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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-04-18 11:16:21 (57 ヒット)
メッセージ

「証言」マタイによる福音書26:57〜75
本日の聖書箇所には証言する場面が3つ出てきます。(1)大祭司と議員たちによる裁判 (2)イエスの証言(3)ペテロの証言です。(1)裁判はイエスを殺めるために準備されたものでした。宗教性と民衆の秩序を守るという大義を隠れみのに、自分たちの権威・利益を守ろうとしたのです。イエスを排斥しようとする人々の偽りの証言はイエス処刑の理由にはなり得ません。しかし最後の2人から「神の神殿を打ち壊し、3日あれば建てることができる」とイエスが言っていたという証言は、聞く者によると神を冒涜する立派な理由になったのです。というのは当時のエルサレム神殿はヘレニズム文化の一つの頂点というほどの壮大で荘厳なもので、ヘロデ大王による工事開始から完成まで40年程かけたものでした。ユダヤ人の宗教的な誇りでもあったのです。その聖なる神殿を打ちこわし3日で建て直すなど冒涜以外何ものでもなかったのです。イエスのことばの真の意味はヨハネ福音書(2:20〜22)に解説があります。3日あれば建てなおすとは十字架によって殺されても三日後によみがえる主の復活のことだったのです。神を信じる者の体、すなわち神が住まう神殿(聖霊の宮)のことでしたが、そんなことは誰も理解できませんでした。(2)「お前は神の子メシアなのか」という祭司の問いに対し、「わたしは言っておく。間もなく人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」と、イエスご自身が審判者として来られる再臨を予告したのです。祭司長たちからすると想像を超えたイエスの受け答えは死刑の理由の決め手となったのです。(3)同じ頃、裁判が行われていた屋敷の邸内にいた弟子のペテロは3度「イエスなど知らない」と証言しました。「わたしは死までもお供します」と誓ったのに、彼の信仰や情熱はもろく崩れ去りました。鶏の鳴く声に「3度知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、外で激しく泣き崩れます。自分の弱さ、汚さ、嫌らしさに打ちのめされたのです。しかし実に信仰はそこから始まるのです。救い主イエスは罪深い人のために救済者として来られたのです。自分を含め何者も抗うこと出来ない罪と死に勝利してくださる主イエスが、今日も迷える私たちに十字架による犠牲でもって神の愛をお示しくださるのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-04-11 14:24:20 (65 ヒット)
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「契約の血」マタイ福音書26章17〜29節
過越しを守ることは律法に定められたことです(出エジ12章)。各地からイスラエルの民が過越しの祭りのためにエルサレムに集うので、大勢の人で賑わっていました。前もって準備しなければ宿泊・食事に支障をきたしたことでしょう。弟子たちがイエスに相談すると、すでにイエス様は段取りされていたようです。何食わぬ顔で会計係のイスカリオテのユダもその準備に携わっていたことでしょう。過越しの食事の席でイエスは一人の弟子の裏切りを予告します。ユダは自分たちの願いや計画・予定とイエスの目的は異なることに気づき、早々にイエスに見切りをつけ、祭司長にイエスの居場所を告げて銀貨30枚で売り渡します。神の御子が全ての人の贖いのため犠牲になる。それは神のご計画でしたが、そこに至るための道筋はいくつもあったことでしょう。人が与えられた自由の中で、信頼している仲間を欺き、主イエスを裏切る。それは忌むべきことで神が悲しまれることなのです。イエスは最後までユダが考えを変え、悔い改めることを望んでおられましたが、イエスの促しにかかわらずユダはやがてイエスのもとを離れます。イエスはパンを割き弟子たちに与え杯を取り、これは多くの人(全ての人)のために(代わって)流す契約の血(犠牲)であると話されました。人々の思いもよらない方法でもって神の罪の赦しと救いのご計画は粛々と進んでいたのです。十字架、復活、昇天、聖霊の注ぎを経て信じる者たちは、キリストが人の姿を取られこの世に来られたことと死の意味を知るのです。そして過越しの食事は聖餐へと形を変えて行われ続けるのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-04-06 07:18:51 (69 ヒット)
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「エルサレム入城」マタイ福音書21:1〜11
人間関係において生じる悩みの解決は、人との関わり、つながりによって解決が与えられることがあります。しかし、罪と死についての問題の解決はイエス・キリストの十字架によらなければなりません。世界にはあまたの神々や宗教があり、右に行こうか左に行こうか迷ううちに真理にたどり着けずに生涯を終えてしまうこともあります。私たちが信じている神は世界を造られた方です。この神の御子であるイエス・キリストが救い主であり、罪と死について解決を与えて下さったことを信じるなら、真理について迷うことはありません。しかし、イエスがこの世で働きをされていた当時の人々は、イエスが何者なのか分からず、判断に迷い、イエスを拒む人もいました。説教箇所の当時のエルサレムには100万人以上のユダヤ人が過越しの祭りのために集まっていました。そこにイエスは子ロバに乗って入城されました。群衆はイエスを歓迎しつつも、人々が望むメシヤ像はローマから解放する政治的な王でしたので、少し複雑だったことでしょう。軍事利用された馬でたけだけしく入城するのではなく子ロバに乗られたイエスは平和の王として、柔和な方として来られたのです。ゼカリヤ書9:9の預言の成就です。ここでの柔和というヘブル語は「貧しい、苦しむ、悲惨、へりくだる」という意味もあります。貧しくみじめな姿で苦しみに耐える王が来られる、というのは人々が望む政治的な救世主のイメージには合わないのですが、これこそまさにイザヤが預言している「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている」(イザヤ53:23)メシヤの姿でした。私たちの痛み苦しみを担い、弱さや至らなさを知ってくださる王イエスが救い主(メシア)として来られたのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-03-29 14:45:28 (70 ヒット)
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「誰が救われるのか」マタイ福音書19:16〜26
御国に関する重要な問いは「何をするか」ではなく「何を信じるか」なのですが、本日の聖書箇所にも迷える一人の青年がイエスのもとに真理に関する問いを持って来ました。「永遠のいのちを得るには、どんな良いことをしたらいいでしょうか。」そこでイエスは十戒を守るように話されますが、青年は当然そのようなことは守っていると答えます。自分は地上における神の祝福は目に見える形で(財産家として)受け取っている。職業も議員としてユダヤの地で人々に認められている。他に何の条件を満たせば完璧といえるか、安心することが出来るのかとたずねます。イエスは彼の心の様子を見ながら、鋭くかつ表現は柔らかく彼の必要を語られました(:21)。あなたが持てるものを人に与えよ。その手から離せ。執着を捨てよ。与えることによって天に宝を積むことになる。それは巡り巡ってあなた自身の人格を高めるだけではなく、霊的な豊かな恵みを知ることになるだろう。そこから先はわたし(イエス)に従って(信じ)歩む中で永遠のいのちを得るのだ。ここまで彼は聞いて、自分にはできないと悲しみながらイエスのもとから去っていきました。多くのものを持っていたため、それを手放すことに葛藤したからです。イエスを信じ従うことを、富という偶像のために拒む。富んでいる者が天の御国に入るのは難しい。それを聞いた弟子たちは一様に驚きました。地上の目に見える富は神様の祝福のバロメーターであると思われがちです。律法をよく守り、社会に貢献し、神の祝福である富を持っているのに天国に入るのが難しいなら、いったい誰が天国へ入れるのか。弟子たちの問いに対しイエスは「人にはそれは出来ないが、神には何でもできないことはない」と答えます。天国に入る条件はあなたがたの考えているそれではない。天国への道は一つだ、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです(ヨハネ14:6)」「わたしに従ってきなさい」この金持ちの青年が永遠のいのちを得、御国に入るには、私には出来ないと悲しみイエスのもとを去る事ではなく、私はどうすればいいでしょうかとイエスをお頼りし、信じ、従うことだったのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2019-03-29 14:42:37 (82 ヒット)
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「何度赦すべきか」マタイ福音書18:15〜35
イエスは「7度の70倍」赦しなさい、と話されました。これによく似た表現が創世記4章にあります。「カインのための復讐が7倍であれば、レメクのための復讐は77倍」復讐という、人間の憎しみと怒りを象徴する数字を取り上げてイエスは“限度なく”赦しなさいと話されました。普通の人間が生涯働いても到底稼げない金額です。その国家予算の何年、何十年分もの負債を全て免除してもらうなど、あり得ない話です。主人は「どうか待って下さい、きっと全部お返しします」という言葉を信じたわけではありません。返済できないことを百も承知で、あわれみにより赦したのです。赦された方はただ感謝、絶望的な破産の人生から、万死に値するような迷惑をかけたことを詫び、新しく生まれ変わろうとでも思ったことでしょう。しかし百デナリ貸していた仲間がお金を返せないと言うので、彼を牢に入れて財産を差し押さえて怒りました。600億円の桁外れの負債を帳消しにしてもらった人が、10万円返済できない友人の首をしめて脅しあげたようなものです。それを知った主君は怒って、免除の取り消しをしました。途方もない負債を全て赦してもらったのに、その事がこのしもべの生き方に何の変化も起こしていなかったのです。「7の70倍赦しなさい」と言われると、そんな無茶な命令は自分にはとても無理、と思います。しかしこのたとえ話でわかるのは、赦された者であっても人を赦すことが難しいということです。自分では返済不可能な負い目をイエスの十字架により帳消しにされた、その恵みをしっかり受け取っている人は「7の70倍」までも神様が一方的に赦して下さったという神のあわれみの深さを知り、「赦してもらう」ことの困難さを身にしみて知っているはずです。そして天の神様は兄弟姉妹のことも同じように愛しておられる、という視点に立つとき、無理解から来る怒りと憎しみからその人を理解してみようとする心の動きに変えられるのです。


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