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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2016-09-23 13:48:11 (891 ヒット)
メッセージ

「勇気を出しなさい」使徒行伝23章1〜11
ユダヤの群衆の前で救いの証しをしたパウロでしたが強い反発にあい、ローマの兵営に入れられます。生まれながらのローマ市民であるパウロにおいそれと取り調べができない兵卒長は、事態の収束のためユダヤ議会に働きかけ事件の判決を委ねようとしました。「神の前に良心に従って行動してきた」と述べるパウロに対し、議長である大祭司アナニヤは嘘つきだと憤り、打つよう命じます。しかしパウロは「白く塗られた壁よ(権威者・偽善者に対する揶揄)律法に不正な裁判をしてはならないとあるのに、それに背いて私を打つのか」と非難します。無礼を咎められると、「彼が大祭司だとは知らなかった」と言いますが、汚職と横領をする大祭司らしからぬアナニヤに対する皮肉でしょう。そして議員の中にパリサイ人とサドカイ人がいるのを見て一計を案じ、パリサイ派とサドカイ派の信仰観の相違に争点が向けられるよう、議会の論旨をすり替えて混乱させました。このようにして議会を乗り切ったパウロでしたが、未来に対する不安の中にいました。そこへ主イエスが臨み「しっかりしなさい」と励ましました。イエスは過去にも、病の者に「元気を出しなさい」と未来を祝福し、十字架に向かう前に弟子達に「勇気を出しなさい」と励まされました。様々な苦境の中にあっても主は共にいてなぐさめ、力強く証しする者として下さるのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2016-09-14 17:41:55 (1026 ヒット)
メッセージ

「この道を告げる」使徒行伝22章
パウロに反対感情を持つユダヤ人が群衆に訴え大騒動が起こり、ローマの守備隊が介入してこれを鎮めます。パウロは群衆に向かってヘブル語で語り出し、誤解を解こうとします。自分はユダヤ人であり、かつてはキリスト者を熱心に迫害していたと過去を振り返りながら、パウロを迫害する彼らとの共通点をあげ訴える側の人々に歩み寄ろうとしています。そして劇的なイエスとの出会いによって真理の目が開かれ、異邦人に福音を伝える者として召命を受けたことを証ししました。しかしこの弁明を聞いたユダヤ人の多くはそもそもイエスをキリストと認めておらず、パウロの証言を感情的に受けますます激昂し、混乱の様相を見せたので、すかさずローマの守備隊長はパウロを兵営に入れ騒動を収束させました。パウロはキリスト者を迫害する者でしたが、イエスと共に生きる「この道」を選び人生が変えられました。パウロの熱心さ・一途さはそのままキリストを証しする情熱へ用いられました。神はキリストに対する反発(悪意・敵意)さえも、自分自身の心の渇きに気づく機会として用いられるお方です。神の御心とかけ離れた道を歩んでいるようにみえたパウロも罪赦されきよめられ、この道の証人として歩み直すことができたことに学び、私達も信仰に立ちキリストを告げる者として歩むことが出来ますように祈りましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2016-09-07 14:23:09 (1054 ヒット)
メッセージ

前回の説教「エルサレムへ」 使徒21章15〜40節
エルサレムに着いたパウロ達はヤコブと長老たちに宣教の報告をし、ともに喜びをもって神をほめたたえました。イエスの弟ヤコブは今やエルサレム教会の指導者です。かつては兄イエスを救い主だと信じていなかったヤコブですが、イエスの十字架と復活を目の当たりにし、この道に入ったのでした。彼は熱心なユダヤ教徒にも「義人ヤコブ」と呼ばれるほど、その敬虔さが認められ尊敬されていました。エルサレム会議では「異邦人は律法を遵守せずとも、信仰によって救われる」とパウロが主張し、議長であったヤコブは「ただし異邦人も偶像に備えた物、不品行、絞め殺した物と血を避けるように」と提言しました。今回もパウロが人々から誤解を受け、悪い噂があることを知っており、パウロがユダヤ教の慣例に従い正しい生活をしていることを世間に示す機会を与えました。イエスの恵みによる救い、という真理はくつがえることはありませんが、ヤコブはユダヤの人々の宗教的感情に配慮したのです。
しかし人の先入観や認識はただちに変わることは難しく、悪意を持っているなら尚更です。ヤコブの執り成しも空しく、反パウロのユダヤ人に扇動されたエルサレムの民衆によって街は騒然となりました。私たちも誤った情報により偏見や先入観を持ったまま人と対することがありますし、私たち自身が誤解されることもあります。物事の本質を正しく捉え状況を正確に認識する訓練に、聖書の通読・精読は有益です。真理を見極めさせてくださいと祈りつつ信仰の道を歩もうではありませんか。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2016-09-07 14:21:23 (936 ヒット)
メッセージ

「御霊に示されて」使徒21章1〜14節
パウロと兄姉たちに聖霊の示しがありましたが、それぞれの受け取り方が違ったようです。御霊が示した事とは、エルサレムにてパウロの身辺に起こる出来事です。預言によって示されたことがあっても、教えられていないこともあるため、この先何が起こるか正確には分かりません。そこで現在をどのように判断し動くか、未来をどの様に描くかが変わってきます。ツロとカイザリヤの教会の兄姉たちはパウロにエルサレムへ行かないように引き止めました。しかしパウロの決意が固いのを見、別れの際には家族でパウロ一行を見送り「主の御心がなりますように」と祈り合いました。パウロは御霊に患難があることを示されましたが、それを承知でエルサレムへ進みます。自分に危害を加えられたとしても、エルサレムへ向かう事は聖霊の導きであり、神の御心であることを信じていたからです。あたかもイエスが十字架に向かったように。パウロの強い意志と情熱が、初代教会の宣教を前進させたのでした。先祖アブラハムの旅を思うと、信仰により神と共に歩む中で祝福の約束は明らかになり成就されました。私たちも長い道程を歩む中で、時に現実に覆われ未来が描けないような時があります。しかし出来事と出来事の間にも神は休まず働かれていることを覚えましょう。私達の思いを越えて未来図を用意しておられる神に期待し、歩み続けてまいりましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2016-08-25 04:55:28 (930 ヒット)
メッセージ

「喪失」 創世記35章8〜29節
ヤコブは神の指示によってアブラハム・イサク・ヤコブとその子孫へ与えられた約束の地へ帰りました。しかしそこで身近な人(母親、妻、父親)の死を経験します。聖書では直接リベカの死について語られてはいませんが、リベカの乳母デボラの死について言及されています。おそらくここで母リベカの死も知ったであろうと思われます。そして長旅の負担が罹ったのか、最愛の妻ラケルが難産により亡くなりました。ラケルは自分の命と引き換えに産んだ子を「ベンオニ(苦しみの子)」と呼びますが、ヤコブはベニヤミン(右手の子=権威を表す)と名付けます。後年、ヨセフ物語の中でベニヤミンの存在は家族を一つにする役割を担います。神様が祝福された者であっても問題は起こり、喪失体験をします。その苦しみの中で「何故?」と問い、考えますが、私達が体験した苦しみや痛みがやがて用いられ、私達自身の励ましやなぐさめになることもあります。父イサクの死に際し、ヤコブは兄エサウと共に父親を葬ります。イサクをだまし兄になりすまして長子の権利と祝福を受けたヤコブは、エサウに殺意を抱かれるほど憎まれましたが、イサクが兄イシュマエルと共に父アブラハムを共に葬ったように、神の取り扱いを受けて兄弟の関係は回復していました。死の前に私達は無力ですが、死を通して神のご計画を知ることができるよう、主の助け導きを求め祈りましょう。


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