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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2022-06-16 10:46:51 (74 ヒット)
メッセージ

「聖霊に満たされて」使徒行伝2章5〜21節
ユダヤ三大祭の一つにあげられる五旬節は、収穫の恵みに感謝し主にいけにえをささげ、神の契約の民としてエジプトから解放されたことを記念する祭りでした。世界中から敬虔なユダヤ人がこの大切な祭りのためにエルサレムに集まっていました。そこでペンテコステの聖霊の注ぎの出来事に遭遇したのです。この騒ぎに人々は驚き戸惑い、またある人々は酒に酔っ払っているのだと思いました。説明の必要を覚えたペテロと弟子たちは立ち上がり「これは酒に酔っ払っているのではありません」「これはヨエルの預言の成就です」と説明します。かつて神に選ばれた信仰の偉人たちの中に、神の御霊が注がれ特別な力をいただきイスラエルを救う話が旧約聖書に描かれていますが、ヨエルの預言では男女の性差や年齢は関係なく、また職業や立場も関係なく「彼ら」はみな預言するといい、主を信じて叫び求める者はみな「救い」が与えられると言うのです。「救い」とは、贖いによる解放、癒しによる回復を表します。また圧迫や脅威・危険からの解放をも意味します。つまり自由と真の幸福が与えられるというのです。救いのしるしとして主の霊が注がれる。このペンテコステの出来事はヨエルの預言の成就であると堂々と論証したペテロは、さらに父なる神と主イエスからの約束の聖霊(ヨハネ14:16〜26)が注がれたと説明します。かつてユダヤ人を恐れ隠れるように日々を過ごしていたペテロは聖霊の力(信仰による勇気)をいただき、堂々とユダヤ人に説教し、悔い改めへと導くのです。聖霊の満たしは、あたらしい命を実感することができるのです。求める者には誰にでも聖霊は注がれます。真理を教え、思い起こさせて下さる御霊、信仰の助け主である聖霊さまどうぞ私を満たして下さいと祈りましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2022-06-10 09:45:37 (95 ヒット)
メッセージ

「試練の中からの救い」ペテロ2:4〜10
初代教会はローマ帝国からの圧迫という外からの攻撃と、異端という内からの腐敗に対する戦いがありました。今のように情報があふれる時代とは違い、インターネットで検索すれば瞬時に知りたいことが分かる環境ではありません。新約聖書の手紙類はまだ書籍として各教会に整っていたわけではなく、写しが大切に回覧されているような状況でした。限られた情報の中で、語られる御言葉を聞いて、信仰生活を守っていました。しかし教えに私的解釈を施し、自分の個人的な利益のために情報を操作し、さも真実かのように語る人が出てきました。知らない人は無批判に受け入れ、誤ったことを信じてしまうという悲劇が起こるのです。テレビに出ている有名な人が言うから、先生と呼ばれる立場の人が語ることだから真実なのでしょうか?使徒行伝で、パウロが言っていることが本当なのかどうか見極めるためにベレヤの教会の人はどうしたでしょうか?日々聖書を調べて照らし合わし、それが聖書に書いてある通りだと分かって心から教えを受け入れたとあります(使徒17:11)人間の罪の根源は、神のようになろうとしたことです。そういった罪の性質があることをふまえて、自分が傲慢の罪に陥らないように、また神のようにふるまおうとしている人を警戒しなければなりません。 これまでの生き方を捨て、クリスチャンとして信仰生活を送っていくためには様々な誘惑、試練、悩みがあります。聖書的文化背景のない国や地域、習慣習俗の中で信仰に生きようとすると困難があります。ロトもしかり、初代教会の人たちもしかり、神様の御心にかなうよう生きていくためにどうしたらいいか、判断に迷うことが多々あります。基準は聖書です。聖書に書いてあることと誠実に向き合って、イエスの教えを骨格とし、土台とし、有益な情報だけを選び取っていく知恵を持たなければなりません。信仰の高さ、広さ、深さは人それぞれなので、その人のその時の状況に応じてとるべき態度、行動は違ってくるでしょう。聖書にはたくさんの義人、信仰者が出てきますが、私たちが模範にするのは主イエスのふるまいです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2022-06-03 12:37:54 (137 ヒット)
メッセージ

「主の言葉の真実」列王上17:17-24
ザレパテの母子は酷い飢饉の中でもエリヤと出会い、神様の特別なはからいにより命を守ることができました。生活も回復していく中で、息子の突然の死という不幸があります。母親は感情的になり強い調子でエリヤを非難します「あなたが来たのは私に罪を思い出させるためなのか。わたしの息子を死なせるために来たのか」と。エリヤによって一家の危機を救ってもらい今日まで養われたことへの感謝は吹き飛び、息子が失われるという現実に信仰をもって向き合いきれず、過去に自分を縛っていた考え方がむくむくと起き上がって心を刺すのです「不幸になったのは罪の結果だ」と。不幸をもたらした原因を探し、それが分からないと私の行いが悪かったから?またはこの家に招いたエリヤのせいだ、など因果論的な思考で犯人探しをしてしまうのです。母親の怒りと悲しみの矛先となったエリヤは息子の遺体を受け取り、抱きかかえ主に向かい叫びます。神に特別に選ばれた預言者の祈りはどのようなものでしょうか。知性を感じさせるような美辞麗句をちりばめた特別な祈りでしょうか。聖書には「災いを下して子供を殺されるのですか」と三度主に呼ばわったと記されているだけです。心にある嘘偽りなき思いを神様に叫んだのです。神はエリヤの祈りに応え子どもは生き返りました。母親は神の奇蹟を体験し、告白します「あなたが神の人であることと、主の言葉は真実であることを知りました」人は置かれた環境や状況により、信仰も変わりやすいものです。悲しい出来事は罪の結果による罰ではないと知り、困難な中でも変わらぬ神の真実と愛を知るために祈りましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2022-05-26 13:51:51 (96 ヒット)
メッセージ

「主が言われたことばのように」列王上17:8〜16 要約
「やもめはエリヤの言葉どおりにした」というのは大きな決断でした。このパンを食べたらあとは死を待つのみという状況から、エリヤの言葉にわずかな希望を感じ、信じ従って行く生き方へ方向転換した瞬間でした。神の御言葉を聞いて、神に生かされる人生があるのです。ただ生きるのだけではなく、いかに生きていくべきかが大事なのです。神を信じたキリスト者は、どこに幸福を感じることができるのでしょうか?富でも名誉でもない、聖書では「一番すぐれているものは愛です」と言っています(コリ13:13)。性愛や物事への執着ではなく、神の犠牲の愛のことです。偽りのない愛、真実の愛はいつまでも朽ちずに残るもの、一番尊いものです。神を愛する者、信じる者は、人を愛することで幸福を感じることができるのです。仕事にしろ家庭にしろ、報酬または人からの承認を得るために行うのではなく、相手を敬い、共に存在する家族のため、職場のため、地域、社会のために貢献することで自分自身も生かされていることを知るのです。「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の戒めである。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:12-13)人の罪のために十字架でいのちを捨てられたキリストの犠牲、これ以上に大きな愛はありません。やもめの女性がエリヤにパンをささげたのは、人の命を生かすために自分の食べる分をゆずった行為は、犠牲の愛です。しかしそれは嫌々ではなく、無理強いされてではなく、神のことばを信頼して行ったことから、彼女もその家族も幸福を得ることができました。神の戒めを守り、御言葉に従う者は「(キリストの)喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされる」(ヨハネ15:11)のです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2022-05-20 10:06:59 (98 ヒット)
メッセージ

「主が言われたことばのように」列王上17:8〜16
大災害、戦争、食糧危機など社会的な問題がおこった時、困窮するのは弱い立場の人たちです。今日の聖書箇所では、自然災害により生きる糧を失った異教の母子の話です。神が御業を行う時、経済の豊かな人や立場のある人を用いず、むしろ困難を抱え込んだ人が用いられたりします。ザレパテの母子は残りわずかな小麦と油でパンを作って食したら、後は死ぬばかりという絶望のふちに追い込まれていました。彼女らが暮らしていた地域で信奉されていたのは農業神バアルです。バアルに力がないのか見放されたのか、うち続く干ばつの前になす術がありません。大切な我が子を助けることもできない無力な彼女の前に現れたのは、イスラエルの預言者エリヤです。エリヤは「水をくれ」「パンを作ってもって来て」と言うのです。これから最後のパンを子に与えようという時です。彼女は逡巡しますが、エリヤは「恐れるには及ばない。かめの粉は尽きず、びんの油も無くならないと主は言われる」と言います。突然現れた旅人の言うことに従っていいものかどうか、大きな決断を迫られます。もし食べ逃げされ、そのまま最後の食事ができなかったらどうしよう?しかしどうせパンを食べたところで、自分も子どもも死ぬことには変わりない、という諦めやむなしさからエリヤにパンを提供したのでしょうか?聖書には「彼女は行って、エリヤが言ったとおりにした」とあります。マリヤが御使いの御告げに対し「お言葉どおり、この身になりますように」と受け入れたように、神の御言葉を聞いて従ったところに、神に生かされる人生があるのです。ここではエリヤもまた、アハブ王から身を隠して前途が閉ざされた状態でした。神は、ご自分の言葉に従ったエリヤも彼女とその家族も、久しく食すようにはからって下さいました。何の力もない異教の信仰、ただ死を待つばかりの宗教から、エリヤとの出会いで神の御言葉に従って仕えること、ささげることで自分自身だけでなく家族もいのちを得ることができる生き方があることを知ることができたのです。


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