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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-03-21 05:55:59 (5 ヒット)
メッセージ

「パウロの回心」使徒9:1〜22
弟子たちが天国で誰が一番えらいのかという問いに対し、イエスは「心を入れ替えて幼な子のようにならなければ天国に入ることは出来ない」と言われました。今週は、「悔い改め」物事の見方や価値観を変え、生き方の方向性を変えた人物、サウロの話です。後にパウロと名乗るサウロは、イエス・キリストを信じる人々を熱心に迫害する者でした。使徒の中で、十字架前のイエスと会っていないのはパウロだけです。しかし彼は復活・昇天後のイエスとの出会いにより、劇的に人生を方向転換したのです。サウロはローマ市民である父を持つ、学問都市タルソ出身のユダヤ人です。エルサレムへ留学し、穏健な思想であるヒレル派の大学者ガブリエルのもとで学び、神に従い律法に生きるユダヤ神学の土壌を培います。しかしイエスとの出会いにより、人が神の前で義とされるのはイエス・キリストを信じる信仰による、これのみであり、律法を行うことによらない、と考えを改めます。パウロが説く福音の中心点は十字架です。今日、十字架はキリスト教の宗教的シンボルとして一般に認知され、アクセサリーとしても多用されていますが、もともと十字架はいかに長く罪びとにひどい苦しみを与えて殺すかを考えて作られたもので、絞首台や電気椅子やギロチンのように人々から忌み嫌われたものでした。そのむごたらしい死刑道具にまつわるイメージが、神の御子の象徴のように変えられたように、パウロも恐れられ嫌われた迫害者から一転、誰よりも熱心にキリストを宣べ伝える者となりました。しかしその「悔い改め」はすぐに人々に歓迎され、順調に伝道活動ができたわけではありません。パウロ個人は回心後、イエス・キリストを伝えていましたがバルナバに見いだされ、この道の働き人として同労者や同心の人々に受け入れられるには10年ほどの歳月を要しました【使徒11:25】。人生の方向転換をしてからしばらくは神と向き合う時間が必要でした。神の歩みに合わせていく中で自分も人も変えられて行くのです。神に整えられたパウロがアンテオケ教会の伝道チームに入ることにより教会の働きは拡大し前進していくのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-03-09 08:54:35 (49 ヒット)
メッセージ

「御国に入るために」マタイ18:1〜14
天国では誰が一番えらいのか、立派な者として称賛されるのか、という弟子たちの問いに対し、イエスは子どもを連れてこさせて言われました「心を入れ替えて幼な子のようにならなければ、天国に入ることは出来ないであろう」と。「いれかえて」という訳は他に「悔い改めて」「向きを変えて」などがあります。考え違いをしている弟子たちに対しイエスは心の向きをかえるように教えられました。考え方、物事の視点の方向転換です。最後の晩餐の時まで、弟子の中で誰が一番偉いか競い合っていたようですから、彼らが最も関心を払う問いだったのかもしれません。「幼子のように」というと、幼子が親を信じるように純真無垢にただひたすら神様にお頼りする、という意味もあるでしょうが、当時「幼子」は共同体の中で大人として数に入れられず、発言権、決定権をもたない無資格者として軽んじられた存在だったのです。イエスは「自分を低くする者が、天国で一番偉いのである」と言われました。神の支配される御国においてどの部分の能力を高め、徳を積み上げ、犠牲を払うことが評価につながり認められるのかに関心を持っていた弟子たちからすれば、発想が全く異なります。能力や実績、血統や門地を誇り、自分にはその権利があると主張する者ではなく、自分には天国に入る資格がないと気づいた謙遜な者を「わたしの名のゆえに」イエスへの信仰ゆえに天国へ招くというのです。むしろ自分の人生観や信仰観によって人を裁き、心ない言葉でその人の信仰生涯のつまずきの石となる者に対しイエスは怒りをあらわにします。人から見下される小さな者を天の父は憐れんで、罪の滅びから救うため御子イエスをお遣わしになられたのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-03-09 08:52:18 (9 ヒット)
メッセージ

「御国の力をもってくるまで」マタイ16:21〜28
イエスの弟子たちが「あなたは生ける神の子キリストです」と告白することが出来ても、自分たちの思いや願い、計画をかなえるためだけにイエスに期待するなら、結果的にはキリストの道を妨害するサタンの手伝いをすることになります。弟子たちからすればイエスの受難予告は受け入れがたいものでした。「神の子」として祝福され、神に用いられる者が殺される。しかも当代の宗教指導者に断罪され、群衆に偽キリストとあざけられ、最大の侮辱と虐待を受けて殺される。しかし三日目によみがえる。これが神のご計画である。このような話を弟子たちはまともに聞いていられません。先生はなぜ殺されるのか、どうやってよみがえるのか?死ぬなんて言わないで、イスラエルの解放のために立ち上がってください。これが本音だったのではないでしょうか。そのような弟子たちにイエスは『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。』 と話されました。自分の培ってきた主義主張を貫こうとするのではなく、神の御心を求めよ。「人の子」はやがて御使いたちと共に審判者として地に臨む時がくるが、【十字架による贖いのための死】は避けて通れない。恥と死の暗闇を通らなければならない、それが分かった上でイエスについていく覚悟はあるのかと問い、古い自分への執着を捨ててイエスに従いなさいと命じています。私たちも信仰の生涯の中で暗闇の谷を通らなければならない時があるでしょう。試練の時に、こうなってほしいという私の願い通りではなく、主に解決をお委ねできるでしょうか。私のために犠牲となられた主に信頼し、新しいいのちによって私を造り変えて下さいと祈りましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-02-26 11:11:47 (17 ヒット)
メッセージ

2/10礼拝説教「天の御国のたとえ」マタイ13:44〜52
天の御国の価値についてイエスは、見つけた宝のために財産を始末してでも手に入れようとする人のたとえ話をします。本当に価値のあるものを見出すと、その得難くかけ替えのないものを自分のものにするために、今あるもの全てを手放しても惜しくないと思うのです。私たちは天の御国の価値の大きさを知っているでしょうか。私たちの人生において大切な選択、決断をしなければならない時、価値判断の基準になるのが信仰(聖書の御教え)です。聖書の御言葉にこそ探し求めていた真理があると気づいたならば、その学びに時間と労力を割くことを惜しまないものです。天の御国について学んだ学者とは(13:52)イエスの弟子たちのことです。弟子たちはユダヤ教の専門機関での学びを積んでなくても、御国の奥義を知る者たちです。天の御国の奥義を知る者は、1.新しいものと古いものを取り出します。必要に応じて出し入れする、すなわち真理の良き管理者です。2.倉から取り出す一家の主人。すなわち真理の管理責任者として、相手に必要な内容と方法でもって真理を提供できるということでしょうか。自分はそのような立場の者であると踏まえて信仰生活を歩むことです。普段の何気ない言葉や行動の端々にその人の信仰観や信念は出てくるものです。自分は正しいと思っている律法学者、祭司、パリサイ派などの反対する人たちは、後に泣き叫び歯がみする人たちですが、私たちも自分を御言葉に照らし、本当に価値あるものを見失わないようにしましょう。キリストの愛に根ざして、天の御国の価値を知る者、御国の奥義を得た者として歩んでいこうではありませんか。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-02-21 10:56:50 (14 ヒット)
メッセージ

2/3淡路聖会 講師:村上密師   礼拝説教「わたしの力は弱さのうちに」 競灰12章9節
 私は長年、異端やカルトに入った家族のことで、全国から相談にやって来る方々と問題に取り組んできました。子どもを何とか救いたい、脱会させたい、というご両親の悲痛な叫びが私のエネルギー源となったのです。中にはどんなに話を聞いても分かろうとしない子もいますが、そこでがっかりはしません。むしろその子が福音を聞く機会がたくさん与えられていると喜び、また、何度も会って話をするうちに関係性を築くことができる、とうれしく思うのです。時間をかけ、抵抗した子は親をたくさん悲しませ苦しませますが、神様が救おうとされる者を一時的に頑固にさせたりされるのです。心を開かせるのは神様の業です。頑なで聞く耳を持たないその子自身に目を向けると、とても難しい、もう駄目だと失望してしまいます。しかしこの出会いは神様が引き合わせて下さった、この足りない私を用いて神様が何とかしようとしていらっしゃる、とその子を愛しておられる神様に目を向けると失望しません。発想の仕方を変えましょう。

 もう何十年も娘がカルトに入っている親御さんが、(入信期間が)長くなったからより脱会が困難になったと諦めかけていらっしゃることに対し、「(時間が経てば経つほど)やめる日に向かって近づいている、と考えるのですよ」と言いました。神様が、信じる者を通して働こうとされているのだから、私が信仰を持って関わらなくて誰が信仰を持って関わるのか。そう考えて、大変な難しい問題が起こるたびに、力を与えられています。

 問題が解決するまでどれくらいかかりそうか、と相談者が聞くとき、私は解決までのプロセスが長すぎると失望してしまうのであまり言いません。代わりに、この問題を一緒に解決するために寄り添いながら、時々具体的なアドバイスをして一緒に歩んでいくようにしています。問題を抱えている人にとって、解決が本当に必要なことではないのです。必要なのはアドバイスだけでなく一緒に行動してくれる人、寄り添ってくれる人なのです。解決を求めているけど、色んなことがあった時に耳を傾けてくれる人、助けてくれる人が共にいてくれれば、その問題が解決しなくても生きていこう、やっていこうという気持ちがわいてくるのです。たとえ今の問題が解決したとしても、また新たな問題は起きるものです。その時に気軽に相談できる友、知り合い、牧師がいると支えられるのです。怪我した時や病気の時に、家の薬箱に薬が全くないと不安ですが、薬があるというだけで安心できるように、長い信仰生活の中で悩みや苦しみがある時に、誰か相談できる人が何人かいるというだけで安心材料になるのです。

 困った時のアドバイザーとして牧師がその役割を担いますが、「私の羊を飼いなさい」とイエス様が命じられたのは牧師だけにではなく、教会全体に牧会を委託されたのです。教会(に連なる一人ひとり)が牧会と宣教をし、それをまとめるのが牧師なのです。みんなが牧会に関わっていき、手に負えない時は牧師に委ねればよいのです。お互いに支え合い、一緒に泣いたり笑ったりすることも、大変な状況にある人に声をかけたりすることも牧会の働きです。牧会の中に愛と信頼関係の交流があり、信頼し合う2人もしくは3人の関係性の中に神様がおられ、働かれるわけです。自分ができそうにない相談、悩み事を聞いた時は「この人が語れるように神様が導かれたのだ、私では十分に対応できないけれど足りない私を通して神様が働いて下さい」と祈ればよいのです。自分はできる、と思っている人はつい口も手を出しすぎて、相手が願っていない形に押し付けてしまいがちですが、自分は乏しいと思っている人のほうがほどよい距離を保てるのです。

 健康で元気で仕事もバリバリやっていることが証しになると思いがちですが、私達の弱さ乏しさ(を自覚して関わる時)に神様が働かれる状況が起きるのです。しんどいような相談の中にも、神様の宝が隠されていることがあるのです。大変だな〜ということだけに目を向けるのではなく、大変さの中に隠された神様の恵みは、関わっていく者だけが見つけること・あずかることができるのです。関わった者だけが、神様は真実な方だと知る体験ができるのです。神様がそのように働こうとされていることを心に留め、今年も信仰生活を続けましょう。きっと皆様の信仰生涯の上に、神様の業が起こります。


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