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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2023-03-18 11:34:14 (27 ヒット)
メッセージ

 「御国をつがせる力」使徒行伝20:32


 人生における自分の行程を走り終えたと悟った時、大切な人へ語るためどのような言葉を用意できるでしょうか。パウロはエペソ教会の指導者たちを呼び寄せ、地上における最後の対面になるかもしれないところで、遺言ともいえるメッセージをしました。新約聖書にたびたび出て来るエペソ教会は、伝道の拠点にもなり、その起源と成長の過程が全ての教会のモデルになる大切な教会です。パウロ自身の未来に関して、聖霊が教えてくれるのは投獄と患難でした。最後の時はいつになるか分からないけれども、自分に期待された働きは十分に出来た、福音を告げる者の責任(参考:エゼキエル33:6〜9)を果たすことができるなら、この命は惜しくない。今わたしは、主とその恵みの御ことばとに、あなたがたをゆだねます、と語りました。御ことばには、,△覆燭たの徳をたて(建徳する:人格的、霊的な育成)、∪司未気譴燭垢戮討凌諭垢閥Δ法峺羚颪鬚弔せる力」がある、と。神の御心は人が「悔い改めて生きること」(参考エゼキエル18:32)そして、額に汗して働いて弱い者を助けることを訴え、また受けるよりも与えることの幸い(使徒20:35)をパウロ自身の生涯を模範として示しました。主イエスの言葉を記憶し、与えること、愛すること、語る事の幸いを知るのが信仰生活であると。御言葉は人を救い、命を与え、神の御国を継がせる力です。この御言葉から学び、養われ、主イエスに似た者として整えられるのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2023-03-11 08:10:16 (40 ヒット)
メッセージ

 「喜びのために」ローマ書15:1〜6

「自分だけを喜ばせることをしてはならない」「キリストさえご自分を喜ばせることはなさらなかった」とあります。自分の充足のための喜びではなく、父なる神が下さった祝福と恵みに感謝の心をもって喜ぶことです。他者の喜びのためにどのような態度でどのように振る舞うべきでしょうか。主イエスの御教えに「互いに愛し合いなさい」とあります。聖書で語られる神の愛は犠牲の愛です。しかし相手の思うがままに与えていくというのではなく、その人の徳を高め、その益を図って彼らを喜ばすべきであると述べられています。それを踏まえたうえで今日の箇所に3つのヒントが教えられています。‘舛鮃發瓩襦雰徳する 別訳=霊的(人格)な成長のためになっているのか)益を図る(心身と霊性に有益である)4遒咾ある(そこに喜びはあるのか) 銑の行いを別の表現で言うと、他者の人生に貢献するということです。また献身的に他者と関わることを意識すると、自分の足りなさに気づき、難しさを感じます。しかし聖書で書かれていることは読者の至らなさを叱責し、なじるためではなく、/じる者を教え導くため、御言葉でもって忍耐と励ましを教えるため、K召漾粉望)を抱いて歩み続けるため、です。多くの気づきは神の愛の深さ、主イエスの恵み豊かさを知ることに繋がります。他人の価値観に調子を合わせるのではなく、人の歓心を買うために努めるのではなく(ガラテヤ1:10)、神の御心と同じ思いになるように、キリストから学びながら、信じる者たちの心が一つになるようにと励まされているのです。私の喜びが他者への貢献になり、それが神の働きへの貢献へとなるのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2023-03-11 08:06:43 (24 ヒット)
メッセージ

 「わたしは新しい事をなす」イザ43:14〜21

「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている」は、しばしば集会などのキャッチフレーズとして用いられています。あるいは信仰生活における個人的な主の約束(預言)として用いられることもあります。「新しい事」とは「荒野に水をわき出させ、砂漠に川を流す」という、常識では考えられない事です。出エジプトの時、モーセが率いる神の民は紅海の水の中にできた道を通り抜けることができました。荒野から約束の地に入る時にも、ヨシュアが率いる神の民はヨルダン川の中にできた道を渡ることができました。主は歴史の舞台の中で驚くべきすばらしい御業を現わされました。しかし、そのような過去の出来事を「思い出すな」「考えるな」と命じます。そして、以前のことをはるかに越える「わたしがする新しい事」を「知る・悟る」ように諭しているのです。その時、野の獣、ジャッカルやだちょうも神をあがめる。足のなえた者は鹿のように跳びはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。「わたしの栄誉を宣べ伝えるため」主は御業をなされるのです。神の国において水は、「神の言葉」「いのち」「真理」「喜び」「主の霊」とも関係するきわめて重要な語彙です。水こそ全ての生き物を(人も動物も植物も)生かすいのちの源だからです。やがて訪れる千年王国では「渇き」がありません。なぜなら生ける「水」が豊かにあるからです。(黙示録22:1)。「いのちの水の川」とは聖霊の象徴とも言えます。その「水」を飲むことのできる人は幸いです。それゆえ「渇いている者はみな、水を求めて出て来い」(イザヤ55:1)と呼びかけているのです。「わたしを信じる者は、聖書が言っている通りに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ7:38)と言われるこの祝福は、旧約で既に繰り返し語られていたことだったのです。 


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2023-03-03 11:53:59 (37 ヒット)
メッセージ

 「わたしはあなたを愛するゆえに」イザヤ書43:1〜7

『あなたを造られた主は今こう言われる。恐れるな、わたしはあなたをあがなった。‥』「あがなう」とはゞ發鯤Г辰毒磴ぬ瓩広奴隷身分からの解放7哉海慮彩函△覆匹琉嫐があります。 銑のいずれの意味も含めてあがなわれ救われたのだ、と理解すると恵みが増し加わるでしょう。人は罪と死の奴隷でしたが、キリストの十字架の贖いによって罪の負い目や死からも解放され、「神のもの」となったのです。自由となった身で考え、判断し、決断するのです。家庭の問題、仕事、人間関係など個人的な悩みはもちろん、社会的なもの(戦争、経済格差、食糧危機、エネルギー問題)など単純に解決が示されるものではないものも多くあります。人は愚かで迷いやすいものですから幾つも選択肢があれば間違えることもあるでしょう。先のことを考えると不安がもたげますが、あなたは1人ではない「わたしはあなたと共にいる」(4325)神は遠くから傍観するのではなく、水の中や火の中を通り過ぎる時も共に歩んで守って下さるお方です。主は個別的に具体的に命令されることは稀で、多くは個人の判断に委ねられます。各々が問題を乗り越えて行く過程で、多くの気づきを得ながら成長して行くのです。解決に至らない問題も向き合って行く中で、その十字架を背負い歩み続ける強さが与えられるのです。「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの」主の目から私たちは何者にも代えがたい愛する存在だと言われています。それゆえ神の子キリストが代わりに犠牲となり、私たちを祝福してくださっているのです。 


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2023-02-24 11:44:52 (25 ヒット)
メッセージ

 「主のしもべ」イザヤ42:1〜9

聖書でたびたび言われる「主のしもべ」は〕存声圈↓▲ぅ好薀┘襦覆量院法↓キリストを指しています。このイザヤの箇所で神様が言われる主のしもべは「父なる神が支持し、選び、主ご自身の喜びであり、神の霊を与えた」とされます。その彼は【傷ついた葦を折ることなく】【ほのぐらい灯心を消すことなく】細心の注意をはらって折れ曲がった真理の道を真っすぐに立たせ、御心から離れてしまったイスラエルの信仰を回復させる働きをし、混迷し暗闇にある人々の足のともしび、道の光となると預言しているのです。ここで思い出されるのがマタイの福音書121021節、パリサイ人との安息日論争の最中でのいやしの奇蹟です。安息日には労働をしてはならない、という律法を本来の神の御心とは違った形で厳守するパリサイ人たちに対し「安息日に良いことをするのは、正しいことである」と宣言し片手のなえた人をいやされました。キリスト教を知らない人からは、イエスは旧約(律法)を否定して新しい宗教を打ち立てたように思われがちですが、イエスは「わたしは(律法や預言者を)廃するためではなく、成就するために来たのである」(マタイ517)と明言しています。イザヤ書で預言されている「主のしもべ」の使命である【真実をもって道を示す】はイエス自身が「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ1334)と言われ、寛容と勇気をもって【衰えず


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