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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2022-11-11 11:54:46 (151 ヒット)
メッセージ

霊の分け前」列王記下2章1〜18節


エリヤは後継者育成のため、弟子たちに御言葉を伝えていました。その預言者学校のような場で少なくとも50人ほどの者が学んでいました。エリヤが神に取り去られる日、神に示される場所へエリヤは一人で行こうとしますが弟子のエリシャはどこまでもついて行こうとします。預言者の仲間が「今日、主が先生を天に上げられようとしていることを知っているか」と聞きますが、「それは分かっているから黙っていて」と答える場面が2度あります。その後エリヤがヨルダン川を外套で打つと水が左右に分かれたので、エリシャと2人で乾いた所を歩いて渡りました。イスラエルの先祖、モーセとヨシュアの奇蹟を想起させます。エリヤが「別れの前に何なりと願いなさい」と言うと、エリシャは「あなたの霊の2つ分をわたしに継がせてください」と申し出ます。「二倍の分け前」とは長子の権利と同じです。50人以上いる弟子や預言者仲間の中で、わたしこそ後継者として認定して下さい、と願ったのです。エリヤは「わたしがあなたの元から取り去られるのを見るならばそのようになるであろう」それを決めるのは神様だ、と答えます。彼らが話しながら歩いていると突然、火の戦車と火の馬が現れ、エリヤはつむじ風に乗って天に上って行きました。天に上げられて死体が見つからなかったのは申命記のモーセの最期と同じです。ヨルダン川の対岸では預言者の仲間50人も心配してついてきていました。彼らはエリシャがエリヤの外套で川を打ち、水が左右に分かれて歩いて渡るのを見て「先生と同じ力が宿った、彼こそがエリヤの後継者だ」と認めます。エリシャが召命を受けた時(列王上19:19~)エリヤは着ていた外套を彼の上にかけました。自分の持ち物を与える行為で、神からの権威の継承を表したのです。信仰は目に見えないものですが、エリヤからエリシャへ、確実に引き継がれたのです。 


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2022-11-04 10:29:34 (172 ヒット)
メッセージ

「あなたの神はどこにいるのか」列王記下1章


アハブ王は戦死し(列王上22章)、その子アハジヤが後を継ぎました。カルメル山で神の火が下りいけにえを焼き尽くし、バアル・アシェラ預言者たち850人がキションの河原で殺されたという大きな出来事も、アハジヤにとっては遠い過去の記憶として自分には関わりのないことだと思っていたのでしょう。「アハズヤは主の目に悪とされる行い、バアルに仕え、イスラエルの神、主を怒らせた」とあります。アハズヤは屋上の部屋の欄干から落ちてけがをしてしまったため、「私のケガが治るかどうかバアル神のもとへ行ってうかがって来なさい」と使いを出しました。そこで主はエリヤに「バアルのもとにうかがいを立てに行くとは、イスラエルには神がいないためなのか。それゆえ、アハズヤは必ず死ぬと使いの者に言いに行きなさい」と告げ、エリヤはその通りにします。アハズヤは使いの者からそれを聞くと50人隊をエリヤのもとへ送り捕らえようとしますが、エリヤは「私が神の人であれば、天から火が降り、あなたと部下50人を焼き尽くすであろう」と告げ、本当に火が降り、隊長と50人が焼き尽くされました。そのことで神へのおそれを抱くこともなくアハズヤは再び50人隊をエリヤのもとへ送り出しますが、同じように天から火が降り50人隊が焼き尽くされました。3人目の50人隊の隊長はエリヤの前にひざまずき懇願したため、命は助かりました。アハズヤはエリヤの告げた主の言葉通りに死にました。「あなたの神はどこにいるのか」という問いは、主に背いた悪王だけでなく、聖書に登場する預言者たちも、エリヤにも向けられる問いです。誰からも理解されないと孤独になり、華々しい奇蹟が行われたのは昔話で、自分の人生に神は介在しない、という思いに陥ってしまいがちです。私たちも神を思い出すのは困った時だけ、ということはないでしょうか。主は今も生きておられ、力強い御手で私の人生にも、今日も働きかけて下さることに感謝し、日々礼拝をささげましょう。 


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2022-10-29 14:47:03 (164 ヒット)
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「アハブの罪」列王紀上21章


列王紀20章でアラム(シリア)との戦いで2度大勝利を主からいただき、イスラエルの神の力を知ったアハブでしたが、神の御旨を違え、勝利を自分の報酬としました。預言者が遣わされ、それを咎めたところアハブは非常に不機嫌になったというエピソードがありました。さてアハブの宮殿のとなりに良いぶどう畑があり、これまでの習慣から土地を売買するか、交換するか持ち主ナボテに交渉しましたが、「先祖からの嗣業(イスラエル部族のゆずりの地)のため譲ることはできません」と信仰上の理由から断ってきました。これ以上は無理にとは強いて言えず、アハブ王は悲しみ、かつ激しく怒って(非常に不機嫌になり)食事もせず、ふて寝していました。そこでイゼベルの登場です。ナボテが信仰を盾に断ってきたというのなら、その宗教と政事の習慣を用いたらよい、と謀略をめぐらし、ナボテが神と王を冒涜したとならず者に偽証させ、イスラエルの戒律に従ってナボテを石打にして殺害させ、その土地を王の権限により接収させたのです。望んでいたナボテのぶどう畑の土地を手に入れようとしましたが、後ろめたさはあるアハブ王のもとに今度はエリヤが登場します。今まではアハブがエリヤを召し捕らえるよう探す方でしたが、いよいよ神の裁きの宣告の時が来たため、エリヤの方からたずねて来たのです。アラムとの戦いで、真の神は生きて働かれるイスラエルの主であると認めざるを得ない経験をしたにも関わらず、イスラエルでは自分が一番であり何でも思い通りにしようとする高慢の罪のため、ついに神はアハブ王とその家に対する裁きを宣告されます。しかしそれを聞いて何とアハブ王は悔い改め、それを見られて神は「思い直された」のです。しかし数々の奇蹟を目の当たりにしながらも神を恐れない行為をしてきたのは赦されない罪であり、アハブ王自身が生きている間は裁きの執行を猶予する、というものでした。アハブ王の罪の原因は何だったのでしょうか?何を大事にすべきか、自分の利益ではなく何を優先させるべきか、何を基準に考え判断するべきかを誤ったのです。真に恐れるべき方(主)を恐れ、主を信頼し、神の教えを守ることが大事なのです。自分の体験からではなく、歴史(聖書)から学んでまいりましょう。 


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2022-10-14 10:44:10 (166 ヒット)
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「新たな目的」列王紀上19:9〜18


肉体的精神的、霊的にも疲れ果てたエリヤは、主に死を求めました。しかし神の取り扱いの中、生きる力(気力・体力)を取り戻し、神の山ホレブ(シナイ山)まで歩いて行きました。洞穴で夜を過ごしていると、神が「エリヤよ、あなたはそこで何をしているのか」と問われます。一度は死んでしまいたいとまで思ったエリヤでしたが、この時は違いました。「自分は神様に対し熱心だった」「イスラエルの人々は契約を捨てた」「預言者の仲間は殺されていった」「今、自分も殺されそうだ」誰も助けてくれない。神様はどこにおられるのか。主に対して激情をぶつけているようなエリヤに神は「主の前に立ちなさい」と命じてから神は大風で岩を砕き、地を揺るがせ、火を起こしました。神は奇蹟を、イスラエルを救うため、祈りの応えとして、または裁くためにも奇蹟を起こされますが、それらは神ご自身を顕現されるための方法・手段であっても、それ自体が神ではありません。「風の中に主はおられなかった」「地震の中にも」「火の中にも」主はおられず、静かな細い声を聞き、エリヤはようやく洞穴から出てきました。自分のすぐ近くに、主はずっと共におられることに気づいたのです。「あなたはそこで何をしているのか」神は同じ質問をエリヤにし、エリヤは同じ応答をしています。しかし神はエリヤに次の新たな目的を与えられました。「細い声」は周りが騒がしければ聞こえない声です。たとえ静かでも、心が怒りや憎しみ、悲しみや虚しさなどの感情で覆われ、負の言葉で耳が塞がれていれば小さな声は聞こえないでしょう。エリヤは孤独な戦いの日々の中で、怒りと悔しさと)虚しさに心ふさがれ自身の信仰・目的を見失いそうになっていましたが、霊性の変化(心の深いところ)を得て、次代に繋いでゆく働きを与えられたのです。 


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2022-10-06 21:18:09 (160 ヒット)
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「起きて食べよ、道はまだ遠い」列王紀上19:1〜8


カルメル山にてバアル預言者とアシェラ預言者あわせて850名が殺された報を聞き、イゼベルは「24時間以内にエリヤを殺す」と怒ります。アハブ王の前で異教の預言者らに大勝利したエリヤでしたが、王のとりなしや庇護もなく、エリヤは自らの命を救うために逃げ出しました。自分の全存在をかけてイスラエルの神の信頼回復のためにあれほどのことをしたのに、自分をとりまく状況に影響は与えず、表立った応援も得られなかった…エリヤは孤独感と虚しさと疲労から「わたしは先祖にまさる者ではありません、もう充分です、命を取ってください」と神に訴えます。誰も分かってくれない、助けてくれない、わたしは特別な人間ではなかったのだ、人々から評価も共感も得られず、自分の働きも理解されない…肉体的にも精神的にも疲れ切った時、私たちも「神様、もう疲れました、もういいです」と絶望してしまいます。その時、主はエリヤに「もっと頑張れ」と叱咤激励したのではなく、「あなたはこうあるべきだ」と方法論を展開するのでもなく、御使いによって水と食糧を与えられました。「起きて、食べなさい」眠り続けて心も弱っていく前に、活力の源になる食べ物を口にしなさい、生きよ、と。主は遠くから観念的にだけ語りかけられるのではなく、この時は御使いが「彼にさわり」食べるよう呼びかけています。身近に実体をもって応援し守ってくれる存在があることを感じられると、人は力がわいてきます。主のいつくしみにより休息できたエリヤは霊的にも回復が与えられました。その場所(ベエル・シェバ)は創世記21:8〜21でアブラハムの元を離れ荒野をさまようハガルとイシュマエルに主が語りかけられた所です。孤独と絶望で生きる力を失った者に、いつでも神はなぐさめ、導きと新しい力を与えてくださるお方です。 


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