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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2023-09-22 09:24:42 (81 ヒット)
メッセージ

 「たとえそうでなくとも」ダニエル3章

エレミヤ、エゼキエル、ダニエルに共通するのはバビロン捕囚の初期に活躍した預言者であることです。本日の箇所はダニエルと同世代のユダヤ人3名が信仰による勇気を示した場面です。ネブカドネザルは自らの権力を誇示するため金の像を造りこれを拝ませました。富の豊かさと技術の高さも表すものでしたが、高さ約27m、幅約3mと不安定なところがはたから見て愉快です。しかし当時の人々はバビロン王の力を象徴するこの金の像にひれ伏すのでした。様々な国や民族を治めるため、バビロンは力を誇示し恐怖により人民を支配する方法をとりました。国の高官や支配地域の有力者たちはどのような命令にも従うのか、各々の宗教や戒律よりもバビロンの法律が優位であるよう、金の像は試金石となったのです。しかし意外な人々が拝もうとしません。ユダヤ人の3名です。彼らは幼少よりバビロンの国益になるべく時間と労力、資財を投じ教育を与えられた優秀な敗戦国の子弟です。なぜ王の意に添わぬことをするのか。空気を読め。人々の心の声が聞こえてきそうです。「拝まなければ焼き殺す」これは口先だけの脅しではありません(エレミア29:22)。王は彼らに態度を改めるように諭します(脅します)が、彼らは「(私たちの)神が救い出して下さる」そして「たとえそうでなくとも」(ダニエル3:18)自分たちが願う結果にならなかったとしても、自分たちはこの世の力に屈することなく神に従うと信仰を表明しました。自分の意に従おうとしないユダヤ人3名を、バビロンの王は容赦なく彼らを炎の中に投げ込みます。民衆への見せしめとなるはずが、ネブカドネザルが見たのは燃えさかる炎の中で生きている3人と、彼らを守るもう1人の白いお方でした。バビロン王の力を誇示する装置の金の像が、イスラエルの神が今も信じる者を救うことを証しする機会に用いられたのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2023-09-01 17:09:29 (116 ヒット)
メッセージ

「死んでいたものが生きる」エゼキエル37章

第一次バビロン捕囚ではエルサレムは王たちが捕らえられても、まだ王国としては存続していました。しかしゼデキヤ王の反乱を経て11年後、エルサレムは滅ぼされ、捕囚された民は本当に帰る所を失ったのです。「われわれは望みを失った」神に見放され見殺しにされた、自分たちにはもう未来はなく生きていても死んだような者であると感じ、嘆いていました。しかし実は、神の御心を知ろうとしないイスエラエルに対する裁きであり、神のご計画のうちに起こったのです。そのような中でエゼキエルは預言者として召命を受け、一つの幻を見ます。多くの人が殺されたか死体を捨てる所として枯れた骨が埋まる谷があり、風雨にさらされた沢山の人骨に向かって預言せよと神は言われます。エゼキエルが命なき骨に預言すると、骨と骨がつながり始め、肉と皮膚がつけられ人のような形となりました。しかしまだ生きた人間ではなく死人のようでした。神は再び語るように命じられエゼキエルが預言すると「息」が体に入り、命の灯が宿り大勢の生きた人間の群れとなりました。これは捕囚によって生ける屍のようになったイスラエル、造り主から離れ、いのちの豊かさが枯れてしまった民たちに、神の息=いのちと希望を受けると信仰により新しいいのちが与えられる、人生は主の御言葉によって生きることができる、ということが示されたのです。またエフライム(北イスラエルの別称)と南ユダは一つにされ、争いによらず平和のうちに一人の王が立つと預言されます。イスラエルは苦境にあり望みも枯れ、このまま子孫は絶えるだろうと思っていました。しかしイスラエル王国はひとりの牧者が治め、永遠に主の祝福があると預言されます。この牧者とはイエスキリストであり、キリストを信じる者はその祝福の約束にあずかるのです。将来のイスラエルの帰還の約束だけでなく、遠い未来の人々の救いのご計画まで示されたのです。 


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2023-08-19 09:07:15 (109 ヒット)
メッセージ

「新しい心と新しい霊」エゼキエル36:22〜32

前回「巻物を食べよ」では神の御言葉を身に着けよ、相手が聞いても聞かなくても語り続けよ、語る対象は反逆の家だから悔い改めても忘れてしまう、語り続けよということでした。本日の箇所で神は「新しい心と新しい霊」を与えるというのです。異邦人の間で地に落ちた聖なる御名の回復のためです。イスラエルが回復しても彼らは再び罪を犯すだろう。もう少し確かなところから再建する。それが「聖なる御名の回復」です。彼らから「石の心(頑なな心、自己中心的でしなやかさを失った心)」を取り除くと主は言われます。固く鋭くなった心は相手を傷付け痛めつけ、自分の律法で一方的に人を裁く心、攻撃する心です。一方、肉の心とは新約聖書では人の欲とか流されやすい心理を指すのですが、ここでは「石の心」の対になる意味すなわち、しなやかな強さを秘めた「柔らかい心」です。神に依り頼み、神の教えと戒めを守り行う強い意志(信仰)、それを行わせて下さるのは「新しい心と新しい霊」です。(参考:エゼキエル18章「罪の責任」エレミヤ31章「心に刻む新しい契約」)新しい霊、神の御霊なる「聖霊」が注がれたのはエゼキエルの時代から約600年後、イエス・キリストの十字架、復活を経なければなりませんでした。主イエス曰く「人はだれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう。これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。」(ヨハネ7:38、39)エゼキエルの預言「わたしは清い水をあなたがたに注いで、すべての汚れから清め、またあなたがたを、すべての偶像から清める」(エゼキエル36:25)は、聖霊の注ぎにより成就したのです。 


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2023-08-05 18:48:45 (96 ヒット)
メッセージ

 「巻物を食べよ」エゼキエル2:1〜3:3


エゼキエルはユダ王国末期に祭司の家系に生まれ、第一回バビロン捕囚にあいエルサレムから遠く離れた地で活躍した預言者です。エルサレムへ中央集権化したダビデ・ソロモンの時代から約450年、何事もなければエゼキエルも30歳になれば祭司職に着きエルサレムで活躍したことでしょう。しかしエゼキエルが25歳の時、バビロンの攻撃によりエルサレムは陥落、やがて神殿も破壊され、王と有力者たちはバビロンに連行され監視下に置かれるのです。信仰の拠点である神殿から遠く離され、当たり前と思われていた祭司の日常・未来は失われました。遠い異教徒の地で何が出来るのか、神は私たちを見捨てられたのか。エゼキエルはケバル川のほとりで祈りをささげていた所、神の幻、語りかけがあったのです。神は彼に祭司としての未来ではなく預言者としての働きを与えられ、彼の人生の目的を示されたのです。神との関係性は場所に制限されません。異国の川のほとりでも、生きる神の臨在に触れ感動を覚えるのです。彼に課された働きとは、神のことばを語り続けることです。対象は「反逆の家:イスラエル、ユダヤ」の人々です。話を聞かない、理解しない。受け入れられないことは最初から分かっていても、現実にそのような態度を取られると心折れるものです。いばら、あざみ、さそりに例えられる困難ですが、恐れず行きなさい、「巻物を食べよ」と神は言われます。その巻物には哀歌とうめきと嘆きが記されていました。人間の罪の現実を鋭く突いた言葉や人の汚さ、弱さが記されていたのでしょう。人生の苦味、辛味、酸味が詰まっていそうです。しかしそれを口にすると(信仰によって受け止めるならば)「蜜のように口に甘かった」というのです。くり返し「巻物を食べよ」と言われるのは、神の御言葉である聖書を、かみくだいて体内に取り入れるように自身の(霊性の)血肉とせよ、ということです。それは甘い蜜のように活力を与え、豊かな信仰へと変えさせて下さるのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2023-07-28 14:34:47 (102 ヒット)
メッセージ

「あなたが生きながらえるために」エレミヤ38:14〜28

巻物を燃やしたエホヤキム王の息子、エホヤキンはバビロンに連行され(第一次バビロン捕囚)、代わりにゼデキヤが南ユダ国の王にされました。バビロンによる傀儡政権を嫌う過激な主戦派と、偽預言者による勇ましい預言が絶えずなされ、ゼデキヤ王は国内のユダヤ人にも抗しがたい状況にいました。政府にはシャパン一族のようにエレミヤら預言者を庇護するバビロン恭順派もいましたが、主戦派がエジプトに援軍の約束をとりつけ、ゼデキヤが王位について9年目、バビロン王ネブカドネザルはユダヤ王国の裏切りを聞き自らバビロン軍を率いて出陣し、2年ほどエルサレムは包囲されます。エジプトの援軍が進撃したことでバビロン軍の包囲は一時解かれます。ユダの人々は、エルサレムはやはり主に守られている、決して滅びることはないという思いが強く湧き上がったに違いありません。それに反論するエレミヤの厳しい言葉は戦士や民全体の士気をくじく、と首長たちは彼を殺すよう王に進言します。ゼデキヤが優柔不断な態度をとった結果、エレミヤは監視の庭にある水溜の穴に投げ込まれました。泥土の中に沈み、飢え死にするのを待つばかりです。ところが、そのことを聞いた王はエレミヤを穴から救い出し、再び、監視の庭に置きました。表立って弁護はしないものの、エレミヤの語る主の言葉に恐れを感じていたのでしょう。38章14節以降には、人目を避けて王とエレミヤが密談したことが記されています。「もし自分が投降した場合、ユダヤ人らが自分をなぶりものにするかもしれない」とゼデキヤが不安を吐露すると、エレミヤは「あなたに語っていることに聞き従ってください。そうすれば、あなたは幸せになり、あなたのいのちは助かるのです」と断言しました(38:19〜29)。主の約束はいつも単純です。「〜しなさい。そうすれば、〜なります。」この定式は私たちに信仰を求める神の呼びかけです。「降伏すれば、生きる」というのは簡単なようで、到底不可能なことなのです。これはゼデキヤ王個人の問題ではなく、イスラエルの歴史が引きずってきた重い問題を正しく理解して、神への信仰を根本から問い直すことが求められたのです。

 


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