アーカイブ | RSS |
投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-06-14 10:51:47 (62 ヒット)
メッセージ

「使徒の働き」使徒行伝1章15〜26節
心を合わせ祈っていた弟子たちのもとに、悔い改めた人々が120名ほど集まっていました。その中から新しい使徒となる人を選ぶ必要があることをペテロは話しました。主イエスを売ったイスカリオテのユダと交代すべき候補者の条件は、ー腑ぅ┘垢鮠擇靴任る力を備えていること。使徒の意味は「送られた者」であり、権威をゆだねられた者です。その遣わした方イエスを証しするにふさわしい献身者であること。▲丱廛謄好泙離茱魯佑砲茲訐覿騎萋鯵始の時から生前のイエスをよく知り、復活し姿を現したイエスが同じ人物であることを証明できる者。イエスの公生涯の全期間、「いつも私たちと行動を共にした者」であること。人の推薦によるのではなく、主イエスの権威によって選ばれた者であること。12使徒の役割は新しいイスラエルの12部族長に匹敵する職務であり、紀元一世紀だけに存在したものです。後に使徒ヤコブが殺されても教会は補欠選挙をしていません。ユダに代わって復活の主の証言をする使徒として、同じ条件の候補者が2人いても1人しか選ばれないため、くじ引きで決めました。主イエスがおられた時は御言葉によって明確にされましたが、聖霊が降臨されるまでのこの期間のみ、主の御心を知る方法として旧約時代から行われてきたくじ引きを行ったのです。一同の中からバルサバ(安息日の子)というあだ名でラテン語ではユスト(正義漢、正直者)というヨセフと、マッテヤ(ヤハウェの賜物)の2人が立てられましたが、くじはマッテヤに当たりました。人が集まる所が巨大になると制度化し組織化して整えられますが、周りへの影響力や権力が大きくなるにつれて教会は形骸化し、祈らず人知によって物事を決定しがちです。しかし「教会の実力」と錯覚してはなりません。聖霊が働かれてキリストの体なる教会が機能するのです。12使徒の再建の折に、一同が全て人の心を知っておられる主におゆだねしたように、私たちも御前に静まり、心の姿勢を正しながら御心が何であるかを示していただくよう祈りましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-06-14 10:50:01 (56 ヒット)
メッセージ

「皆で心を合わせ」使徒行伝1章12〜14節
復活されたイエスの命令に従って信じる人々はひと所に集まり、心を合わせて祈っていました。イエスの弟子たち、イエスを信じる女性たち、イエスの兄弟らは信仰によって一つとされていましたが、最初から一致していたわけではありません。十字架の贖い、復活、昇天を通してイエスが真の救い主キリストであったと信仰の確信を得たのです。イエスの弟子たちはガリラヤの漁師や取税人、熱心党(ユダヤ教の中でも特に排他的で国粋主義であり、政治的独立のためには武力闘争も辞さない思想集団)であった者など、職業や立場、主義主張も様々な者達からなる集団でした。取税人ローマの手先としてユダヤ同胞から毛嫌いされていました。中には不正な者もいて私腹を肥やしていたからです。マリヤとヨセフの間に生まれたイエスの兄弟にはヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの名が伝わっています。彼らはイエスの生前はその活動をいまいましく思っていましたが、復活のイエスと出会ってからは信仰の道を歩んだのです。こうした全く異なる背景を持つ者たちに共通するものは罪の自覚と、ゆるされた自覚です。イエスを裏切った、身近にいたのに信じていなかった。真のキリストであったという認識が足りなかったという後ろめたさ。しかし、復活のイエスは彼らに姿を現され、十字架刑以前と変わらず親しく関わってくださいました。変わらぬ愛を示せてくださったことにより「自分は赦されている、受け入れられている、愛されている」ことを知り、主に従うことを決めたのです。神の約束された聖霊を待ち望み、心を合わせ祈っていたのです。聖霊が降臨した弟子たちが特別だったわけではありません。彼らにも間違いや失敗がありました。職業や立場、思想背景の異なる者たち、個性はそれぞれ違っても信仰によって一つとされ、同じことのために祈っていました。キリスト者はいつもこうあるべきなのです。ペンテコステの日はいつだからとかではなく、神様の憐れみをもっと深く知るために、イエス様の愛を受け取るために聖霊に満たされ信仰による勇気と知恵と力を受けるために、私たちは絶えず主の御前に出て、同じ主を信じる者を兄弟姉妹と呼び、心を合わせて祈ることが出来ますように御霊の満たしを求めましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-06-14 10:48:09 (48 ヒット)
メッセージ

「助け主を遣わすため」 聖書箇所 ヨハネによる福音書16:7説教者 村上渡師

「私が去って行かなければ、あなたがたの所に助け主は来ないであろう…」イエス様は親しく交わる弟子たちに真実を明らかにし、イエス様が去る意味をはっきりと語られました。私たちが愛する人に、生涯をかけて望みをおいている人に「私は去って行かなければならない」と言われたら、心から動揺することでしょう。
十字架が近づいてきている時、食事の前にイエス様は弟子たちの汚れた足を洗われました。イエス様は弟子たちにその愛をあますことなく全身全霊をもって現わされたのです。弟子たちもイエス様の愛を大いに感じていたことでしょう。だからそのイエス様が「私が去ることはあなたがたにとって益なのです」と言われても、別れがなぜ益なのか、私たちには不思議でしかありません。
イエス様はなぜこの世に来られたのでしょうか?弟子たちに教え、愛し尽くされ、それが目的でも良かったのではないでしょうか。しかしイエス様は預言が成就するために来られました。十字架の贖いを成し、よみがえられ、助け主を遣わすためです。イエス様はこの世に生き続けることを究極の目的とはしていなかったことを覚えていただきたいのです。
聖霊は神の霊です。キリストを明らかにする霊であり、キリストと共に働かれる霊です。三位一体の神です。その聖霊を通して私たちは神を、キリストを深く知ることができるのです。だから私たちに本当に必要なのは物理的に目に見える形でイエス様が存在することではなく、イエス様が約束して下さった聖霊なのです。
聖霊が来られると、どうなるのでしょうか。
罪について義について裁きについて世の誤りを正す
誰も自分の力で罪に打ち勝つ人はいません。神と断絶状態にあると気づくことができるのは聖霊の働きです。
すべての真理に導く 
真理とは何でしょうか。「私が道であり、真理であり、命なのです」
イエス様がどのような方であるのか悟ることができるのは聖霊の働きによるのです。
神の栄光を現わされる
 宣教の業とは御霊の業です。なぜイエス様が天に昇ってから2000年間、今も奇蹟が起こり続け、救われる人が起こされ続けているのか、それは御霊が今も働いておられるからです。宣教の火をつけたのは聖霊が降臨したからです。聖霊が注がれ、人々の人生が変えられ、世界中に宣教が広がったのです。
しかしイエス様の権威なくして聖霊が注がれることはなかったのです。ですからイエス様は天の門を開くために、宣教の幕開けのために、この世に来られたのです。
ですから私たちの目的はイエス様をまず信じること、そして聖霊の注ぎを豊かに受けることではないでしょうか。
イエス様は神様です。神の性質とは何でしょうか。全知全能です。イエス様も出会った人の背景の全てをご存知でしたし、ご自分が発せられた言葉がどうなるかも全てご存知でした。イエス様は歴史を全てご存知の上で、助け主を送ると言われたのです。
私たちは自分の目で全てを悟ろう、未来を見ようとしてもそこに神様の御思いはありません。神様が私たちに願っていらっしゃるのは、私たちが主の目線に立ってこれからのことを見ることです。イエス様が見ておられた景色は宣教の幕開け、大収穫の始まりです。ユダヤ人に伝えていた福音が、やがて全世界に広がることを知っておられて聖霊が注がれることを約束されたのです。
新島襄は同志社大学を設立する際、出資を募るため勝海舟の元に訪れました。
依頼された勝海舟は新島の人物を推し量るため、ある質問をしました「あなたの計画する大学が完成するのは、何年かかると考えていますか?」新島の答えはこうでした「200年です」ずいぶん時代が変わった先だと言うのです。自分は当然死んでいるが、新しい世代が活躍している時代を見据えていたのです。
イエス様は何を見ていらっしゃったのでしょうか?新しい時代が来るのを、新しい人々が立ち上がるのを見ていらっしゃったのです。その人々に聖霊が注がれ、神の愛が語られる、大胆に福音の業が行われる時代を見ていらっしゃったのです、その時代とは「今」なのです。
「何事でも私の名によって願うならば、私はそれをかなえてあげよう。」
私たちが神の業を行うために必要なものがあるなら、イエスの御名によって父なる神に願うことは、何でもかなうと主は言っておられます。私たちのために助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう、と言われたその日は「今日」なのです。明日ではありません。過去のものでもありません。イエス様がおっしゃった「その日」は全て「今日」を指しているのです。私達はそのために、主に祈るために「今日」集まっているのです。あなたが信仰によって歩むならば、どんな困難が待ち受けていようと、信仰を失いそうになったとしても、あなたがたが求めるならば主が言われた「その日」は「今日」なのです。
イエス様の言葉は死んでいません。イエス様の言葉は生きているのです。イエス様の言葉は形になるのです。イエス様の言葉は歴史になるのです。
神様の霊が注がれる時、私たちの能力でできないことが出来るようになるのです。
私たちは「福音を伝えて信じてもらう」ことがどんなに困難か、何度も挑戦しては失敗した体験から知っています。しかし人がその罪を認めることができるのは聖霊の働きによるのです。イエス様を救い主と信じることができるのも聖霊の働きによるのです。
いやしの業や、神のあらゆる栄光の業が現わされるのも聖霊の働きによるのです。
「その日」が「今日」来ていると信じて祈ろうではありませんか。
私達はその助け主を「今日」降して下さい、と祈ることができるのです。信仰によって約束された「その日」を、明日ではなく「今日」お迎えしますと祈りましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-05-25 15:37:04 (65 ヒット)
メッセージ

「ゆだねられた尊いもの」競謄皀1:1〜13
先週、人には「思いもよらない出来事」であったとしても神はそれをもご計画のため用いられる、というお話をしました。第二次伝道旅行においてパウロとバルナバはマルコについて意見が分かれ、それぞれ別の道を行くことになりました。ケンカ別れ自体は悲しい出来事ですが、伝道チームが二分されたことによって宣教は拡大していくのです。パウロも青年テモテと出会い、得難い助手を与えられました。テモテの父親はギリシャ人ですが、祖母ロイスと母ユニケ、子テモテへと三代に渡って信仰を持っていました。おそらくテモテも幼い頃から聖書に親しみ、祖母や母から御言葉を教えられていたことでしょう。また母の祈る姿や、人を親切にもてなす祖母の姿などを幼い頃から見て育ち、信仰者としての生活を家族を通して学んだことでしょう。使徒16:31に「主イエスを信じなさい。そうしたらあなたもあなたの家族も救われます」とありますが、身近にあなたの生活を見ている家族もまた、あなたと共にいる神を知る機会、すなわち信じるきっかけを日常の中で提供されているのです。パウロは「主を証しすることを恥じてはなりません」とテモテに呼びかけ、あざけりや中傷、福音のための迫害を怖れてはならない、むしろ志を同じくするならば「私と共に苦しみを忍んで下さい」と願っています。救われた者がゆだねられた任務は、神から与えられた良い賜物を守ること。臆病の霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊である聖霊の働きにより宣教を前進させることだと語ってします。「この道」を選んだのは私達の意図や思惑によるものではなく、全て神の御手による導き、福音のために立てられたご計画により神に選ばれたからです。私達は健全な御言葉を学び福音をかけがえのない価値あるものとして大切にし、家族に人に伝えて行きましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-05-17 11:33:14 (73 ヒット)
メッセージ

「聖霊によって」使徒行伝1章1〜11節
聖霊の存在、力が目に見える形で顕著にされたのはペンテコステの聖霊の注ぎ(降臨)の出来事ですが、聖霊は聖書の随所で直接、間接的に使徒たちを導き、励まされています。ルカによる福音書ではまずバプテスマのヨハネによる洗礼があり、聖霊が鳩のような姿でイエスに降りてくる記述があります。聖霊から力が与えられ、そこからイエスも力強く宣教を開始されます。バプテスマのヨハネは「この方は聖霊と火によってバプテスマを授ける」と語っていましたが、イエスは十字架と復活の後、40日にわたり弟子たちに姿を現され神の国について語られました。イエスは十字架の前に「私が去ることはあなたがたにとって益なのです」と(ヨハネ16:7)、父の約束である聖霊が注がれることも見すえて語られています。イエスの復活後、まだ主の使命を思い違いしている弟子たちにはイスラエルの再興について「あなたがたの知る限りではない」とし、ただ「聖霊を受けよ、あなたがたは力を受けて〜地の果てまで私の証人となる」と語られます。弟子たちが神の計画と御心を知るにはこれまで培ってきた宗教意識、先入観、偏見などの垣根を越えなければなりませんでした。彼らにとって異邦人の救いなどは思いもよらないことなのです。彼らがそこに留まる限り世界宣教など成し得なかったことでしょう。それら垣根を越えさせる力が聖霊なのです。迫害者サウロの回心(使9章)、パウロとバルナバの別れ(使15章)など、思いもよらない出来事であっても神の救いのご計画に用いられることがあるのです。聖霊によって力を受け励まされた弟子たちによって福音伝道が力強く進められる様が記される使徒行伝は、聖霊行伝とも呼ばれています。今の困難や苦しい状況にも、神は人の思いもよらない方法で働いてくださいます。私たちの思いや願いを越えて神はその御業を成して下さるのです。聖霊が私たちに信仰による勇気を与え導いてくださるのです。


« 1 2 3 (4) 5 6 7 ... 80 »
ID : Pass :