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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2016-12-16 21:04:09 (845 ヒット)
メッセージ

「平和の道」ルカ1章57〜80節
アビヤの組の祭司ザカリヤは自分の組が当番の時に、くじで聖所に入り香を炊く役にあたりました。当時、聖所に入る務めは生涯に一度でした。ただ一人で聖所に入り務めを果たしている時に御使いが現れ、高齢の妻エリサベツに子が生まれることを告げ知らされます。その後ザカリヤは口がきけなくなり、子どもが生まれて8日目の命名の儀式の時に「名前はヨハネ」と人々に知らせた時に口がきけるという奇跡を体験し、神の御業をほめたたえ始めました。ザカリヤは「(人々が待ち望んだ救い主は)ダビデの家系に生まれる。」「幼子ヨハネは主の御前に立って道を備える預言者(救いの知識を民に与える)」と預言しました。また救い主は暗黒と死の影に住む者=罪と死に支配された者を、平和の道へ導くと。大祭司であるキリストは断絶された神との関わりを回復し、神と人との間に平安を得させる働きをされるのです。救い主により「きよく正しく、恐れなく生活をし、仕えさせて下さる」と告げられました。私達は信じた時から神に仕えることができ、とりなしの祈りをし、人々に神の言葉を伝える、万人祭司の働きに招かれているのです。ザカリヤに起こった奇蹟が彼を整えたように、私達も救い主の誕生を人々に伝えながら平和の道を告げる者となれますように。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2016-12-07 14:27:22 (1080 ヒット)
メッセージ

「神の憐れみ」ルカ1章39〜56節
マリヤの訪問にエリサベツの胎の子は喜び踊りました。聖霊に満たされたエリサベツは、胎動をそのように感じることが出来たのでしょう。マリヤとエリサベツは親戚であり、二人とも同時期に神の御業によって身ごもりました。年若いマリヤにとって、初めて子を宿すことも不安がありますが、まして聖霊によって身ごもることに戸惑わないはずがありません。しかし自分に起こった不思議な出来事を分かち合える相談相手が身近に備えられていたのです。やがてエリサベツの子ヨハネは主イエスに先立って行き、その道を備え、罪のゆるしによる救いを知らせる預言者として活躍します。マリヤはエリサベツが聖霊に満たされた時、共に主をほめたたえます。「代々限りなく」人の世が移り変わろうとも神の憐れみは永遠に変わることがないこと、民族や血筋を超えて主の憐れみは「かしこみ恐れる者に及ぶ」ことをほめたたえます。マリヤは1900年以上前に先祖アブラハムに語られた祝福の約束と神の憐れみが今、自分に注がれていると信じたのです。私たちもマリヤと同じように主の憐れみと慈しみを仰ぎながら一日一日主と共に歩むことが出来ますように。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2016-12-01 10:59:50 (837 ヒット)
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「義を受け継ぐ者」ヘブル11章1〜7節
11章は信仰の偉人たちが多く登場します。そして繰り返されている表現は「信仰によって」です。彼らはその信仰によって神の御前に義とされました。ノアは創世記によると全き人・正しい人であり、神と共に歩んだ人でした。これらの表現は道徳的・人格的に模範となりうる完璧な人であったということではなく、生涯を通して神を信じ敬い歩み続けたという意味です。信仰の人であったノアは神の語りかけに応答し、命じられたことをことごとく行いました。箱舟を造っている時はまだ雨も降っていない中、人々にあざけりを受けながら長い年月をかけて巨大な舟を造りました。彼の家族はノアの信仰によってその命を救われました。大雨によって国々は滅び、水が引いてから最初にノアが行ったのは、神に礼拝をささげるための祭壇を築くことでした。聖書に登場する重要な人物たちは折々に祭壇を築き主の名を呼び、神様に触れられ教えられています。それは神様と自分を結ぶ場所として、信仰生涯の中で大切な場所となっています。祈りは本来願い事だけではなく、神様のご計画が成りますように、御心を行わせて下さいという祈り心を持って始めるものです。礼拝は神様の語りかけに対する応答、信仰の行いです。ノアが礼拝をささげた時、主は「水で地上を滅ぼさない」)と約束されました。義人は信仰によって生き、神のさばきから免れる道を人々に示します。私たちも彼らの信仰から学び、義を受け継ぐ者として神の語りかけに応答する生涯を歩めますように。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2016-11-25 12:12:03 (911 ヒット)
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「心を見られる神」サムエル記上1章
ハンナは子どもがいないことで思いわずらっていました。ペニンナが彼女を憎んで悩ませていたからです。夫エルカナのなぐさめもハンナの心に響きませんでした。人には地上で与えられたいのちの時間に限りがあります。その中で様々な計画を立てたり段取りをしたりしますが、自分の力が及ばなかったり、周りとの人間関係の上で想定外のことがあったり、理想と現実に開きがあると悩みが深くなります。思うように進まず行き詰まり、何とかならないかと考えるほど憂いが増していきます。ハンナは行き場のない苛立ちと積もる憂いにうめきながら、「私の胎に男の子を賜り下さい」と主の前で長く祈っていました。祭司エリに話しかけられ、「私はただ主の前に心を注ぎ出していたのです」と答えました。時間の制約の中で追われながら大切なものを見失いがちな人間が、祈りの中で永遠の神に触れられることにより、時間という枠から自由にされるという気づきが与えられます。ハンナは神との関わりの中で心が整えられ、もはや以前のような悲しげな顔ではなくなりました。私達は心の外側の状況に左右されがちですが、目に見えない神は見えない心の内側、奥深いところを取り扱われるのです。祈りによって内側が変えられると、外観(顔つき)までも変えられたのです。やがてハンナは身ごもり、男の子(サムエル)を産みました。その子をハンナは神に捧げました。神様は一人ひとりに「心」を与えて下さいました。神様と出会う場所です。悩みが深くあせりと苛立ちがどうにもできないと思う時、どうか心を注いで主に祈って下さい。人生の中で本当に大切なものは神様との交わりなのだと気づき、永遠を思う心、神様の視点で自分を顧みて、様々なものから自由にされることができますように。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2016-11-18 14:27:33 (982 ヒット)
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「信仰者の生活」ダニエル1章
エルサレムから強制移住させられた貴族の子弟達はバビロンに有益な人物になるように訓練を施されました。しかしダニエルをはじめユダ部族の少年らがその精神の中枢に据えたのは唯一の神への信仰でした。特化された環境における教育は人格形成していく上で大きな影響があったことでしょう。しかしダニエル達は肉や酒で身を汚さないよう律法の食物規定を守ろうとし、宗教生活をその特化された環境に持ち込もうとします。征服された側の人間は、征服者に合わせなければ生きていくことは困難です。そこで神が介入され、世話役の宦官の心にいつくしみの心を与えられました。しかしダニエル達が健康状態を害すれば、王から咎めを受けるのは宦官です。そこでダニエルは試験的に野菜中心の食生活を行わせてくださいと提案し、受け入れられました。状況の中で妥協することなく、なおかつ関わる人と摩擦を生じることなく、信仰生活を守ったところにダニエルの知恵が見て取れます。人が何を大切にしているかは、その生活習慣の中に表れることがあります。日毎の礼拝行為(祈り、賛美、公同礼拝等)にもその特長が出るのではないでしょうか。神はご自身を愛する者を満たそうとしておられます。神は少年らに必要な知識を与え、文学と知恵にさとい者とされました。ダニエルにはさらに幻と夢を解き明かす力を与えられました。神がダニエルを用いてご自身の栄光を現すために必要な能力を与えられたのです。人々はダニエルの食物や祈りの習慣を通して彼が何者かを知りました。信仰者は、神と共に生きることを大切にしていく中で行いにも表れていくのです。私達も大切なことを大切にする良い習慣によって主を証しすることが出来ますように。


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