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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-08-30 11:11:18 (59 ヒット)
メッセージ

「希望をもって喜んでいる」(ローマ5:1〜11)
この書簡はパウロがまだ行ったことのないローマの地で、信仰を持っているまだ会ったこともない人たちに向けて書き送ったものです。ここでは「信仰によって義とされた私たち」は、神との平和と、神の栄光にあずかる希望を持っていると喜んでいます。喜ぶ=誇るとも訳せますが、旧約聖書(詩篇20:6−7)では私たちが誇るものは「我らの神、主の御名」であると示しています。ここでは誇る=頼る、信頼するという意味を含ませています。「ある者は戦車を誇り、ある者は馬を誇る」戦車、軍馬は重要な軍事力であり、沢山持つ者が勝利する、力ある者と見なされていました。しかし詩篇の作者は「彼らはかがみ、また倒れる」武力を誇る者たち・神でないものにより頼む者たちは、それらが弱るとつまずき倒れてしまう、しかし神を頼る者は転んでもまた立ち上がることができる、とうたっています。パウロは「キリスト・イエスを誇りとし」(ピリピ3:3)、「どんな人間でも、神の御前に誇ることがないため」(コリント1:26〜31)と言っています。救いは自分の力によってではなく、キリスト・イエスへの信頼によって与えられたのだから、と。もし自分の能力や努力によって救いを勝ち得たのであったら、恵みの座から落ちないように常に戦い続けなければなりません。その地位を保つために奮闘し続ける人生に平安はあるでしょうか。神が私たちを召して下さり、やがてキリストに似た者へと変えられて行く希望を下さいました。その希望を信じ、誇りにするからこそ患難さえも喜ぶと書かれています。患難は忍耐を、忍耐は錬達を生む、と言っていますが、錬達は承認、批准というものも表しますが、鉱石を溶かして金かすを除き金属を精錬することを意味します。練られた品性とは、その人が身に着けた徳性ではなく、苦難をくぐり抜けて神様がつけて下さる承認、認可のことです。ですから「錬達は希望を生みだす」のです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-08-30 11:08:11 (51 ヒット)
メッセージ

「心を騒がせるな」(ヨハネ14:18〜31)
8月の終戦記念日の前後は平和について考えさせられます。聖書では平和について、神様と私達との関係性における平和や、罪を赦された者の平安について語られることが多いです。イエス様はこの聖書箇所で「あなたがたに平安を残します」と語られましたが、弟子たちの心は乱れ騒いでいたのでした。それはイエス様の「あなたがたは来ることができないところ」「わたしは去って行く」という言葉に激しく動揺し不安になったからです。13章から17章まで、不安におののき心を騒がした弟子たちが次々と質問したので、それに答える形でイエスは真理について多く語りました。今、私たちは弟子たちの問いから多くの真理を学び、恵みを得ているのです。心騒ぐような状況であったとしてもそれを用いて神様は真理を教えて下さるのです。「心を騒がせるな」とイエス様はおっしゃいますが、嵐で死にそうな時は嵐を静め、食料が無い時はパンを与えられ、家族に病気の者がいれば癒してくださったのです。自分たちを守り、助け、導いてくださるイエス様がいなくなる。別れが来る。それはあまりにも大きな喪失です。不安になるのも当然でしょう。そんな弟子たちに「心を騒がせるな」とおっしゃったイエス様は鉄面皮なのでしょうか。上から目線で心無い命令を下されたのではありません。イエス様は軽々しく「心を騒がせるな」と話されたのではありません。(ヨハネ12:27、13:21)などを見てみるとイエス様も心を騒がせることがあったのです。弟子たち(私たち)の心の弱さも十分に知っておられた上で、イエス様は十字架、復活、聖霊の注ぎ、信じる者たちの未来を見越して語られました。イエス様が与えられたのは具体的な個々の問題解決法ではなく、約束であり、希望です。生きた助け主、聖霊が遣わされるのです。私たちの信仰の生涯においても心を騒がす(悩ます)問題があるでしょう。しかし、その困難や問題を通してでなければ分からない、知ることの出来ない神様との関わり、恵みがあるのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-08-15 14:02:58 (82 ヒット)
メッセージ

「御声に聞き従って」(出エジプト13:21〜14:31)
十災害によりエジプトを打たれた神は、脱出したイスラエルの民の前を進み行き、昼は雲の柱、夜は火の柱が民から離れず先導しました。この旅路は長く、辛く苦しいものであるかもしれませんが、主が共にいて下さる、これが神の慰めと励ましであり、希望でした。430年ぶりに先祖の地に帰ろうとするイスラエルの旅路は、順調とは言い難いものでした。最初の危機が14章です。心を翻し民を追って来たエジプトの軍勢、パロ自ら率いた戦車隊の精鋭が目前に迫ってきました。たちまち民衆は恐怖に覆われ「我々はこんな所で死ぬために来たのか」と絶望し叫びます。彼らの不安と怒りの矛先はモーセに向かいました。神様にではなく身近な人へ。モーセとしては神の言葉通り引き返し宿営したのに(14:1)聞き従ったことでかえってエジプト軍に簡単に追いつかれてしまったことに立場を悪くします。パロはイスラエルが迷い、行き場を誤り、動けなくなっていると勘違いし、引き返させる時は今とばかり急行してきたのです。才能があり優秀な人ほど、自分の持てる力を駆使して何とか状況を打開したいとあせります。しかし誰もが絶体絶命と思われる中でモーセは「恐れるな」「主の救いを見なさい」四の五の言わずただ神様を信頼し委ねきりなさい、と言いました。その後、エジプト王と軍隊がどの様になったかは聖書に記されているとおりです。神様に従ったイスラエルにも危機が訪れました。私達の人生にも「もう終わりだ」と思う出来事があるかもしれません。私達はできるならそのような危機や困難を体験したくありません。しかし神様には救いの計画があり、ご自身の栄光を現されて私達を信じる者へ変えられるという目的をお持ちです。危機的状況にあっても御言葉に聞き従い、主を信頼して歩むことができますように。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-08-11 00:09:02 (105 ヒット)
メッセージ

「過越しの犠牲」(出エジプト12章1〜39節)
エジプトの苦役によるイスラエルの苦しみ叫びを聞かれた神は、民を救うためにモーセを遣わされましたが、エジプトを去らせることを頑なに拒むパロに9つの災いを下します。災いの時は民を解放することを口にしても、災いがおさまれば約束を翻すパロに対し、最後の災いが下されます。それがエジプト中の長子の皆殺しの災いです。身分の高い者も低い者も関係なく、パロの家庭から家畜の初子に至るまで神様の処罰は徹底していました。しかしここにもエジプトとイスラエルの区別がありました。信仰による区別が明らかになるように、傷のない小羊を殺しその血を門と鴨居に塗れば主は通り過ぎる、と言われました。羊の血がつけられている家は過ぎ越され、神の死の裁きを免れたことは、罪のない小羊イエスの犠牲によって命を救われることのモデル(型)であることが分かります。ほふられた羊は過越しのいけにえとして火で焼き、食べるよう規定されています。家族という最小単位の共同体で犠牲にした小羊を分かち合い、神の裁きと赦しを知り、生かされた者として感謝しながら共に一歩を踏み出すために、共に食す機会を設けられました。そしてこの過越しを記念すべき主への祭りとして祝うよう規定されました。「あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる」(12:13)神様の言われたことを信じ、従わんとする者は裁きを免れる、過越しの出来事はキリストの十字架の血潮がしるしとして与えられたことを予表しています。赦された者としてこれから生きていく時、孤独ではなく主は共同体を用意して下さり、そこで恵みを分かち合い私たちを送り出して下さることを覚え感謝をささげましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-08-11 00:07:30 (56 ヒット)
メッセージ

頑なな心」(出エジプト10章)
第7の災いでは激しい雹が降り農作物、家畜に甚大な被害を及ぼしました。しかし災いが収まり、雹の被害を免れた作物も残っているのを知るとパロの心はまた頑なになりました。それに対し神はモーセを通して「いなごにより残った作物も全て食い尽くす」と警告します。家臣たちは危機感を抱き、「彼らを去らせて下さい、国が滅びかかっているのが分からないのですか」と初めてパロに進言します。かつてない非常事態だというのに、何度災いが下ってもそこから学ぶことができないパロの目は覆いがかかっているようです。自分のこだわりによって冷静になれず、状況が客観的に見えないために真実からどんどん遠ざかってしまいます。明らかに自分が間違っていると分かったとしても、権力者としてのプライドや目先の利益を優先して、神の前にへりくだることを良しとしなかったのです。その驕り高ぶりが、結果身の滅亡を招くのですが、ここでパロは「壮年だけ行け‥女子ども、財産は置いていけ」と要求します。人質を残して、完全に手中から去らせるつもりはないのです。神はそれをお許しにならず、いなごの害を下されました。台風のように襲撃したいなごの群れは、エジプト全土に渡って緑のものは何も残さず食い尽くし、まさに完膚なきまでにエジプトは叩きのめされました。それでもイスラエルの人を去らせなかったパロに、神は第9の災害として濃い暗闇を3日間続かせました。しかしゴシェンの地だけは光がありました。太陽神ラーの子とされる現人神を打つ災いに、パロはまた妥協案を示します。「家族は連れて行っていいが財産は残せ」と。少しずつ譲歩しているようですが、頑なさというものは何度も砕かれても、核となる部分はなかなか折れないものです。私たちもパロのような強情さがあると、砕かれなければ神に目を向けることはできません。神が言われたことは「ではこの条件なら」と交渉するものではありません。神を信頼し、全てをゆだねる、良きものを捧げるのが礼拝であり、神に仕えるということなのです。


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