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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2016-03-12 15:22:31 (919 ヒット)
メッセージ

 「神の国に入る人」ルカ16:14〜31
神の国に入る人とはどのような人でしょうか。イエスは金持ちと貧しいラザロのたとえ話をしました。金持ちはその財を用いて贅沢に暮らしてました。一方ラザロは金持ちが捨てたものを腹の足しにしたいと思うほどの惨めな生活をしていました。やがて二人は死に、ラザロは先祖アブラハムのもとへ行き、金持ちは火炎の苦しみの中にいました。金持ちはアブラハムに助けを乞いますが、彼とアブラハムの間には大きな淵があり助けようがありません。そこで彼は自分の家族が同じ苦しみに会わないように、死後の自分の状況を伝えてほしいと願います。アブラハムは彼に言いました「彼らにはモーセと預言者(聖書のことば)とがある」。金持ちは、死んだ者が遣わされたら彼らは悔い改めるかもしれないと懇願しましたが、アブラハムは「モーセと預言者(聖書のことば)に聞き従わないのなら、死人の中から生きかえっても彼らは聞き入れない。」と言いました。このたとえ話では貧しかった者はなぐさめられ、金持ちは死後に苦しみにあう、と生前の財産の多寡が問題なのではありません。この金持ちは残された家族同様、自身も聖書の言葉を知ってはいたが「聞き従わなかった」のです。現在も聖書の教えは公開されていて誰でも読み、聞くことができます。そして救い主はすでに来られ、私たちの身代わりとなって死なれ、よみがえられたという福音も伝えられています。神の国に入る条件は、あなたがどんな人間かではなく、神に遣わされ復活されたイエスを信じるか否かです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2016-03-03 15:12:37 (1019 ヒット)
メッセージ

『実りを待ち続ける』ルカ13:1〜9
実りを待ち続けるとは、悔い改めることを待つという表現です。悔い改めるとは、己を省みて心と体の方向を神に定めて生きるという意味があります。しかし人は罪によって神に対し真っ直ぐ向き合うことが出来ません。目的が定まらず的外れな生き方をしてしまうことがあります。運動場に白線を真っ直ぐ引くコツは、足元ばかりを見るのではなく遠くに目標を定めそこに向かって引くことです。私たちの生涯はどこに目的や目標を置くかによって、迷いやぶれの大きさが違ってくることでしょう。聖書で示される私たちの生涯の目的の一つは神に向かうことです。神を知っていても、思い違いによって正しい福音理解ができないことがあります。不幸な事故に巻き込まれた人達は罪深いことをしたせいなのだ、神の裁きなのだと思う人々に対し、イエスは「悔い改めなければ、みな同じように滅びる」と言われました。そして、ぶどう園のたとえを話されました。実らないいちじくの処分を考えた主人に、園丁が「今年もこのままにして置いてください〜来年は実がなるかもしれません」ととり成します。ここでは滅ぼすに忍びず、実りを待ち続ける神が語られています。滅びに向かう人々が神に向き合うことができるように、イエスは十字架に架かられ罪をとり成して下さったのです。ご自身のいのちを犠牲とされるほど私たちを愛して下さったイエスに感謝をささげましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2016-02-23 14:27:14 (1074 ヒット)
メッセージ

『真の富』ルカ福音書12:13〜21
イエスは群衆に「貪欲に気をつけなさい。節度のない欲求、際限のない所有欲から身を守りなさい」と教えられ、【愚かな金持ち】のたとえ話をされました。
男は豊作で収納しきれない食糧をどうすべきか考え、大きい倉を新しく建設する予定を立てます。そして満足して自分に言い聞かせます「我が魂よ、安心せよ」。未来に対する備えは盤石かのように見えました。しかし、そのような彼に神が語りかけます。「愚か者よ。明日いのちを失えばそれは誰のものになるのか。」神は労働に対する報酬の実を否定されているのではなく、多くの財産、持ち物によって魂の平安を得られるのではないことを教えられています。生涯獲得数十億円と言われた元プロ野球選手が、金銭では寂しい心を満たすことができなかったように。
伝道者の書では「すべては空」だと言います。神を知らなければすべては空しい。あなたに時があるうちに神を知り(信じ)なさいと呼びかけます。ある哲学者は「人の心には神のカタチをした空洞があり、その空洞はただ神だけが満たすことが出来る」と言葉を残しています。魂の深いところでの神と繋がり【いのち】を得ることによって、本当の平安と満たしを得ることが出来るのです。神との関わりを回復するためにイエスは十字架によって贖われ執り成し、私たちにいのちを得させてくださいました。まことに得なければならない富とは、この【いのち】のことなのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2016-02-16 20:11:39 (965 ヒット)
メッセージ

 『隣人』 ルカ福音書10章25〜37節
イエスのもとに律法学者が来て、「永遠の命はどのようにして得られるのか?」と質問しました。イエスは「律法にはどう書いていますか」と問い返し、彼は申命記6章5節とレビ記19章18節を即答します。イエスは「その通り行いなさい」と答えますが、律法学者はさらに「私の隣り人とは誰のことですか」とたずねます。自分は既に同胞に対し親切や正しい行い律法を実践していると自負していたのでしょう。そこでイエスは例え話をされます。 エルサレムからエリコまでの道中、ある人が強盗にあい身ぐるみはぎ取られ、半殺しの状態で投げ出されていました。そこへ祭司、レビ人といった律法を厳守している立場の人達が通りかかりますが、関わり合いたくないとばかりに避けて行きました。しかし次に通ったサマリヤ人は気の毒に思って手当てし、その人を宿屋まで連れて行き、宿代も支払いました。ユダヤ人はサマリヤ人に対して宗教的な偏見と、歴史的な敵対感情を持っていました。しかしこのサマリヤ人は後で報酬を要求しようなどと考えず、見ず知らずの人のために自分が犠牲を払い、その場の介抱だけでなく宿に滞在する期間も支えようとしました。これが『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』で言われる無償の愛なのです。「〜しなければならない」という行為律法で考えると、とても高い倫理基準に「私にはできません」とひるんでしまいます。しかしイエス様は見返りを求めず私達を愛し、犠牲を引き受けて下さった上で「私に従いなさい」と言われました。この方を愛し、主と共に歩むことが永遠の命を生きる道なのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2016-02-04 15:15:53 (990 ヒット)
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 『主が示される道』エレミヤ42〜43章
エルサレムが陥落し第二次バビロン捕囚の際、軟禁状態にあったエレミヤは解放され、バビロンに行くかユダヤに留まるか自由が与えられました。エレミヤはユダヤのミツパに残り、ネブカデネザル王によってユダヤ総督に任ぜられたゲダルヤを助ける道を選びました。しかしあくまでもバビロンに抗う人々もおり、その中でイシマエルはゲダルヤおよびバビロンの役人たちを殺害してしまいます。首謀者イシマエルは逃亡しますが、バビロンの怒りを恐れたユダヤ残党の将校たちはとりあえずミツパから南方へ逃亡します。彼らはこれから先どうすべきか主の御心を知りたがり、エレミヤは彼らの真剣な求めに対し誠実に神の御心を求め祈りました。人々が恐れとあせりで苛立ちながら待った10日の後、エレミヤに臨んだ神の言葉は「エジプトに行ってはならない、バビロンに服せよ」でした。彼らはエレミヤに相談する前からエジプトに逃れようと計画していました。その地で神のご加護があるという言葉を聞きたかったのでしょうが、神の御心は違っていました。神はバビロンに敗れる前から一貫して同じことを伝え続けていましたが、彼らの願いに沿う言葉ではなかったために、エレミヤを偽預言者扱いしました。彼らはエジプトなら安全だろうと逃亡しますが、後にバビロンは神の預言通りエジプトを徹底的に攻め滅ぼしました。結局、神の言葉に従ってバビロンに服していた者だけが生き残ったのです。自分の思いを遂げるために神の力添えを願うのではなく、神の御声に従う勇気が与えられるようにと祈り求めてまいりましょう。


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