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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2022-09-09 10:38:58 (55 ヒット)
メッセージ

「主の望みと信じる者の望み」ペテロ3章8〜13節

今日の箇所は「望み」がテーマとなっています。神と救い主イエスの望みとは、一人でも滅びることをよしとせず全ての人が悔い改めに至ることです。信仰者の望みとは「主の日(キリストの再臨)」の到来、正義の住む新しい天と新しい地、すなわち神の国の実現です。不法がはびこり罪にまみれた世に心を痛める者にとって、主が約束された神の日が一刻も早く来てほしいと思います。しかしペテロは「主の御前では一日は千年のようであり、千年は一日のようです」と述べます。ユダヤ人にとって神は時間という概念にとらわれない方だと知っているのです(詩篇90:4)。人は時間、重力、物理的なものに制約される存在ですが、神のご性質はそれらに縛られず、人間が越えられない三次元の内でも外でも存在しておられる方です。懐疑的な人、主の日を待ちきれない人は「本当に神がいるのなら現在の苦しい状況から何故救わないのか、再臨なんて作り話だ」と神から見放されたと感じ、失望します。人は本当に大変な時に助けてもらうと、生涯忘れない恩義、信頼関係を結ぶことができます。しかし神の思いは、私たちが考える「時」タイミングとは違うことがあります。殉教した者、苦役を課された信仰者たちが何故助けられなかったのかと私たちは目を向けますが、迫害の中でも希望を見失うことなく敬けんに生きたクリスチャンを見て周りの人が信仰に入る、一粒の麦となって地に落ちてもやがてたくさんの実をもたらす、神のご計画があるのです。神の日には大災害、大きな戦争があると言われます。それは明日かもしれないし、数百年後かもしれません。私たちはその日をおびえて待つのか、まだ先だと忘れて楽しく生きるのか。「目を覚ましていなさい」マタイでは花婿の到来に備えてともしびの油を用意した賢い娘と愚かな娘の結末が分かれた例話があります。「しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように励みなさい」私はまだまだこんなに至らない者なのに、と怯えることはありません、「私たちの主の忍耐は救いである」罪を赦された恵みに感謝し、祈りを絶やすことなく信仰生活を守りましょう。 


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2022-09-02 11:14:13 (55 ヒット)
メッセージ

 「神の言葉によって」ペテロ3章1〜7節

ペテロの手紙ではキリスト者の忍耐と苦難と希望が書かれ、それに対して敬虔な生き方をすすめています。聖書を学んでも学んでも大切なことを覚えきれない、恵まれることは分かっていても時間がない、そんな自分自身に足りなさを覚える、と忸怩(じくじ)たるものを抱くクリスチャンもいます。どうすればよいのでしょうか?私たち一人ひとりが通った信仰の道のりの中で、血となり肉となったみことば、恵みの経験を思い起こし、みがくことです。「苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきてを学びました(詩篇119:71)」御言葉は不思議なものです。信じなければ分からない、体験できないことがあります。反対に、信じることで御言葉がこの身に成るという体験をすることができるのです。ガリラヤ湖上で嵐の中、イエスさまだけを見続けていればペテロは歩き続けることができたのです。風を見て怖くなり、嵐に心を奪われてイエスさまから目を離したから、信じられなくなったのでおぼれかけたのです。「来なさい」と命じられた主の御言葉がこの身になる、と信じて主の御元まで歩み続けましょう。私たちは今現在の自分の歩みと世界だけを見つめて、世を動かそうとする人たちの思惑、意図的に操作された情報に揺り動かされやすいものです。大切なもの・神の国と神の義を見失ってしまうと、与えられた恵みと自由をも失ってしまいます。聖書は「終わりの時」から現在を見つめる視点も与えています。やがて来る時、そこへ向けて今自分はどのようなふるまいをするのか、神の前にも人の前にも恥じない生き方ができるよう、御言葉に親しみましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2022-08-31 10:04:04 (45 ヒット)
メッセージ

 「義の道を心得る」ペテロ21722

聖書で「義の人」と言うのは、一般的に私たちが認識している「義(倫理的・道徳的に正しい、公共の利益のために働くといったニュアンス)」とは少し異なります。「義」は信仰により与えられるものです。神の示す「義の道」を歩むにはどうしたらいいのでしょうか?ペテロの手紙の中で「正しい道を捨て迷っている」「義の道を知りながら」とありますが、クリスチャンが神の御心を知りながら自分勝手に生きていることを指しています。主イエスが語られた福音、使徒たちが伝えようとしている福音と異なる主張をする者が現れ、この世の知恵が入り込んだ間違った教えに惑わされているというのです。カーナビは現在の地点と目的地までの距離や所要時間を教えてくれる便利な機能ですが、目的地設定を間違えるとカーナビの教えてくれる通りに運転しても、間違った場所に着いてしまいます。自分の生きる目的、目指す地点を主のもとに設定しないで、人の欲望や利益を追求することを目標としてしまうと、義の道からそれてしまうのです。福音を喜んで受け入れても、その福音にとどまろうとせず、もう罪は赦されたのだから自由な新しい生き方をしようという考え方をペテロはとがめ、それは罪の奴隷に戻る滅びに至る道だと警告します。また、イエスの救いだけでは完全ではない、平和の君といっても世界から戦争はなくならない、本当に赦されたわけではない、だからもっともっと善行を積んで身代が傾くほど献金をささげましょう、と不安をあおるのもイエスの十字架のあがないを否定した間違った考え方です。罪の世界に身を置いても、イエスと共にいるから平安が与えられるのが素晴らしいのです。キリストの御業は完全であり、永遠のいのちは私たちに示された神の愛のしるしです。無理やりに宗教にひきこまれるのではなく、私たちの自由な意志でこの神の愛に応答し、日々感謝をささげ、神に喜ばれる生き方は何かを考えながら誠実に日々を送る、これが義の道を歩むことです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2022-08-26 21:36:11 (61 ヒット)
メッセージ

 「イエスの名によって」使徒行伝4章1〜31節

美しの門での奇蹟を目の当たりにした人々はペテロの話を聞き、その日大勢の人が悔い改め信仰に入りました。ところが祭司や宮の守衛長たちからすると、イエスの弟子たちは神殿の秩序を乱す迷惑な者、彼らの利益を脅かす者でした。またペテロらが語る死者の復活というのは、サドカイ派の信じる教えの中にはありません。彼らは「死者の復活、天使、霊の存在」を信じず、預言者の権威も認めません。それなのに神殿という自分たちのテリトリーで、信義に反する教えを伝えているのはがまんならないことでした。また、自分たちが殺したイエスが神の計画によって復活したと群衆に語られるのは、自分たちが掲げる正義が真っ向から否定される行為です。ユダヤ教の最高法院の規則によると、死刑になる恐れのある重要な裁判は夜に行ってはならないとされています。だからペテロとヨハネの裁判は翌日にのばされ、それまで拘留されることになりました。イエス逮捕の時には恐れて逃げ出したペテロでしたが、素直に牢に入り、明くる日の審問には役人や律法学者、長老や大祭司らといった権威ある人やエリート階級を前に堂々と受け答えしています。ここにも驚くべきペテロとヨハネの変化が見られます。聖霊のバプテスマを受け、以前とは別人のようです。ペテロは「病人になされたいやしの御業はイエスのみ名による」「あなたがたが十字架で殺したあのイエスだ」「詩篇118:22の預言はイエスのことだ」「救いうる名(「いやし」と同じ言葉が使われている)はイエスにしか与えられていない」と大胆に話すのを見て、皆は「この者たちは無学な田舎の漁師なのに」と不思議に思い、イエスの弟子であることを認め、いやされた男の人もそばにいるのが業腹でした。イエスの弟子を認めるわけにはいかないが彼らを納得させる言葉も持ち合わせておらず、「今後イエスの名によって語るな」と言い含めることしかできませんでした。ペテロら弟子たちは「わたしたちは見聞きしたことを語らないわけにはいかない」と堂々とイエスの御名を語り証してゆくのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2022-08-25 21:28:19 (62 ヒット)
メッセージ

 「美しの門のそばで」使徒行伝3章1〜10節

美しの門での奇蹟を目の当たりにした人々はペテロの話を聞き、その日大勢の人が悔い改め信仰に入りました。ところが祭司や宮の守衛長たちからすると、イエスの弟子たちは神殿の秩序を乱す迷惑な者、彼らの利益を脅かす者でした。またペテロらが語る死者の復活というのは、サドカイ派の信じる教えの中にはありません。彼らは「死者の復活、天使、霊の存在」を信じず、預言者の権威も認めません。それなのに神殿という自分たちのテリトリーで、信義に反する教えを伝えているのはがまんならないことでした。また、自分たちが殺したイエスが神の計画によって復活したと群衆に語られるのは、自分たちが掲げる正義が真っ向から否定される行為です。ユダヤ教の最高法院の規則によると、死刑になる恐れのある重要な裁判は夜に行ってはならないとされています。だからペテロとヨハネの裁判は翌日にのばされ、それまで拘留されることになりました。イエス逮捕の時には恐れて逃げ出したペテロでしたが、素直に牢に入り、明くる日の審問には役人や律法学者、長老や大祭司らといった権威ある人やエリート階級を前に堂々と受け答えしています。ここにも驚くべきペテロとヨハネの変化が見られます。聖霊のバプテスマを受け、以前とは別人のようです。ペテロは「病人になされたいやしの御業はイエスのみ名による」「あなたがたが十字架で殺したあのイエスだ」「詩篇118:22の預言はイエスのことだ」「救いうる名(「いやし」と同じ言葉が使われている)はイエスにしか与えられていない」と大胆に話すのを見て、皆は「この者たちは無学な田舎の漁師なのに」と不思議に思い、イエスの弟子であることを認め、いやされた男の人もそばにいるのが業腹でした。イエスの弟子を認めるわけにはいかないが彼らを納得させる言葉も持ち合わせておらず、「今後イエスの名によって語るな」と言い含めることしかできませんでした。


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