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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-05-10 14:17:10 (703 ヒット)
メッセージ

「イエスの問い」(ヨハネ福音書21:15〜25)
イースターからヨハネの福音書を読み進めてきましたが、イエスの復活の出来事とは神の祝福の約束であり、私達の心に喜びと平安を与えるものだと語ってまいりました。この21章は弟子達の回復の物語と言えます。イエスは「あなたは私を愛するか」とペテロに問いかけました。愛するとは自己実現や自己満足のためではなく自己犠牲や痛みを伴うものであり、それを知った上で全てを引き受ける、それが聖書の愛だと学んでまいりました。「私はあなたを愛します」と伴侶に、家族に、友に、言うことができるでしょうか。またそのような関係性を築いているでしょうか。軽々しく「愛する」と断言できないかもしれません。「(全てを受け入れる自信はないが)愛する努力をしてみます」などの答えがあるかもしれません。ペテロの答えは「私の心はあなたがご存知です」というものでした。自分はイエスの公生涯に付き添いその教えに触れ御業を見、その奇蹟にあずかってもいたのに、イエスの苦しむ姿を見て3度も知らないと否んで逃げ出した、その罪の咎めに心が内向きになっていたペテロ。思考が閉鎖的になると、未来に向けて建設的に物事を考えていくことは困難です。「自分」ばかりを見つめていたペテロに、イエスは「あなたは私を愛するか」という問いによって自分の外側、イエスご自身に目を向けるように、イエスとの関係を思い起こさせられたのです。弱さ、至らなさだらけの人間であっても、神の無条件の愛は全ての人に向けられたものであり、ペテロに対してもずーっと変わらず愛を注ぎ続けられていたのです。そしてペテロに改めて使命をお与えになられました。そして未来に殉教があることを予告されます。人を説得する方法として、目先の利得をちらつかせ、拒んだ場合の害を吹き込んで従わせることもあります。けれどイエスは恐れによってではなくご利益によってではなく、愛の応答として従うかと問われたのです。イエスに従うこととイエスを愛することは深く結び付いています。イエスに従うことは苦難があると明言されています。しかし問題に向き合い、乗り越える勇気が与えられるのです。その問題によって信仰が、人生が豊かにされるのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-04-30 10:55:39 (667 ヒット)
メッセージ

「イエスが立っておられた」(ヨハネ福音書21:1〜14)
復活のイエスが12弟子の前に姿を現された時、弟子達はイエスが本当に救い主なのだと信じ、キリストをあがめました。マリヤの前に現れた時も、トマスの前に現れた時も「イエスが立っておられた」とヨハネの福音書では記されています。いずれも彼らの信仰告白へ導かれる機会としてキリストは顕現されました。しかし弟子達が主の栄光を宣べ伝える器に変わったのはしばらく後の話です。復活の主を見て、神様の御業は素晴らしい、それに引き換えイエスを裏切った自分達の弱さ・汚なさ・至らなさは‥と自身に失望し、元の漁師の暮らしに戻りつつありました。よみがえられたイエスは墓を出られたのに、弟子達は深い罪の咎めに悩み、十字架という出来事の傷跡から立ち直れないでいたのです。そのような弟子達のためにイエスは再び姿を現されました。まるで墓の中に取り残されたように動けないでいる彼らを置き去りにせず、弟子達の歩みに合わせて会いに行かれたのです。「私はあなたがたを遣わす」イエスが彼らに与えた使命と権威には、自分達はふさわしくない、と考えたでしょう。「私は罪深い者です」と言うペテロに、以前イエスは「恐れることはない、あなたは人間をとる漁師になるのだ」とおっしゃいました。イエスを知らないと三度も否んだ、欠けだらけの自分をふがいなく思うペテロに最初の志を思い起こさせ、信じて命を与えられた喜びに立ち返らせようとされました。ペテロの資質や能力によってその働き・責務を果たすのではなく、「聖霊を受け」主がそれを成して下さるのだとおっしゃったのです。またイエスご自身が食事のご用意をされたのは、誰もが「私はこの場にふさわしくない」と咎めを感じていた弟子達に、イエスの方から親しく招かれたのです。食事を共にするというのは、「あなたは友だ、家族だ、大切な人だ」と示し確認する行為です。共に食事をすることで弟子達は、自分はイエスに赦され受け入れられていると安堵し、平安を得たのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-04-24 11:58:57 (633 ヒット)
メッセージ

「復活の主イエス、再び」(ヨハネ福音書20:24〜29)
復活されたイエスが弟子達の所に現れた時、一緒にいなかったトマスはイエスに会うことができませんでした。他の10人の弟子達が感動と興奮を胸にトマスに証しするも、トマスの心には響かず、一緒に喜ぶことはできませんでした。共に主に従ってきた仲間たちの中で自分ひとり除け者にされたような、忘れられたような不遇感から、疑い深く、自分の目で見て実際に手と脇腹の傷を確かめてみなければ信じない、と心を閉ざしました。放蕩息子が家に帰って来た時、兄は家族と共に喜ぶことを拒絶し、不平を言いました。(ルカ15:28〜)自分ひとり大切にされていない、愛されていないと疎外感、不満を感じ、怒りで心を閉ざしてしまいます。このような兄に対して、尊敬され威厳のある父親は「出て」「なぐさめて」います。この父親のように、神様は心を閉ざしている者に対し神の方から近づき、話しかけられるのです。イエスは再び弟子達の所へ姿を現され、トマスにも同様に「安かれ」と言葉をかけられました。それだけでなく、反抗的・挑戦的ともとれるトマスの言葉の背景をしっかり受けとめて「私の手に、脇に指を入れてごらんなさい」「信じない者でなく、信じる者になりなさい」と言われました。主に対し不敬、無礼極まりない発言をしたとしても、一人ひとりに謙遜に仕える態度で関わって下さったのがよみがえられえたイエスでした。頑ななトマスの心を開いたもの、それは主が私の心を知って下さっている、反抗的な自分の存在をも赦し、受け入れて下さることを、誰かを介してではなく自分の体験を通して知ったのです。「私の神、私の主」という信仰告白は、トマスが自分とイエスとの個人的な関わりにおいて復活のキリストを理解し得たから出た言葉です。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-04-24 11:56:11 (640 ヒット)
メッセージ

「平安があなた方にあるように」
(ヨハネ福音書20:19〜23)
イエスの弟子たちはひと所に集まって、誰も入れない様に戸を閉め切っていました。師であるイエスが死刑に処せられたことにより、ローマに弟子であると発覚すると罰せられるのではないか、自分達を取り巻く状況は非常にまずいのではないか、と心は恐れに満たされ、進退を窮していました。密閉された空間でまさに息が詰まるような中、復活の主が現れました。イエスの第一声は「平安(あなたがたに)あれ」また「安かれ」と言われました。聖書において繰り返しは大切なことの強調です。主が言われる平安とは何でしょう。イエスが十字架に付けられる前に弟子たちに語ったのは「わたしは平安をあなたがたに残して行く」「わたしの与える平安は、世の与える平安とは違う」という言葉でした(ヨハネ14:27)。それは罪の赦しからもたらされる平安です。イエスは十字架上で脇を刺された時に血と水が出ました。旧約聖書では一貫して、罪を犯した者は罰が与えられるか、贖いの犠牲をささげ血が流される必要があると説いてます。イエスは人間の罪の赦しのためにいけにえとなられ血が流されたことを語られるのです。また過越しのいけにえの条件に「その骨を折ってはならない」(出エジ12:46)とあり完全な犠牲を求めていますが、イエスは骨を折らずして十字架で死にました。通常、十字架刑は死ぬまで時間がり、死期を早めるために足の骨を折って体重を足で支えられなくして窒息させる方法が取られましたが、イエスはあまりにも短い時間で死なれたので槍を脇に突き刺し死が確認されました。キリストの受難は旧約聖書の様々な箇所に書かれた預言がその通りに成就した出来事でした。完全な贖いと、完全な赦しがキリストの十字架によってなされたのです。イエスが言われた「平安」とは聖書の預言に基づいた神の赦し、真の平安なのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-04-14 15:40:46 (677 ヒット)
メッセージ

「祝福するために」(ヨハネ福音書20:1〜18)
イエスは金曜日に亡くなったため、安息日である土曜に入る前に急きょ遺体を埋葬したので、十分な準備が出来ていませんでした。そのため安息日明けの日曜の朝、遺体を整えようとマグダラのマリヤがお墓へ向かいました。すると墓の入口を塞いでいる石が取り除けられ、イエスの遺体がなくなっていました。通常では考えられない出来事が起こり、あまりの悲しみに心が激しく動揺していたマリヤは、御使いに話しかけられてもそれと気づきません。そんな彼女にイエスは「なぜ泣いているのか、誰を探しているのか」と言われました。主がマリヤの悲しみの心を知らないはずはなく、泣いている理由を尋ねているわけではありません。イエスは過去にナインの町で一人息子が死んだ母親に「もう泣かなくてもよい」と言い、棺に納められている青年を生き返らせる奇蹟を行いました(ルカ7:11〜15)。また会堂司のひとり娘の死に目に間に合わなかった時も、「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ」と言って娘の手を取り、起き上がらせました(ルカ8:49〜56)。これらの2つの生き返りの奇蹟を通して「泣かなくてもよい」と言われたイエス様は、私達の悲しみを知り、涙をぬぐって下さる方です。愛する者の死は、あの時こうしてあげられたら‥という後悔を生じさせ、生きている者の心を責め、嘆きの内にとどまらせてしまうものです。嘆きと悲しみに深く結び付く死を、神は「死を永久に滅ぼし、全ての顔から涙をぬぐう」(イザヤ25:7〜9)のです。死を体験されたイエス様ご自身がおっしゃいます「泣かなくてもよい」。悲しみに沈んだマリヤを喜びに変えた「マリヤよ」というのは十字架以前の親しんだ呼び方、マリヤにとって特別な「先生の声」でした。「私の羊は私の声に聞き従う。私は彼らを知っており、彼らは私について来る。」(ヨハネ10:27.28)真の羊飼いが私達を呼ぶ声が、死の嘆きを乗り越え新しいいのちの道へと進ませて下さるのです。よみがえられた主イエス・キリストこそが、私達を祝福するためにいのちへ導かれるお方です。


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