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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2024-05-24 20:03:21 (1 ヒット)
メッセージ

「いのちの御霊の法則」ローマ書8:1〜6

信仰を組織の利益のために悪用し、金銭や労働力などを搾取しようとする人々(カルト、新興宗教など)は、キリストの十字架による贖いが完全であることを認めません。既にキリストが罪を完全に贖われた、負債はもうない、十字架により全てが完了した、それを肯定すると都合が悪いのです。信仰+αが必要だ、善行や努力をもっとしなさい、と。献金や献身の行為を否定するというわけではありません。罪のゆるし(救い)の為にそれらの行為が必要だという考え方が間違っているのです。さらにこの聖書箇所では驚くべき宣言がなされています。「キリスト・イエスにある者は、罪に定められることはありません」では救われた者は、もう罪に責められることはない、裁かれないから、罪と過ちをくり返してもいいのでしょうか。いえ、意図的に罪を犯すことは決してゆるされません。「神の聖霊を悲しませてはなりません」(エペソ5:30)聖霊は救われた私たちにいのちの道を示され、イエスが語られた教えを思い起こさせ、真理へ導かれる方です。人格を持った神、聖霊さまとの交わりによって罪を犯すことから守られるのです。ダビデは神の祝福を受け取りながらも罪を犯しました。神から罪を示された時、ダビデは神に向かって祈りました「神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしの内に新しく確かな霊を授けて下さい。あなたの前からわたしを退けず、聖なる霊をわたしから取り去らないで下さい。(詩篇51:10〜)」ダビデは救いの確かさと喜びを取り戻し、神に不義をぬぐい去り、聖霊によって支えて下さいと悔い改めました。この謙虚さがダビデを「信仰の人」と称するゆえんです。 


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2024-05-24 20:00:28 (1 ヒット)
メッセージ

「罪の法則、恵みの支配」ローマ7:7〜25

聖書の真理を知れば知るほど、理解が深まれば深まるほど、恵まれるのはなぜでしょうか。福音(罪の赦し、永遠のいのち)は信仰者の動力(エンジン・エネルギー)になるからです。救われた喜びが、信じる者を突き動かす力となるのです。しかし、信仰と行為(律法)は車の両輪です。どちらが欠けてもバランスが崩れて真っすぐ走れません。愛の配慮からくる行為であっても律法(神の教え)に基づいていなければ、自分の愛のなさに打ちのめされることになるでしょう。ここに信仰者の苦悩があります。古い自我が律法に裁かれ、罪を思い知らされるのです。聖書は、残念ながら律法を行うだけでは平安は得られないと教えます。律法の詳細を知らなくても、良心に従い自分に正直に生きれば後悔はないのではないかと言う人もいますが、良心は時代や環境、国や文化によって異なるものです。良心は普遍的で不変な基準になりません。聖書の真理は普遍的(全てに共通)で不変(変わることがない)なものです。罪と律法がセットで説明されると、律法があるから人間は不自由で罪人にされてしまうのではないか、と律法が悪いもののようにとらえる人もいます。しかし法が無いと人間は何が罪か分からないように、律法は人間に罪を自覚させるために神がお与えになった(幸いを生きるため)のです。しかし、罪を自覚することで、自分を責める。私はみじめな人間ですとパウロは告白します。善い事を行おうと思っても出来ず、罪の法則にとらわれて肉体を忌まわしく思っています。しかし救いはイエス・キリストにありました。御霊の法則によって解放されたのだと宣言しています。 


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2024-05-02 18:02:41 (372 ヒット)
メッセージ

「神の賜物は永遠のいのち」ローマ6:15〜23

聖書を読んだことのない人たちには、聖書は偉人や聖人といった自分とは遠い存在の、異国の立派な人たちによる素晴らしい教訓が書かれているのだろうと想像します。しかし、聖書に親しんでみると、登場人物たちが活き活きと躍動し始め、身近に感じます。創世記は罪の起源が書かれ、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフといった信仰の祖たちの家族・兄弟間の問題、出エジプト記から士師記、サムエル記に登場する魅力的な人物による罪の物語‥それらは現代に生きる私たちが抱える問題と変わりありません。文明は発達し、文化が成熟しても人間の本質は何も変わっていないからです。イエスの周りに集まって来るのは、ユダヤ人の共同体から罪人と見なされる人でした。そんな罪人と関わるなんて、いかがわしい…あの男も罪人だと揶揄されます。しかしイエスは一向に気にしません。むしろ「私は罪人を救う為に来たのだ」と言います。ここに福音の本質、イエスの目的があるのです。不信心な者でもイエス・キリストを信じる者には例外なく神は義としてくださいます。アブラハムは信仰の偉人ですが、失敗も多い人でした。なにゆえに神は彼を義とされたのか。それは信仰によるのです。人として立派でなくても信仰により義とされます。聖書が教えるのは死に向かう罪の道と、いのちに至る義の道です。二者択一で、どちらかしかないのです。たとえば自分を信じて誰の奴隷にもならないというような「三つ目の道」はないのです。いのちに至るためには人の努力や修行、才能によってどうこう出来るものではありません。罪が支払う報酬は死でした。しかし神が下さる賜物は永遠のいのちです。 


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2024-04-26 17:34:06 (357 ヒット)
メッセージ

「患難と希望」ローマ5章3〜5節

患難(苦難)を喜ぶことができるのでしょうか。天災にあっても神を信じていれば一人だけ守られる、というはありません。「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである」(マタイ5:45)苦しみや痛みは誰もが避けたいものです。神の平和(シャローム)とは、もともと争いや不幸が無い事を表すだけではなく、満ち満ちた状態という意味があります。私たちは状況や環境に流されがちですが、大変な時こそ変わらないお方から平安をいただくべきです。イエスは十字架にかかる前「しもべには大切な事は教えないが、あなたがたは私の友(大切な人)だから全部話しました」と言われました。神の御子が身代わりの犠牲となって下さるほど、私は神に大切にされ愛されているのです。患難は忍耐を生みだします。神の忍耐には目的が明確です「わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい」(競撻謄3:15)。私たちが手に負えない試練につぶされるのを神は望まれているわけではありません。「あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」(汽灰螢鵐10:13)忍耐は練達(品性)を生み出し、練達は希望を生み出す。希望を持って生きるためには、キリスト者として生きる目的を明確にすることです。三つの愛に生きる(神を愛する、自分を愛し、同じように隣人を愛する)ためには、環境や状況に左右されず自分の意志で決断し、結果は自分の責任として引き受けていく生き方、それを私たちは主体的に選ぶ自由が与えられています。)自分の力量だけでは行き詰まることもあります。でも私たちに賜っている聖霊が共におられるから、希望は失望に終わることはありません。 


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2024-04-20 09:10:39 (217 ヒット)
メッセージ

「神の栄光にあずかる希望」ローマ5章1〜2節

「わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。わたしたちは更に彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる」「神の栄光」とは神の素晴らしさ、神の奇蹟を言い表しています。数々の奇蹟の内、神が人のためになして下さった大きな御業は3つ、【―住架の贖い=罪の赦し、復活=永遠のいのち、聖霊の注ぎ=信仰の動力、信仰による勇気】があげられます。では神の栄光をあずかることによって得られるものは何でしょうか?【〆畧佞らの解放(罪と死からの解放)、⊃世箸諒刃臓△海海蹐諒唇臓平世箸隆愀言の回復)】そして神の栄光にあずかる「希望」とは何でしょうか。【/世箸慮鬚錣蝓П扮鸚=とこしえに変わらない(いつでも、どこでも‥)、普遍性=時間・場所にとらわれない(全てに共通)。⊃靴靴いい里舛鮴犬る:イエス・キリストに似た者と変えられる】 世界を見ても経済は不安定で、戦争は終わらず、地震や災害や病気の脅威がつきまといます。そんな中でも人の善意は信じられると思いきや、混乱に乗じて弱みにつけこみ、むさぼり奪い尽くそうとするたちのわるい人間もいます。嫌なニュースばかり耳にすると、自分はこの先どうなるのか、今の生活はこのままでいけるのか、教会の将来はどうなるのか、日本のこの国は安全なのか。考え出すと気が滅入りそうなことばかり、生きようとする力が湧いてこない状況ですが、だからこそ神が起死回生の希望なのです。福音を聞き神の栄光にあずかる希望をいただき、今年も歩んでまいりましょう。 


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