アーカイブ | RSS |
投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2022-03-04 10:05:02 (75 ヒット)
メッセージ

「祝福を受け継ぐため」ペテロ擬蟷3章:8〜12節
信仰とは、罪赦され永遠のいのちを得る幸いだけではなく、この地上での人生の尊さ素晴らしさに気づきが与えられ、その豊かさをいただけるものです。ペテロは失敗もしたゆえに、人の愚かさや弱さ、罪深さを知る人でした。8節に「最後に言う」とありますが、内容は前の記述の繰り返しです。大切なことを表現をかえて強調しています。ヽГ了廚ぁ平粥砲魄譴弔砲掘↓同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、8虚であり、ぐをもって悪に報いず、かえって祝福しなさい。これは特定の立場や能力のある人にのみ言っているのではなく、信仰に生きようとする全ての人々に語りかけています。ゲッセマネでイエスは「聖なる父よ、‥彼らを守ってください。私たちのように、彼らも一つとなるためです」と祈られました(ヨハネ17:11)。父なる神と子なるキリストが同じ心であるように、神に愛された人々もまた心を一つとするよう望まれているのです。イエスの御教えは「迫害する者のために祈れ」でした。報復の連鎖を祝福によって断つ。恨み憎しみの毒は心をむしばみ、心の平安は遠いものとなります。ペテロは詩篇32篇を引用し、「人の悪口を言うな。平和を追い求めよ。主が私たちを見ておられ、祈りは聞かれている」そして神の祝福を受け取るよう、勧めるのです。私たちも主の祝福を受け継ぐために愛、謙遜、平和を求めようではありませんか。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2022-02-25 10:43:32 (82 ヒット)
メッセージ

「互いを敬う」ペテロ第一の手紙3章:1〜7節
「互いに愛し合う」の表現を変えると「互いを敬う」です。「敬う」とは相手を立て、礼を尽くしてふるまうことです。夫婦は社会生活を営む最小単位の共同体です。最も信頼でき、助け合い仕え合えるパートナーが理想です。しかし近すぎて「つまずきの石」になる可能性が高いのも夫婦であったり、親や子、家族であったりします。生活を共にし、距離が近すぎると、相手の汚い面、弱い面が目につき、思い通りにいかない腹立や摩擦が生まれたりします。近すぎてまるで自分の体の一部であるかのように遠慮がなくなり、ろこつに自己中心的な要求をしたり、時には服従させようとしてしまいます。この聖書箇所では、夫たる者は妻を「自分より弱い器と認め‥いのちの恵みを共に受け継ぐ者として尊びなさい」と言っています。また妻たちには「自分の夫に従いなさい、妻の無言の行いによって(夫が)救いに入れられるだろう」「(柔和でしとやかな霊という)人柄を飾りにしなさい」と勧めています。これらの訓戒は男尊女卑を肯定しているのではありません。この箇所の前に「…神のしもべにふさわしく行動しなさい。全ての人をうやまい、兄弟たちを愛し、神をおそれ、王を尊びなさい」という前提があります。キリストが命がけで人々を罪と死の支配から救い出されたように、キリストが教会を愛したのと同じように、キリストを模範として、夫は自分の全存在をかけて妻を支え守ろうとしなさい、と言うのです。「そうすれば祈りは妨げられません」反対に言うと、支え合うべき相手と不和があれば祈りは妨げられる、平安はないということです。夫婦で互いを大事にし、敬い合える関係性の中で、心から相手のために祈ることができるのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2022-02-25 10:27:09 (75 ヒット)
メッセージ

「主の恵みに生きる」ペテロ第一2:11〜25
「クリスチャンで良かった」「イエス様を信じて幸いだ」と、今も感謝しているでしょうか?それは主の恵みに生きている者の実感です。クリスチャンが幸いだと信仰を働かせる時の多くは、逆境の時ではないでしょうか。今日の箇所は「主の恵みに生きるヒント」が教えられています。〆欧寮錣ぁА崙の欲」とは物欲というより自分勝手で自己中心的なものの考え方・動機のことです。⇔派にふるまう:外見の服装や所作でなく、神に喜ばれる行動を選ぶことです。A瓦討凌佑魴匹ΑГ匹里茲Δ平佑眇世飽Δ気譴紳減澆覆里世鳩匹ぢ困屬海箸蓮⊃世魄Δ兄鼎┐襪海箸膨未犬泙后6気┐蕕譴織劵鵐箸暴召辰栃發爐海箸でき得るなら幸いです。しかし、そう簡単に行うことはできません。人生には辛いことがあり、人に対して悲しみや悔しい思いを抱え、怒りに震えることもあります。とても愛することが出来ない人や許せないこともあります。どうしたらいいでしょうか?この箇所ではさらに、奴隷という自由のない抑圧された人々に対し、ど堙な苦しみがあっても耐え忍べば神が喜んでくださる、と教えます。理不尽がある、ひどい扱いがある。しかし仕返しするな、悪をもって悪に報いるな。報いは主がしてくださる、と。これは旧新約共通の教えです。「目には目、歯には歯」これは加害者側の、被害者に対する賠償責任の規定で、仕返しを推奨しているのではありません。イエス様は「迫害する者のために祈れ」と教えられました。そのイエス様は人々を罪と死の支配から救うために、不当な苦しみを耐え忍ばれました。辛く悲しい時に、苦しい時、報復するのではなく、イエス様にならい、神の御心を求めて祈りましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2022-02-11 10:06:10 (87 ヒット)
メッセージ

「福音を伝えるために」ペテロ第一2:1〜10
私たちは、暗闇から光の中へ招き入れて下さった神の御業を、福音を広く伝えるためにどうしたらよいのでしょうか。「あなたがたは、神の生ける言葉によって新たに生まれ変わった」だから、「混じりけのない(霊の)乳=御言葉を慕い求めなさい」と勧めています。人の権勢も栄華も、草花のようにいずれ枯れ衰えるものです。人の心も感情も不変ではなく、悪意や偽善や妬みがむくむくと湧き上がり、状況に左右されやすいものです。しかし主の言葉は永遠に変わることがなく、救われた後もキリストに似た者として整えられるために、人生の素晴らしさ、豊かさをより知るために必要です。「あなたがたは主が恵み深い方だということを味わったはずです」自分の弱さや汚さ、罪深さに気づいた時、そんな自分を選んでくださった神の愛の深さ、傷も染みもないキリストの尊さを体験したはずです。その恵みの体験は人生で一度きりのものでしょうか?「主のもとに来なさい」聖書に書いてあることを学び、御言葉を味わっていけば、人との関わりの中で主が成長させて下さるのです。何故、教会が必要なのでしょうか?人との関係性の中でむしろ問題や悩みも生じますが、神の家はキリストが礎となっています。「あなたがた自身も生ける石として」霊の家を造りなさい、「聖なる祭司となって神に受け入れられる霊のいけにえをキリストを通してささげなさい。」「清い心で深く愛し合いなさい」霊のいけにえとは私たち自身の存在です。信仰により賛美と祈りをささげへりくだって互いにいたわり仕え合う姿、神の民として共に支え合う姿が、何にもまさる神を証しするものなのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2022-01-29 09:26:00 (138 ヒット)
メッセージ

「互いに愛し合いなさい」ペテロ第一1:20〜25
信仰と希望は神様のご計画の中で用意され、私たちに与えられた<賜物>です。偶然が重なったものや、人間の思いつきで出来たものではなく、私たちが死ぬほど努力して多くの経験を積んだから得られるものでもありません。「宗教をつくる」ことは人の手で可能であっても、人を罪から救い出すことは決してできず、むしろ人々をまどわす罪深い行為です。私たちが救われたのは、他でもない神の子キリストが罪と死の支配からあがなってくださったからです。「あがなう」とは奴隷が自由を得るために相当の対価が支払われることを意味します。キリストはその尊い血潮で私たちを買い取って下さいました。私たちに自由を与え、解放して下さったのです。そして神は、救われた私たちに「互いに愛し合いなさい」とご命令されているとペテロは述べています。キリストの犠牲の愛、不純な動機や条件付きの愛ではない、聖い愛で、互いにいたわり合いなさいと勧めています。また「心から熱く愛し合いなさい」とも言っています。私たちはつい人に見返りを求めてしまいます。家族が、友人が自分の思う通りに動いてくれないと不満を感じ、自分が親切にした分だけ、それ相応の報いを期待してしまいます。しかし愛の戒めは、他の人が必要としていること、他の人の益となることを、自分の手を伸ばして(身を乗り出して)熱心に、思いやり、関心を持ち、配慮しなさいと言っています。実現できない崇高な理想でしょうか?クリスチャンだから自然にできるわけではなく、人生の課題として向き合い続けなければなりません。人を愛するために、愛の心を下さいと神に向き合い続けて私たちは歩んで行くのです。


« 1 2 3 (4) 5 6 7 ... 107 »
ID : Pass :