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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2017-08-29 10:02:54 (676 ヒット)
メッセージ

いのちのパン」ヨハネ6:32〜51
五千人以上の群衆にパンを食べさせた奇蹟の後、多くのユダヤ人達は「この人こそ、世に来るべき預言者(申命記の中でモーセが遣わすと言った)だ」と、イエスについて来ようとしました。しかしその動機は「この人と一緒にいたら食いはぐれぐれない」というものであることを見抜いたイエスは、「朽ちない食物のために働くがよい」「天からのまことのパンを与えるのは、私の父である」「神のパンは天から下ってきて、この世に命を与える」と話されました。「私が命のパンである」というのは、神ご自身を表す『エゴーエイミー(私はあるものだ)』と同じ宣言でした。さらに「私が与えるパンは、世の命のために与える私の肉である」という言葉に弟子達の多くは「これはひどい言葉だ」と去って行きました。残った弟子達もイエスの言葉を全て理解していたわけではありません。私達も救い主のことを全部理解したから洗礼を受けたわけではありません。むしろ大半の人達は聖書のことを十分に知らないまま洗礼を受け、信仰生活を送る中で教えられ、真理を知る喜びを味わっていくのです。理解に先立って「イエスの言葉を信じ」従って行ったのです。イエスは、いのちのパンを食する者は、いつまでも生きると繰り返し語られます。イエスが私達に与えて下さるものは、終わりの日のよみがえりです。十字架から復活されたお方を信じることによって、キリストが再び来られる時、私達も朽ちない復活の体となり、永遠の命を得ることができるのです。「こんな話聞いていられない」と離れて行くのではなく、今日理解できなくても、理解できるその時までこの大切な真理を心に留め、なおこの道にとどまることができますように。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2017-08-26 10:12:46 (742 ヒット)
メッセージ

「永遠の命に至る水」ヨハネ4:1〜26
当時のユダヤ人はサマリヤを異邦人として忌み嫌い、遠回りになってもサマリヤを迂回するのが一般的だったようです。ですからイエスがわざわざサマリヤを通ったことには特別な神のご意思があったということです。後に使徒の時代にもサマリヤにてリバイバルが起こり多くの人々が救われますが、すでにイエス様は福音の種を蒔かれていたのです。大いなる救いの計画の端緒はイエスが「水を飲ませてください」と一人のサマリヤの女性にお願いするところから始まります。女性はイエスとのやり取りの中で自分の心の奥深いところにある真理の飢え渇きに気づかされ、イエスをキリスト(救い主)と信じるのです。ヨハネの福音書3章に登場するニコデモは立派な人でした。イエスを訪問した際、真理についてうまく理解出来ず、聖霊の満たしを受け取ることができませんでした。しかしサマリヤの貧しい、軽んじられていた女性のもとに福音は届けられました。私達は立場や職業などで人を推し量るところがありますが、神様はそういった人間の作った価値観(色眼鏡)で判断せず、隔てなく恵みを与えられるお方です。「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水がわきあがるであろう。」聖書において「水」は神の啓示、神の御言葉、神の御霊を指しています。渇くことがない生けるいのちの水は、私達の内側から尽きることのない喜びを湧き出させる聖霊の働きを指しています。聖霊に満たされた人は問題がなくなるとか、痛みに鈍感になるというわけではありません。しかし、ひた向きに前進していく力を、生ける神により内側から与えられるのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2017-08-19 11:48:45 (662 ヒット)
メッセージ

「遺言」創世記50章
ヨセフは父ヤコブと家族をエジプトに招き、共に暮らすようになります。やがて父ヤコブは死に際し子どもたちを祝福し、先祖の墓に埋葬するように遺言し、地上の生を全うしました。父ヤコブの死に兄達は動揺しました。抑止力となっていた父の存在が無くなることでヨセフは自分達に復讐するのではないかと恐れたのです。再会してから20年近く経っていましたが、自分達がヨセフに対し行った悪の大きさを思えば許されるはずがないと思い込んだのです。兄達は人を介し「父ヤコブが死ぬ前に兄達を許すように言った」と告げます。真偽のほどは確かでありませんが、それを聞いたヨセフは涙を流します。自分の赦しを信じ受け取っていなかった兄達を責めることはなく、ヨセフは「恐れることはありません」と優しく慰め、自分と兄達に関る出来事は神のご計画であったと諭し、その上でこれまで同様イスラエル一族の保証を約束します。ヨセフはキリストのモデルです。ヨセフの「なぜわたしの赦しを信じないのか」これはキリストの嘆きでもあります。罪の赦しを受け取れないと、過去の行いから罪責感に苦しみ、どう裁かれるのかと未来を恐れ、現在に不安を抱き続けて生きることになります。ヨセフは死に臨む際、「自分達はエジプトに寄留しているが、やがて神は約束の地カナンへ導き上る時が来る。その時、自分の棺を携え上るように」と遺言します。ヨセフは体は衰えても信仰はますます豊かにされ、アブラハム、イサク、ヤコブにされた神の祝福を信じ生涯を閉じたのです。私達も、世の終わりまで共にいて下さるというイエス様の約束をにぎり、罪の赦しによる平安の内に、未来の祝福を信じ歩んでまいりましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2017-08-08 13:52:21 (696 ヒット)
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「神はいのちを救うため」創世記44:14~45:15
長い間エジプトにおいて辛酸を舐めたヨセフでしたが、宰相に任命され、7年の豊作とそれに続く7年の飢饉に備えていました。兄達が食料調達のためエジプトへ訪れましたが、過去に兄達に受けた仕打ちを思うとヨセフは葛藤し、平常心ではいられませんでした。人は簡単に加害者を許すことは出来ません。何十年経っていたとしても、恨み、怒り、憎しみ、悲しみを忘れることは出来ません。壊れてしまった人間関係は易々と回復しないのです。被害者が加害者に欲しいものは心からの謝罪です。父と弟の心配をしながらも、兄達を疑いの目でみていたヨセフは偽計を用いてベニヤミンがエジプトに残留するように仕向けます。ベニヤミンの身代わりに自分が奴隷となる、と言って執り成すユダにヨセフは心動かされます。兄達が後悔していることを知り、自己犠牲をとわず末弟を守ろうとする姿に心を解き、自分がヨセフであることを兄達に告白します。そしてヨセフは「神が一族を救う為に、先に私をエジプトへ遣わされたのです」と神のご計画を理解するのです。神の視点で振り返る時、過去に起こった出来事の意味が変わったのです。執り成しと救済史観から見えてくるのはキリストの十字架です。キリストは私達を罪と死の支配から救う為、私達の身代わりに十字架にかけられ、苦しまれ死なれました。しかし死からよみがえられ、贖いの御業を完成されたのです。人々から捨てられた方が、人々のいのちの基となられたのがイエス・キリストです。痛みや苦しみの無い人生はありません。過去と現在を別の視点でもって受け止めようと神に祈るなら、私の人生に神はご計画を現して下さることでしょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2017-08-03 10:26:37 (723 ヒット)
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「神の霊の宿る人」創世記41章9〜49節
兄弟に売られ奴隷に陥れられ、偽りの証言によって牢獄へ入れられ、とりなしを期待するも忘れられる。これだけ見るとヨセフの人生は悲惨です。人を恨まず、憎まず、まっすぐに世を生きていくのは困難なことでしょう。それでもヨセフは彼を取り巻く環境や状況は変化しても信仰は変わることがなく、神の前に誠実に歩んだのです。エジプトの王(パロ)が不思議な夢を見て気になり、エジプト全土の知恵者や呪術師を招集し、その夢を解き明かすように命じましたが誰もできません。その折、信頼を回復し復帰していた給仕長がヨセフのことを思い出し、パロにヨセフを推薦します。ヨセフはパロの夢を解き明かし、7年の豊作の後に来る7年の飢饉に備え監督官を任命し、食料管理する必要を的確に提言しました。「神の霊を宿っているこのような人を、ほかに見つけることができようか。」と、ヨセフは王に次ぐ地位と権威を与えられました。ヨセフ物語はヨセフの成功物語ではなく、神に遣わされ、神と共に歩んだ者のお話です。聖書には神の霊に満たされ、神に遣わされ、神と共に歩んだ人物が幾人も登場しますがその最たるお方がイエス・キリストです。キリストは私たちの身代わりとなり十字架に架けられ殺されましたが、よみがえられました。私たちにいのちの道を備えて下さったのです。このキリストを信じる私たちにも神は御霊なる聖霊を送ってくださいました。信じる私たちも神の霊を宿す者なのです。神と共に歩んだヨセフのように困難や痛みを通らなければならないとしても、神のご計画の内を歩むならば幸いを得るのです。


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