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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2022-01-15 17:56:54 (9 ヒット)
メッセージ

説教「新しいいのちを生きる」ペテロ第一の手紙1:3〜9
本年の淡路教会標語は「新しいいのちを生きる」です。キリストにより新しくされた人生を、主イエスを仰ぎ見ながら生きる中で、キリストと似た者として造り変えられて行くのです(コリント3:18)。人生には困難があり、問題が起こります。信仰を持っても思い通りにはいかず、解決に至らない試練(重荷)があることも確かです。パウロは痛みを取り去って下さいと三度も願いましたが聞き入れられませんでした。「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は、弱さの中で完全に現れる」と主から言われ、パウロは高ぶることのないための「とげ」として、主があえて残されたものだと理解し「私は、弱い時にこそ強い」と証しました(コリント12:9‐10)。手紙が書かれた時代、キリスト者を取り巻く状況は決して良いものではありませんでした。ローマ皇帝ネロによるクリスチャンへの迫害が始まった頃で、キリスト信仰を持つことで迫害されるそのような息苦しい時代でした。当時の状況を知って手紙を読むと違和感を覚えます。そこには喜びと感謝があるからです。手紙はキリスト者を励まし慰めを与えつつ信仰生活を指導するものでした。キリストの復活は信じる者に生きる望みを抱かせます。信仰に生きる者の動力は、神から与えられる恵みなのです。コロナ規制による閉塞感、不安定な国際情勢、経済格差の広がる社会、現代に生きる私たちを取り巻く状況も、決して平安なわけではありません。しかし朽ちることのない永遠のいのちを受け継ぐ者とされた恵みに感謝し、神に愛され救われた喜びに生かされる者に、神は生きる望みと力を与えて下さるのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2022-01-13 13:47:38 (9 ヒット)
メッセージ

「光として世に来られた方に」ヨハネ12章46節
世界の創造の第一声は「光あれ」でした。光から全ての創造が始められました。天地を造り、あらゆる生き物を造り、神の姿に似せて人を造りました。神はお造りになった全てのものをご覧になり「それは極めて(非常に)良かった」と評されました。しかしアダムとイブは罪を犯したため、神は「(罪を犯した人間が)命の木から取って食べ、永遠に生きることがないように」エデンの園から人を追放されました。しかし神の祝福から遠のいた人を救済するために、神は人間の罪を取り除き、赦しを与えるためにイエス・キリストを遣わす計画を同時に始められました。イザヤ書9章5〜6節「一人のみどりごが私たちのために生まれた。一人の男の子が私たちに与えられた。主権がその肩にあり、その名は『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」その名にふさわしい人物は、聖書の中でただ一人、イエス・キリストです。私たちは神の前でざんげしても再び失敗や過ちを繰り返す者です。律法で規定されたささげものを供えて神にゆるしを乞うても、神が望まれるような完璧な姿になれるはずもありません。しかしイエス・キリストの体が(十字架で)献げものとされたことで、罪のあがないは永遠に全うされたのです。キリストを信じる人々は聖なる者、完全な者とされたのです(ヘブル人10章)。主は人が罪に定められないよう執り成してくださり、罪の中にとどまり続けることがないよう導いて下さるお方です。私たちの罪のため犠牲となられたキリストの愛に感謝し、罪の闇の世を照らす光として来られた聖い方、イエス・キリストを心にお迎えいたしましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2022-01-07 10:04:41 (16 ヒット)
メッセージ

「夢と預言」マタイ2章13〜23節
ユダヤの人たちは夢の中の啓示を大切にしました。それは先祖たちの伝承にある創世記のヤコブやヨセフ、預言者ダニエルたちの夢の解き明かしや啓示により自分たちの民族が祝福され、災いから守られてきたという歴史があるため、異邦人とは違う重みを持って受けとめているからです。「ヨセフは正しい人であった」というのは倫理・道徳的な正しさというより、律法に従い神の御言葉に忠実であるという意味です。ヨセフは夢の中で御告げを受け、マリヤを妻として迎え、また夜の内にマリヤと幼子イエスを連れてエジプトへ逃れました。色々な信仰の在り方がありますが、ヨセフの信仰の特徴としては御告げを受けてすぐ行動に移すことです。神様は人を見て、個性に合わせてアプローチされる方です。夢の啓示や預言は常にあるわけではなく、ユダヤの歴史でもそれが長らく止んだ時代もありました。私たちが直接、神様から御告げを受けることはないかもしれませんが、聖書によって神の御心は既に示されています。夢を見たり、生活の中で強く心に迫る思いが神様から出たものなのか、自分の願望や不安の強さから出たものなのか、決め手は御言葉に照らし合わせてみることです。与えられた聖書をひもときながら、理解の助け手である聖霊が正しい判断が与えられ、行動に移すことができますように、祈りながら歩んでまいりましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2022-01-07 10:02:39 (16 ヒット)
メッセージ

「慈しみと猜疑」マタイ2章1〜12節
まなざしは見る者と対象となる相手や物との関係によって、またどのような考えや思いで見つめるかにより、その意味は変わってきます。信頼と愛情をこめて親を見つめる無垢な赤ちゃんに注ぐのは慈しみに満ちたまなざしであろうし、狩る者が獲物に狙いを定めるのは険しい視線となります。この聖書箇所では星の出現=新しい王の誕生の予告に対する二つの受け取り方が書かれています。東方の博士たち(占い師や魔術師的な意味がある。数学、天文学、歴史などに通じる博学な者と考えられる)と、ヘロデ大王の反応の違いです。博士たちは星の出現が本当に王の誕生のしるしか確かめてみたいという知的好奇心もあったかもしれませんが、贈り物を携えて遠方からはるばる伏し拝みに来たといいます。ヘロデは「それを聞いて不安を抱いた」「恐れまどった」「うろたえた」とあります。ヘロデは先祖がエドム人でありながらイスラエルを治めるしたたかな政治家です。自分の血縁を殺してでも立場を守り、権謀の限りを尽くしてその地位にいる猜疑心のかたまりのような人物ですから、「新しい王の出現」に動揺し、ユダヤの言い伝えでは王はどこに生まれると言っているのか、と祭司長や律法学者たちに問いただします。彼らは「ユダのベツレヘムです」と即答しますが、エルサレムからわずか8劼曚匹両貊蠅任△襪砲盍悗錣蕕此▲悒蹈任里泙覆兇靴魘欧譴突存世成就したのか確認に行くことはありませんでした。結局、王の中の王、イスラエルが何百年も待ち望んだ神の遣わされた救い主、イエスの誕生を喜び、拝みに来たのは異邦人の博士たちと羊飼いたちだけでした。天の父の権威に従うか、この世の権威に従うか。慈しみとあわれみに満ちたまなざしか、猜疑と威圧のまなざしか、どちらを受けて歩むか選ぶのは私たちの自由意志によります。インマヌエルの王は、この世で嫌われている人々もえり好みしない、心の直ぐな者と共にいて下さる方です。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2021-12-17 11:02:53 (48 ヒット)
メッセージ

「インマヌエル」マタイ1章18〜25節
婚約者マリヤが子を宿したことを知り、ヨセフは頭を抱えました。自分の知らない子をみごもった女性に、当時の律法では石打による公開処刑をする権利がヨセフにはありました。律法に従う「正しい人」であったヨセフは、マリヤの妊娠は耐え難いことでしたが、隠し通すことができずいずれ周囲から石打にされるよりも、ひそかに離縁して去らせた方が双方にとって良い、と考えました。そんな時、ヨセフは夢で御使いからマリヤを迎え入れるように命じられます。「彼女は男の子を産む、その名はインマヌエル(神われらと共にいます)」「このことは既に預言されていた事が成就するためである(イザヤ7:14)」という御告げを受け、ヨセフはイスラエルの民を罪から救う神の御業のただ中にいることを知り、自身が納得できる理由をもってマリヤを妻に迎えるという決断と行動に移ります。「その子をイエスと名付けなさい」と御使いは言われましたが、その名は「イエシュア=神が救い」という意味です。キリストの「救い」には助け、支援、問題解決ということも含まれます。人々が期待する救い主の奇蹟には、病気のいやしや悪霊の追い出し、政治的・軍事的イスラエルの独立もあります。しかしイエスは時として人が思う通りには問題を解決されないこともあります。神はその場その場での支援ではなく、その人の魂の救済という視点から変化をうながされることがあるからです。また「インマヌエル」という名の通り、どんな苦難の中に置かれたとしてもそれは神が見放された結果ではなく、信仰の糧となり力となるよう、主はその試練の中でも共にいて下さるのです。コロナ禍にあって孤立はさらに深まりましたが、このような時代であるからこそインマヌエルの預言の成就に感謝し、救い主のご降誕を共に喜びましょう。


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