『ユダの裏切り』
私たちは、罪を犯す事もあるし、主を否定しているような態度をしてしまう事もある。主は私たちの足りなさ、弱さをご存じである。聖霊により罪を示されたなら、かたくなにならず、主に悔い改め、赦されて主に近づけられる者となりましょう。
マタイ26:47〜56
『ユダの裏切り』
私たちも、時おり人の言動に憤りを感じ、赦せない思いでいっぱいになることがある。しかし主は、イエス様を十字架に架けるほどに、私たちをあわれみ赦して下さった。主の赦して下さった事を思い、聖霊に助けられて、赦し合う者にしていただこう。
マタイ18:21〜35
『私を探り知る方』
いい加減にしている罪、赦せない心やキズ付けられた過去の痛みはないだろうか?心の深みまで探り知る主は、やさしく癒して下さる。主に心をむけ、祈って癒して頂きましょう。震災のため、心のケアが必要になっている人がたくさんいる。そのためにもとりなして祈りましょう。 詩篇139:19〜24
ローマ10章で、高ぶり自己義に陥ったイスラエルの民から、主は、‘主の名を呼び求める’異邦人へと救いの道を開かれた。そのことに対し、「神はその民を捨てたのであろうか」の疑問が湧き上がってくるが、パウロは、エリヤを譬えにあげて、偶像に膝まずかなかった7000人が残されていると答えている。彼ら7000人は、イスラエルの全体からすると少ない人数であるが、神様の恵みにより選ばれた者である。
パウロは、異邦人クリスチャンに、だからと言って誇ってはならないと戒める。私たちもかつては罪の中にあった者であったが、残りの者として選ばれて救われた者である。主の選びと召しにより恵みの中に入れられていることを感謝し、主の恵みから離れている兄姉のために祈る者となりましょう。 ローマ11:1〜6
ユダヤ人たちは、神様に近づくためにささげ物を献げ、誇ってきたが、私たちは、イエス様の十字架により、私たち自身を生きた聖なるささげ物として献げることが勧められている。
私たちは、それぞれキリストの肢体として、生かされている。それぞれの働きをする上で、余り出過ぎてはいけないと、遠慮があったり、反対に適当でいいと中途半端であったりする。しかし、主が求められているのは、‘惜しみなく’‘熱心に’‘快く’というように、私たちに与えられている賜物を精いっぱい用いて主に仕えることである。
これらの事は、人間的な力や情熱ではできないし、長続きしない。聖霊によって、満たされて、燃え立たせていただいて、主の体として仕えていきましょう。 ローマ12:1〜16