として、主よ。お語り下さい。私が進むべき道を指し示しお導きくださいと祈ろうではありませんか。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-07-05 13:44:24 (18 ヒット)
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「主はあなたと共におられます」士師記6:1〜18
ギデオンは酒ふね(葡萄酒などを造る窪地)の中で小麦を脱穀していました。当時、穀類は風のよく通る広い丘の上などで行いましたが、度重なるミデヤン人の襲撃を恐れ、イスラエルは恐々と息を潜めるように生活していました。そのためギデオンも酒ふねに身を隠すようにして脱穀していたのです。そんな恐れと不安に満たされていたようなギデオンが「主の勇士」として召命されたのです。「主はあなたと共におられる」という言葉にギデオンは疑問を口にします。なぜイスラエルは苦しめられる状況に陥ったのか?先祖たちから伝えられる数々の素晴らしい奇蹟の御業は今どこにあるのか、私たちは神に見捨てられたのか?人は苦しい状況が続くと、神が遠く感じられます。あの人たちには素晴らしい証しがある、しかし私は神に祝福されていないようだ、と。神の答えは「あなたがたは私に従わなかった」神の愛に対する裏切り、神に背いた報いにふさわしい裁きをイスラエルは受けていたのです。しかし神は怒りを下される者をもう一度抱きかかえ救い出すために、ギデオンを召し出されたのです。それに対しギデオンは「私は最も小さい者です、とてもできません」と言います。勇士とは勇気を持って強大な敵であっても怯まずに戦い続ける者を指す言葉ではないでしょうか。しかし神が求めておられる「主の勇士」とは、自分の力を頼りに困難に立ち向かう勇敢な者ではなく、神と共に踏み出し、共に歩まんとする者、神のご計画、主の業に参加しようとする者です。主がそれを行えと言う場合、たいがい私たちの手には負えない、人間の力ではできないことです。自分の限界を知り「私にはできません」と言うでしょう。しかしそれは神ご自身が行われるのです。神が働かれるところに招かれ、主の業に共に参加することは信仰のチャレンジです。「主の霊が彼をおおった」神の御霊に励まされ、主の霊に満たされてその働きを成すことができるのです。ギデオンは祭壇を築き「アドナイ・シャロム」神の平安を得ます。ギデオンを取り巻く状況は何も変わらず、敵に囲まれていますが、神が共にいるという平安が彼の心を変え、立ち上がって出て行ったのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-06-25 09:36:34 (16 ヒット)
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「祝福と苦難と」ヨブ記1〜2章
聖書に記されている、神に祝福された父親にアブラハム、イサク、ヤコブ‥ヨブがいます。どの人物も祝福とともに苦難も経験しました。ヨブは全く正しく、神を恐れ、悪から遠ざかった人物でした。多くの財産を持つ人で、家族の代わりに犠牲の生贄をささげ、とりなしの祈りをする人でした。神の目に適うヨブは、サタンにも目をつけられ標的にされてしまいます。サタンの思惑からすればこれほどの苦難が続けば神をのろい信仰を捨てるだろう、とヨブの家族と財産を打ち、それを失わせたのです。サタンは神に抗い、神の計画を邪魔する者です。聖書の中でサタンが登場する回数は少なく、創世記の蛇の誘惑、ダビデの人口調査、ヨブ記、イエスの荒野の誘惑、そしてイエスを売ったイスカリオテのユダに入った時、いずれも神のご計画を阻もうとして、神のご支配の中で行われたことです。うち続く災難にヨブの妻は「神を呪って死んでしまえ」と言います。全てを失った悲しみと神に対する怒り、自分では何もできない無力感と苦しみからほとばしった言葉ですが、ヨブは「我々は神から幸いを受けるのだから、災いも受けるべきではないか」と神を呪う言葉で唇を汚すことはありませんでした。ヨブをなぐさめるために訪れた3人の友人たちは、「知らない間にあなたが罪を犯したからこんな災難にあったのだろう、あなたが正しくなかったから、不幸になる何がしかの理由があるからだ、悔い改めよ」と、話しかける言葉が全てヨブを責め立てる論調になっていき、ヨブをいらだたせます。私たちは苦難を受けると信仰が揺さぶられます。ルツ記の冒頭で、夫と息子2人を失ったナオミは悲しみ「全能の神が私を悩まし、災いを下された」と言います。何ゆえ神は私を見捨てられたのかと失望し、不安と悲しみでこの先なんの良いことがあろうかと悩みます。しかし嫁のルツがボアズと結婚し、ナオミは孫を見ることができてなぐさめを得たように、ヨブも最後は神様から倍の祝福を与えられます。逆境の中で神に叫び、神に向かっていくことは正しい姿です。絶望の中で「私をあがなう者は生きておられる」と自分の助け主、希望は、神にあると知ることができるからです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-06-25 09:33:22 (20 ヒット)
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「聖霊の力」使徒行伝2章1〜4節
聖霊によって信仰による勇気が与えられ、人生が変えられた弟子にシモン(ペテロ)がいます。シモンは何でも自分の思いを声に出してしまい、隠しだてすることの出来ない人物でした。率直さには好感を持てますが、そのために失敗をしてしまうこともありました。シモンはイエスの弟子として共に旅する中で数々の奇蹟の御業を目撃し、彼自身も体験します。そしてイエスを「あなたは生ける神の御子キリストです」と信仰の告白をします。イエスはそれを喜ばれ「あなたはペテロ(岩)です」と名を与えるのです。ところがその後、イエスが捕らえられ殺されること、よみがえられることを予告すると、師であるイエスに「そんなことが起こるはずありません」といさめ始めたのです。そんな彼に対しイエスは「下がれ。サタン〜〜あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と叱責します。神の御心を行おうとするイエスを阻み、自分たちの思いの実現に向かおうとしたからです。最後の晩餐の折、ペテロは「私は決してつまずきません」「死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」とイエスに言いますが、危険が迫るとイエスを3度も否みます。鶏の鳴き声を聞いた時イエスの予告を思い出し、自分の弱さ汚さ、罪深さに泣き崩れるのです。これが聖霊のバプテスマを受ける以前のペテロです。肉の弱さを持つ彼は自分が言った言葉の反対のことを行ってしまう愚かさを持ち合わせていたのです。復活のイエスは自信喪失のペテロに「わたしの羊を飼いなさい」と命じられます。つまり信仰の兄弟姉妹たちのお世話をしなさいとペテロに使命を与え、人生の目的を示され、その実現に必要な聖霊を受けることを待ちなさいと命じられます。これまでの自分のままではまた失敗するだろう、もう主を裏切りたくない、主に託された使命を全うしたい、力を得るために神の約束にお頼りしなければ‥と感じていたことでしょう。ペテロのように大きな失敗をして自信をなくしていた人でも、聖霊を受けた信仰者たちは力を受けイエス・キリストを伝える者として変えられ用いられていくのです。


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