アーカイブ | RSS |
投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2020-02-29 17:46:04 (59 ヒット)
メッセージ

「イエスの家族」マタイ12章46〜50節
「私の父の御心を行う人は、誰でも私の兄弟、姉妹、また母なのだ」とイエスは言われました。パウロの手紙などからうかがえる「御心」とは、信徒からの視点で「祈り、とりなし、感謝する」ことでした。イエスの語る「神の御心」は父の視点、御子の視点です。神の目的は「人々の救い」です。この箇所に入る前に、律法学者やパリサイ派とイエスとの間でベルゼブル論争がありました。彼らにとって、イエスの行いと教えは驚異的なものでした。目が見えないが見えるようになり、足がなえて立てない人が歩けるようになり、悪霊が追い出されるといった力ある業に対して、イエスが何の権威によってその教えといやしを行っているのかを「悪霊の頭ベルゼブルによるのだ」と悪口を言ったのです。また数々のメシアのしるしを見ながらも、もっとすごい事をやって見せろと言うので、イエスはあきれて「邪悪で不義の時代はしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしの他には与えられない」と語られました。病をいやし、嵐をしずめ、5000人以上の人々の給食など、福音書には書ききれない程の奇蹟を行われましたが、救い主としての究極の奇蹟が十字架による死の3日後の復活だと言われたのです。イエスの兄弟たちは、イエスが祭司たち、律法学者やパリサイ人たちと争えば、自分たち家族がとばっちりを受けると思い、地元から離れてくれとイエスに話に行きました。そこでイエスは彼ら兄弟の思いと、イエスに反対する人々とのやりとりを踏まえ、「私の父の御心を行う人は誰でも私の家族なのだ」罪を自覚し、天の父のあわれみを受け取り、御子による救いを信じる人々こそが祝福を受ける、神の家族なのだと語られたのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2020-02-29 17:44:24 (54 ヒット)
メッセージ

「天の父の御旨を行う者」マタイ7章15〜23節
この箇所は「山上の垂訓(説教)」の結論の部分です。ここでイエスは偽預言者に気を付けろと警鐘します。そもそも神の預言者とは、神から御言葉を預かり人々に告げ知らせる者です。またそれは未来についての予言も含まれていました。ゼカリヤ、マラキから400年以降、イエス登場までの間、預言が絶えたイスラエルの人々はこれまで語られた神の御言葉の保存、文書化の編纂事業を行いました。しかしローマの圧政に苦しむ民衆が待ち望んだのはモーセやダビデのような指導者、申命18:15の預言者でした。世が不安定になり神への期待が高まると、偽預言者や自称「神の子」が登場し、民衆を惑わしたのです。その外見や肩書やパフォーマンスが人を魅了するものであったとしても、「羊の皮をかぶった狼」かもしれません。人の本質を見極めるのが難しければ、その人が語り、行うことがどのような実を結ぶのかを、距離を置いて観察しましょう。不誠実、欺瞞があるならばやがて偽者は滅びに向かいます。一方、偽預言者らに浮き足立つ民衆を冷めた目で見ていた階層もいます。祭司階級、律法学者など宗教的エリートは政治力も持っていた為、自分たちの権威が脅かされるものは警戒していました。自分たちは選ばれている、自分たちは知っている、呪われた罪深い者たちは何も持っていないし何も知らない、と民衆を見下し、あわれみの心を持たない、関わらない、その態度をイエスは叱責します。「私が喜ぶのは慈しみであっていけにえではない。神を知ることであって焼き尽くすいけにえではない。」(ホセア6:6)イエスの怒りは神の御心を知ろうとせず、行おうとしない人々に向けられたのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2020-02-07 10:38:05 (64 ヒット)
メッセージ

「キリストのなされたこと」コロサイ1章15〜23節
キリストが私たちのために成して下さったことは 1.世界の創造 2.万物との和解です。まずキリストがどのようなお方か知らせるために世界の創造が語られます。創世記では人間を「我々のかたち」すなわち神の姿に似せて造られたとあります。キリストは造り主なる天の神と同様の本質を備えられておられるので、造られた物(者)が受ける制限(物質、距離、時間など)を受けません。造り主はそれらの枠外にあり、造られたものを越えられるお方です。御子キリストが神と被造物との和解のためになされたのが、十字架による罪の贖いと「聖め」だったのです。罪を赦され、聖なる、傷のない、責められることのない者とされた私たちに、神が期待されることは何でしょうか。/仰に踏みとどまることです。情報過多の時代にあっても世に流されることなく神の言葉を否定する様々な試練や誘惑がありますが、最も価値のある神の愛・キリストによるいのちに勝るものはありません。∧_擦隆望から離れないことです。罪ある人による非情、または人知を超えた出来事があったとしても、それが神と私たちを切り離すものではありません。失望の扉は私たちの側にあるのです。自分の持てるものには限界があっても神の愛には制限はなく、神の力は地にあるもの天にあるもの世界のことごとくに及んでいます。どんな状況でもあきらめない、神様に希望を持って信仰に踏みとどまることを聖書はすすめています。キリストが私たちのために成して下さったことを日々喜び、赦された者として神と共に生きることができることに感謝し、希望を失わず歩もうではありませんか。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2020-02-01 08:26:30 (59 ヒット)
メッセージ

「パウロの願い」コロサイ1章9〜14節
この箇所でのパウロの願いとは何でしょうか。/世慮羶瓦鮨爾知ることが出来るように:私たちの祈りや関心の多くは自分の願いの成就ではないでしょうか。何かささげる代わりに神を従わせようとするなら、それはご利益信仰でありキリスト信仰とはかけ離れたものです。パウロの願いは人々が神の御心を知る事、私たちが神にして欲しいことを強要するのではなく、神が私たちにこうあって欲しいと願っておられる事に気づくことです。祈りの大きな目的の一つは、神の御心を知り、神に聞き従い「御心がなされますように」と願うことです。⊃世鮨じる者が知恵と理解力が増すように:関心を持ち「知ろうとする」ことは、愛し、仕えるために有益です。真理は人を自由にし、力を与えるものです。その真理が人を神の前に正しい行為へと至らせるのです。神の真理について理解が深まることを神は喜ばれるのです。神の愛について理解が深まるほど信仰も豊かにされます。その豊かさが強さです。耐え忍ぶ力となるのです。4遒咾鬚發辰憧脅佞垢襪海箸出来るように:顱Ю擦覆詈の相続の資格が与えられていることを喜ぶ。髻Ц羯劵ぅ┘垢了拉朮爾飽椶気譴討い襪海箸魎遒屐8殿紂∪鐐茲両〕国は敗戦国の民を捕らえ強制移住させ土地と人、人と人の絆を分断し民族の力を弱らせ支配する方法がとられることがありました。奴隷として使役されることもあったのです。御子イエスの支配はその真逆です。闇から光へ、罪の奴隷から自由へと解放されるのです。パウロの執り成しの祈りは御前に受け入れられ、今日も聖徒は整えられていくのです。私たちも御心を行わせてくださいと祈ろうではありませんか。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2020-01-23 15:07:53 (50 ヒット)
メッセージ

「キリストにある新しい生活」ローマ12章1〜8節
ローマ書では「神は不従順をも、恵みを与える機会として用いられる」と驚くような神の知恵の深さを賛美しています。そして神の喜ばれる聖なる供え物として「あなたがたのからだを」ささげることを勧めています。創世記ではアベルが家畜の群れの初子をささげ、神に受け取られました。申命記などによると礼拝行為の中にあがないのいけにえをささげる儀式がありました。神のきよさに対する人の罪深さ、汚れを身代わりとなって血を流すために多くの動物がほふられたのです。旧約における礼拝にはいのちの犠牲が深く関わっています。そしてイエス・キリストがいのちの犠牲となり完全ないけにえとなられたので、もう礼拝の中で血を流さなくても良いのです。キリストによって罪ゆるされ、いのちを与えられた私たちに対し、パウロは「あなたがたは世に流されてはいけない、世の常識や価値観に妥協してはならない、真理に立ち神と共に生きることで、あなたがたの存在を聖なるささげものとしなさい」と言っているのです。「心を新たにして自分を造り変えていただき、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかをわきまえるようになりなさい」(2節)とありますが、人格的に完全無欠であれという意味ではありません。ノアやダビデを「全き人」と表現するのは人格的に落ち度がない人、という意味ではありません。人の弱さを私たちと同様に持ち、失敗もしました。しかし神を信頼し、神の言葉に従い、生涯を神と共に歩む中で、神は彼らを信仰において全き者とみなされたのです。私たちもキリスト者として生きることが神に最大のささげものをし、礼拝をしていることなのです。


« 1 2 3 (4) 5 6 7 ... 87 »
ID : Pass :