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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-02-03 11:00:57 (91 ヒット)
メッセージ

「イエスを仰ぎ見つつ」(ヘブル12:1〜2)
新年礼拝の説教でイエスを仰ぎ見つつ「新しい生きた道」を歩みましょう、とお話ししました。本日はその聖句と前後から学びます。ここでは3つのおすすめがあります。 愃瓩鬚なぐり捨てる』聖書の倫理基準で言う罪(軽率な言葉、愚かな行いなど)を持っていない人はいません。からみつく罪の性質を捨てることは容易ではありません。服に着いたシミは簡単に落とせません。凍り付いたものは忍耐強く温めて溶かす必要があります。◆悗錣燭靴燭舛了臆辰垢戮競争を耐え忍んで走りぬく』私たちは耐え忍ぶことが出来るでしょうか。その根拠・力となりうるのは忍耐と励ましの神(ロマ15章)を知ることです。神は、人々が悔い改め神に立ち返ることを待っておられます。人を救いへと至らしめるのは神の力です。その神の力(愛)が今私たちに注がれているのです。聖書の与える忍耐と励ましによって、その競争を走り抜くことが出来るのです。『忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す(ロマ5:4)』この競争がマラソンと似て非になることころは、「整備されたコースではない」「他の人と競い合うのではない」「孤独に一人走るのではない」ところです。『イエスを仰ぎ見つつ』イエスから目を離さず歩もうではありませんか。疲れ果てて気力を失った時、目的を失い迷いそうな時、罪がないのに十字架の道を選ばれた主の忍耐を思い起こし、私たちを愛するがゆえに整えられようとする神の訓練を受けようではありませんか。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-01-25 09:53:37 (92 ヒット)
メッセージ

「信仰の確信」(ヘブル11:1〜3)
「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」信仰の一つの定義ですが、これだけで説明し尽くせるものではありません。百卒長のように“神の力”を信じること(マタイ8:5−10)だけでなく、『キリストに在って』歩む(主を信じ、主イエスと共に考え、行動する)―神と人格的交わりを持って生きること、主イエスの愛の戒めを実践することも信仰を表します。 『確信』は原語では《土台、根底にあって支えるもの、確証》《権利証、保証する書類》などの意味があります。つまりイエス・キリストを信じることは救いの確証、神の国への切符を持っていることと同じ役割を果たすというのです。 『まだ見ていない事実を確認する』ということは、キリストに対する信頼(信仰)が私たちを根底で支えるものとなるのです。人生の中で私たちを悩ます出来事は、問題の解決や将来のことがまだこの目で見えていないから、不安に押しつぶされそうになるのです。そのような時こそ、実際は目に見えないけれども主が共にいてくださるのだと信仰を働かせる機会です。信仰も与えられるものです。私たちの意志の強さや思いの純粋さなど個人の資質によって恵みの多寡が増減するわけではなく、その信仰・信頼を向ける方との関わり繋がり方によって支えられ守られていることを知るのです。聖書に登場する数々の先人達も、彼らが偉大だと称えられているのではなく、問題を乗り越える糸口は神にゆだねる信仰であると、彼らの人生を通して私たちに教えているのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-01-18 10:59:34 (90 ヒット)
メッセージ

「新しい生きた道をとおって」(ヘブル10:19〜25)
2018年の教会標語は上記の聖句です。使徒行伝では初代教会時代にキリストを信じる人のことを「この道の者」と表現していました。かつてあり、今もあり、これからもある「この道」をとおって、神に近づこうではありませんか。しかし旧約時代、神に近づくためには神の定められた方法により、秩序を守らなければなりませんでした。罪の赦しと汚れのきよめのために年に一回、大祭司が至聖所においていけにえを捧げました。アロンの子(ナダブ、アビブ)は祭司でしたが、律法に定められた通りにしなかったために神の怒りにふれ焼き尽くされました。しかし大祭司たるイエス・キリストが、人々の罪のため完全な犠牲としてご自身をささげられたため、完全に贖われました。こういうわけで私たちはイエスの血によって何らはばかることなく聖所に、神に最も近い所に入れるようになったのです。新しい道とは、大胆にまことの聖所に入り、神と関わりを持つことができる道です。ですから真心から神に近づき、神との交わりを深めようではありませんか。また、この箇所では共に集まることを推奨しています。「2人もしくは3人で私の名において祈る所に私もいる」(マタイ18:20)とあるように、信仰によって集まる人の間に神は臨在されます。教会のことを聖書ではギリシャ語で「エクレーシヤ」(神に召された者たちの意)と言います。キリスト教は孤独を知らない宗教と言われます。孤独な修行や訓練によって一人で極める宗教ではありません。神は共に生きるように私たちを召し集められ、互いに励まし合うことを望まれます。新しい年も互いに祈り合い、教会に示されたビジョンを共有し、この道に生かされていることに感謝しつつ歩もうではありませんか。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-01-18 10:56:35 (80 ヒット)
メッセージ

「今は恵みの時、今は救いの日です
―真理の言葉と神の力によって―(競灰螢鵐6:2)
2017年は上記の聖句を教会標語にして歩んでまいりました。歴史の中にあってこの時代は、あなたの人生の中では、今はどのような時でしょうか。あなたは何者か、自分はどのような存在であるかご存知でしょうか。標語の聖句は、イザヤ書49章8節から引用されていますが、その前後で「(主は)私が母の胎内にいる時、私をご自分のしもべとして造られた。私は主に尊ばれ、私の神は私の力となられた」と書かれています。私たちは聖なる方に選ばれた者なのです。約二千年前にイエスが来られて十字架につけられて死に、三日目に復活された時から、罪に囚われていた人々が神の国に入ることができるようになりました。そして現在は、イエスが天に昇られてから再びこの世に来られるまでの期間にあります。人の目からはキリストの再臨までは永い時間に思えますが、神にとっては瞬く間です。だからどのように混沌とした時代にあったとしても、神のご計画では約束を成就する恵みの時であり、苦難から解放する救いの日なのです。私たちはその恵みに応答するだけでいいのですが、「ただ信じよ」という神の招きに応える人のなんと少ないことでしょうか。「笛を吹いても踊らなかった」と聖書に書かれているように、神様が全てを準備してから呼びかけても、それを聞こうとしない、心動かされないのです。その恵みの大きさ、深さを私たちのつたない言葉で人に語っても、十分に伝わらないかもしれません。しかし真理の力、神の力によって人の心が開かれ、神の救いを受け取ることができるのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-01-05 19:36:36 (90 ヒット)
メッセージ

「救いは待ち望む人々へ」ルカ2:21〜38
救い主イエスは弱い人の姿をとられて地に降られました。神はご自分の御子を人に委ねられました。イエスは神に選ばれたヨセフとマリヤのもとで育ちました。選ばれた者は特別なゆえに背負わなければならない苦労・試練があります。その困難・重荷も神様から委ねられた賜物と受け取ることが出来れば幸いです。「出来ますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたの御心のようになさってください。」肉体を持つ人間として十字架の苦難を引きうけられた主イエスは、その人生において罪人である私達を救う御業を成し遂げられました。主イエスの犠牲が私達の祝福の基となったのです。シメオンは正しく敬虔な人で、イスラエルを贖う聖なる方を見るまでは決して死なないというお告げを信じ、救い主の現れを待ち望んでいました。そして幼子イエスを見るなり聖霊に示され神を賛美し預言します。神の宮には女預言者アンナもいて、彼女は贖い(赦しと救い)を待ち望む人々に救い主の誕生を語りました。クリスマスのお話しに登場する東方の博士、羊飼い、マリヤ、シメオン、アンナに共通するところは救い主の誕生を聞き、素直に信じたことではないでしょうか。私たちも素直に聖書の御言葉を聞き、信じ、従うことができますように。信仰も与えられるもの。ここに神の選びがあります。信じる私たち一人ひとりに神の特別があり、それに伴い困難や試練があったかもしれません。また、これから背負わなければならないかもしれません。しかし、それを神様からその人生を委ねられた賜物として受け取り、主に信頼し、期待し、共に歩めますように。


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