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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2016-01-25 20:17:02 (998 ヒット)
メッセージ

『信仰と恐れ』エレミヤ書38章
聖書での表現上、“信仰”の対になるのは“不信仰”ではなく“恐れ”です。エレミヤの時代、国家存亡の危機に際して人は何を信じ、恐れたのでしょうか。エレミヤの預言は民衆の不安をあおり戦意をそぐとして、ゼデキヤ王の側近4人はエレミヤを捕え井戸に投げ込み閉じ込めました。エレミヤは宦官エベデ・メレクの進言により助け出されましたが、監視の庭に軟禁されました。ゼデキヤ王はエレミヤに神の御心をたずねますが、バビロンに降伏せよとの言葉に従うことができませんでした。親エジプト派の側近たちを抑えきれず、状況を変える決断が出来ないまま1年6ヵ月の籠城の末、エルサレムはバビロンに滅ぼされてしまいます。逃亡するも捕えられ、悲惨な末路をたどるゼデキヤ王。彼はいのちを得るか滅ぶか、信仰を働かせて選ぶことが出来たのです。しかし真に恐れなければならない対象を間違え、選択を誤ってしまいました。エルサレムの滅びは神の裁きでしたが、神はただ滅ぼすのではなく従う者に逃れの道もご用意されていたのです。憐みのゆえにいのち得よとおっしゃってくださる神に従い、困難な状況でも人に流されず決断できる勇気をいただきながら信仰の道を歩みたものです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2016-01-20 19:57:43 (987 ヒット)
メッセージ

『預言のことば』エレミヤ書36章
エレミヤ書36章は預言がどのように記録されたか知ることができる資料でもあります。エレミヤが預言した言葉をバルクが書き記し、人々に読み聞かせていました。民衆に初めてエレミヤの預言が伝えられた時、祭司や首長達は怒り、王は預言者達の逮捕命令を下しました。26章からは同時期に預言していたウリヤはエジプトまで逃れたことが分かります。2回目にバルクがエレミヤの預言を読み聞かせていた時、群衆の中にいたシャファンの孫ミカヤは耳にした言葉に驚き、会議中の首長達に報告しました。イスラエルに連れ戻され罪人として殺されたウリヤの例もあるため、首長達はエレミヤとバルクには身を隠すように助言します。その上で王に預言を告げますが、王は読み上げられる巻物を小刀で切り取っては暖炉に投げ入れさせました。エレミヤ書はこのようにして一度焼かれてしまい、後日エレミヤが思い出すままに口述筆記させたため時系列が順不同となっていると考えられます。指導者の利己的な目的で聖書のある言葉は教えず、ある言葉だけを強調して恣意的な解釈で人々を操作しようとする惑わしは、昔も現代も行われています。聖書の言葉を切り取ることなく、全体を学ぶことから真理を理解し、霊的な健康が保つことができます。今年も神の言葉を片寄り無く学んでまいりましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2016-01-13 19:46:24 (854 ヒット)
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『神の計画―平安と希望の約束―』
エレミヤ書29章10〜14節
2016年の教会標語は上記の聖書箇所となります。私たちは年の初めに様々な目標や抱負を持ちますが、聖書には「人の心には多くの計画がある。しかし主の御旨だけが堅く立つ」(箴言19:21)とあります。エレミヤは神の計画を人々に伝えましたが、ことごとく反発されました。人は耳障りな言葉・心を刺される言葉は聞くまいとし、それが真実ではないと思いたがります。エレミヤの時代、強国バビロンがユダヤ王国を攻撃し降伏を迫っていましたが、人々はエルサレム不敗神話を信じていました。かつてアッシリアの攻撃から神は守って下さったように、選民である自分たちは負けるはずがないと思っていました。あたかも戦前の日本が「元寇の時のように神風が吹いて勝利する」と信じていたように。エレミヤは「これは不従順であったユダヤへの神の裁きだからバビロンへ降伏せよ」と唱え続けていましたが、親エジプト派の反対にあいます。第一回バビロン捕囚が行われた後もエレミヤは「バビロンに仕えよ、70年満ちれば…この所に帰れる。」と回復の約束を語り励ましました。敬虔な人々はそれを信じ、捕囚の地でも心を尽くし神に祈り求めました。混沌とした時代にあっても私たちが依り頼むべきは、必ず成就する聖書の御言葉です。この一年、平安と希望を与えて下さる主に心をこめて仕え、歩んでまいりましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2016-01-03 20:59:16 (930 ヒット)
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『主に出会う礼拝』ヨハネによる福音書4章24節
2015年の教会標語は「主に出会う礼拝を目指して」でした。ヨハネ4章の聖書箇所ではイエス様はユダヤを去ってガリラヤへ行くために、サマリヤを通らなければならなかったとあります。ユダヤの人々は通常、サマリヤを通る方がエルサレムへ向かうのに近かったとしても、この地域を避けていました。長い歴史の中でサマリヤ人とユダヤ人の確執は深まり、ユダヤ人に対する恨みとサマリヤ人に対する偏見から、互いに関わり合うことを忌み嫌ったためです。イエス様はそのサマリヤの地で、ひとりの女性に声をかけます。うしろめたい理由があるため人目を避けて水を汲みに来た女性は、自分のようなサマリヤ人に丁寧に話しかけるイエスに驚きます。そして主との会話のやり取りの中で真理へと導かれ、彼女を通してサマリヤにリバイバルが起こりました。イエス様は一人の救い(彼女)のためにサマリヤを通って行かれました。自ら神に会いに行くことができない者のもとへ、キリストはへりくだって私たちに会いに来てくださるのです。このお方に霊とまことをもって礼拝をささげ、神がどのようなお方であるかさらに深く知ってまいりましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2015-12-30 01:07:13 (968 ヒット)
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マタイ福音書2:13〜23『預言の成就』
クリスマスはイエス・キリストの誕生をお祝いする時です。キリストはすべての人々の罪の贖いのために、十字架で死なれるためにこの世に誕生されました。本日の聖書交読箇所のイザヤ書53章ではキリストの受難が預言されています。クリスマスは神がひとり子イエスをこの世に送ってくださった愛の現れなのです。ヨセフとマリヤはイエスの誕生後、主の使いに警告を受け、ヘロデの魔の手を逃れるためエジプトへ避難しました。その間、ベツレヘム近辺の幼子がヘロデによって殺されました。それらの出来は旧約聖書の中で御子の誕生にまつわる預言が成就するためでした。ヘロデが死んだ後、ヨセフ一家はヘロデの息子アケラオを警戒しユダヤではなくマリヤの故郷ナザレに帰り落ち着きます。イザヤ11章1節に「エッサイ(ダビデの父祖)の根株から…若枝が出て実を結ぶ」とありますが、ヘブル語で若枝は「ナザレ」と同音になります。マタイの2章23節「彼はナザレ人と呼ばれる」は地名の意味だけではありませんでした。このように救い主の誕生は幾重にも預言されており、神は人々の救いのご計画を着々と進められます。そこには人の罪ゆえに多くの痛みがともなわれました。


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