アーカイブ | RSS |
投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2020-03-27 10:17:55 (4 ヒット)
メッセージ

「父のみこころ」マタイ18章1〜14節
この中で誰が一番偉いのか。何をどのようにすれば神様は評価してくださるのか。神の国での席次を上げるための方法はあるのか。それが弟子たちの関心事でした。共感できないこともないのですが、彼らが神の御心から外れたところで血眼になっていることも分かります。そうではない、発想が違う。イエスは幼子を真ん中に立たせ話されました「心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の国でいちばん偉いのだ」徳や実績で神の国に入れるのではない。神の国に入れられるのは、御前に何も誇ることが出来ない子供のような者だ。自分にはその資格が無いと気づくことが出来た者が、神の恵みをいただくことが出来るのだと。そもそも人は競争社会の中で常に比較され続け、経験則から世の原理を基準とし、人を(自分をも)測りがちです。信仰が強いか弱いか、その基準さえ人であるゆえに間違えることがあるのです。人との関わりにおける相対評価ではなく、神との関わりにおける絶対評価が基いとなるべきです。神は「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛し」てくださっているのです。幼子は“資格の無い者”、誰かに守られ助けられなければ生きていけない弱い存在の象徴として話されたのです。迷い出て見失った羊はその愚かさ故に滅んでしまっても自業自得なのでしょうか。真の羊飼いはそれを見捨てません。見つかるまで探し、見つかったら大喜びするでしょう。神の御心は人々の救いです。世の人に小さき者と見下され軽んじられたとしても、その者が滅び行くことは神の御心ではないのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2020-03-27 10:15:16 (5 ヒット)
メッセージ

「みこころを行うもの」ヨハネ8章21〜30節
7章でイエスはいくつかの断言をしています(神ご自身が教えておられる、神を本当に知っているのは私だけだ、わたしはこの地上に属する者ではない、間もなく天の父のもとに帰る)。そして8章12節で「わたしは世の光である」と宣言します。父なる神との同質性を宣言する時に使われる言葉「わたしは〜〜である(エゴーエイミ)」は24節にも出てきます(口語訳では『わたしはそういう者である』:新共同訳では「『私はある』ということを…」)。反イエスの人々は思いました。「彼は(お前は)いったい何者だ」祭司の家系でもなく、学歴もない、片田舎の大工の息子ではないか、我々は彼の出自を知っている、と。イエスは「それは初めから話している」と言いますが、聞く者たちと違う次元の話をしているので認識にズレがあり、すれ違いがあるため聞いても分からないのです。受け入れまいと頑なになっている人に言葉を尽くして説明しても、何度聞いても信じないものは信じない。イエスの言葉は空しく響くだけでした。それでもイエスは諦めません。なぜなら「『わたしはある』ということを信じないならば、罪のうちに死ぬことになる」人々を見捨てることができないからです。イエスを遣わされた天の父は遠い所でなり行きをただみているのではない。一緒に人の救いのために働いて下さっておられるのだ。イエスは、「わたしは共にいてくださる天の父が喜ばれることを行っている者だ」と話されました(8:29)。あなたにとってイエスは何者でしょうか。イエスこそ滅び行く人々を救うために来られたお方、天の父のみこころを行う者なのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2020-03-20 17:59:29 (10 ヒット)
メッセージ

「みこころを行うために来た」ヨハネ6章22〜40節
神の「みこころ」について学び続けています。先週の説教では新約聖書で「みこころ」と訳される言葉はいくつかあって、それぞれに【神の救済計画、神のご意思、神の望み、神に喜ばれること 】などの意味があることを学びました。読みなれた聖書箇所であっても、「みこころ」に関する知識が深まってから再読すると、これまでと違う印象を持たれるのではないでしょうか?よく権威主義的な牧師や教会、カルト組織では「それは御心ではない」「上の者に従うことが御心だ」等、恣意的に用います。「みこころ」は大切な言葉です。私たちがどう理解し用いるのか、知れば知るほど軽々しく口にするべきではないことは分かります。今回の聖書箇所に頻出の「みこころ」のギリシャ語はセレーマ〈神のご意思〉です。イエスは「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもとどまって永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と言われました。その発言の背景には五千人以上の人への給食の奇蹟があります。人々は自分たちの寝食を満たしてくれる政治的メシヤを期待してイエスの元に押しかけたのです。イエスの真の目的に無理解なまま、真理に関する飢え渇きよりも、腹を満たしてもらうために従っている者も大勢いました。そこで彼らが「神の業を行うためには何をしたらよいでしょうか」とたずねると、「神が遣わされた方を信じること」それが神に喜ばれることだと答えられました。「私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることだ」父なる神のご意思を行うために御子は来られました、一人も失うことなく救い、永遠のいのちを得させるため、それが「私をお遣わしになった方の御心」なのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2020-03-14 22:37:24 (17 ヒット)
メッセージ

「私のこころだ。きよくなれ」マタイ8章1〜4節
新約聖書でみこころ、と訳されるギリシャ語はいくつかありますが、それらは<神に気に入られる、喜ばれる>、<神の救済意志、計画>、<神の意志>、<御心、神の望み>などの意味を表しています。重い皮膚病を患っている人が、イエスに「みこころでしたら、きよめていただけますか」と聞くと、「そうしてあげよう。」「私の意志(望み)(こころ)だ。きよくなれ」と答えられました。当時、ハンセン病や水虫、乾癬など重い皮膚病だけでなく、壁についたカビなど律法の“規定の病”になると、【共同体から隔離される】という措置がとられました。今の保健衛生的な概念からすると、感染の拡大を防ぐ目的とも受け取れます。しかし元々の意図から外れ、隔離されること自体が差別の対象となり、いつしかその病をわずらうことで人々からつまはじきにされ、蔑みを受けるようになってしまったのです。病の痛みや苦しみは人々に理解されず、罪けがれの自責の苦しみまで負わされていたのです。そのような病人が、「主よ、あなたが望まれれば、私はいやされるのでしょうか」彼は、イエスが行使される神の権威に期待し、すがりつきました。“汚れたものに触れれば、その人も汚れる”と規定される中、イエスは彼に触ることで、一切の汚れをきよめる権威者であることを示されました。神のご計画は、既に定められたこと(聖定)は人の意志いかんを問わず、遂行されます。しかし、私たちにゆだねられている部分もあります。それが「信じる者は救われる(信じないと、赦しを受けられない)」ということです。神の望みは、全ての人々が救われることです。神もまた私たちに期待し、願われているのです。神の御心を知り、それに応えてまいりましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2020-03-07 15:13:37 (26 ヒット)
メッセージ

『求めなさい』 聖書箇所 マタイによる福音書7章7〜12節
  説教者 東 裕雅 師 (アッセンブリー伏見キリスト教会)

●日本人は仏教的な考え方がしみついています。ある方は「私はクリスチャンになったのに、いまだに煩悩から解放されていない」とおっしゃいました。出家された方からは「牧師になるには、さぞ修行を積まれたのでしょうね」と言われますが、クリスチャンには特別な修行など必要ありません。罪人であるけれど、救われています。仏教の価値観では、キリスト教ははかれません。イエス様は「求めなさい」と言われましたが、「〜がしたい、〜がほしい」などの意欲がなければ求めることはできません。やる気のない子どもに勉強を教えることは大変です。「〜したい、〜になりたい」気持ちがない子を動かすのは至難の業です。ペテロは欲のかたまりのように見えますが、弟子達の中ではペテロが一番やる気があったのでイエス様は用いられたのです。やる気の根幹にあるのが欲だとするなら、それをイエス様が最初に引き出されるために「求めなさい」とおっしゃったのです。クリスチャンはあれもしたい、これもしたいとどんどんチャレンジしていく中で成長していくと思うのです。

●「その子が魚を求めるのに、魚の代わりにへびを与えるだろうか」(ルカ11:11)
自分の子どもが求めた時に、害のある物を与える親がいるだろうか?しかし“神様は本当にいいお方、私のことを愛してくださっている”という確信がないと、「きっといつか神様は罰を与えられるのではないか、私が罪人であると思い知らせようとされるのでは」と不安がぬぐえない人がいる。神様が怖い方だと恐れていたら、自分なんかが求めても素直に与えてもらえると思えない。神様は求めた以上の良い物を与えて下さる方、全面的にまかせても良いお方だと信頼していないと、信仰がぶれて「信じるだけでは救われないんじゃないか?」と、神との関係がおかしくなってしまう。うまくいかなかったと思うことの積み重ねの人生で、時にはつらい目にあったとしても、神様は最期に必ず天国へ連れて行ってくださる、逆転ホームランの人生を約束してくださるのです。人生でどんなにひどい目にあったとしても、神様はいっぱい祝福を与えて待っていてくださるのです。必ず主は、私たちの願う以上に良いものをくださるのだ、と信じて信じても、毎日の生活はつらいんです。それでも、この先必ずいいことがあると信じ続けて生きているんです。「苦しみにあったことは私には幸いでした、それは主のおきてを学ぶことができました」もし、ひどい目にあわなかったら、しんどい目にあわなければ私たちは神様を知ることはなかった。でもその苦しみと痛みを受け止めて何とかしなきゃと思った時に、救いがあることを知ったではありませんか。そして、ああこんなお方がいるんだと知り、神の愛と恵みに照らされて生かされて私は今ここにいる、これほどの恵みはないんです。
主はよい牧者です。時にはむちや杖で打たれることもあるが、それは子どもが道を誤った時であり、崖から落ちたりしないために、子どもの幸せを願って叱責をするのです。子どもはその時には気づかずに逆らうこともあるが、親に感謝するようになるのです。

●ソロモンの願いは神様の御心にかなった。(列王記) “正しい訴えを聞き分ける判断力”それは王として、神のしもべとして一番必要なものでした。「神の国と神の義をまず第一に求めなさい」神の義が成し遂げられる国を実現するために、ソロモンが神に求めたものは百点満点の答えでした。だから神様は喜んで「あなたの願わなかったものも与えよう」と、知恵と巨万の富と名声も神はソロモンに与えられたのです。
皆さんの立場で、御心にかなう「神の義」とは何ですか?それを私たちが求めるならば、神様はそれを与えてくださるのです。長寿、財産、敵の命、そういったものは御利益宗教でも求められるものですが、ソロモンの答えが神様を感動させたのはそれが「神の義」であったからです。皆さんが何を願うか、何を求めるかで、皆さんの人生は変わっていくのです。

●マルコ福音書10:46〜目の見えないバルティマイをいやす
目の見えない人を前に「私に何をしてほしいのですか」とイエス様は聞かれたことに、私たちは違和感をおぼえるが、「その人の願いは、目が見えるようにしてほしいに決まっている」というのが思い込みかもしれない。その人はこうして欲しいだろうな、とおせっかいから推測して勝手にやってあげることもあるけれど、「本当にその人が欲しい物が何なのか」本人に聞いてみないと分からない。何が欲しいのか、何をしてもらいたいのか、自分でも「これが足りない、これが出来ない」ことを認めないと、求めることができない。自分に足りないものを恥とせず、自分を正しく理解していないと、自分に欠けているものが分からない、それを素直に「ください」と求められるのは恵みであり、祝福であるのです。
バルティマイは自分で「目が見えるようにしてほしい」と言いましたが、信者の中には「かわりに祈っといて」と人に頼む人もいます。でも社会でも自分の要求、願いを通したいと思ったら自ら出て行って声を上げないといけない、揶揄されたりネットでたたかれたりしながらも、欲しいものを得るためにはリスクを伴わないと手に入れられないのです。
日本人は「あきらめ」「諦観」が美徳とされることもあります。もし苦しくて大変ならあきらめたらいい、と助言されることもあります。私たちが人生の肝心なところで色々な人にたずねても、たいがい「あきらめたらいい」と言われがちです。聖書の教えでは「あきらめなさい」とは言いません。しかしバルティマイは大声をあげて、あきらめず叫び続けました。
私たちはもう今の状態で満足ですか?淡路教会は立派な会堂もあるし、もう何も求めなくてもいいでしょうか?この町に福音が伝えられ、この淡路の地が神様に喜ばれる地になってほしい、祝福され、救われる魂が起こってほしいと願ったのは上野先生だけではないのです。以前、私がここに来た時は柴田先生から「会堂建築をしたいが何をどうしたらいいか分からないから、メッセージしに来て」と言われ、ここに来て一年か一年半経った後、会堂が建ってしまった。皆さんはそんなすごい神の業が起こったことを知っている証人なのです。神様は淡路の教会を使って、私たちを使ってもっともっとやりたいことがあるのです。でも神様の業がなされるのは、皆さんが動かないとできないのです。皆さんが神様の手であり足であるのです。神様は「私と同じ重荷を背負い、私と同じ喜びを味わってほしい」と願ったから、神様が必要としていらっしゃるから、皆さんを今、淡路に集めていらっしゃるのです。


(1) 2 3 4 ... 85 »
ID : Pass :