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投稿者 : ryokos2004peter 投稿日時: 2014-05-16 19:12:48 (1100 ヒット)
メッセージ

『口先だけでなく』


儀式に囚われずパンを食べていた弟子たちを見て、パリサイ人たちは、イエス様にとがめるように質問した。イエス様は、イザヤ29章を引用して彼らの‘口先だけの、心が離れている’信仰姿勢を責められた。

また人が律法を拡大解釈した‘言い伝え’を守るために、『あなたの父と母を敬え』という律法さえも自分たちの都合に合わせて、捨ててしまっていると言われる。今日は、母の日であるが、この日だけ、母を敬えば良いわけでないし、プレゼントさえしていれば良いわけではない。

私たちは、時々、「聖書にそんな事が書いていたのか?」と思える事に囚われている事がある。聖書の教えを勝手な解釈で代えてはいないか、その‘真意’を主に教えられて、心から従う者となりましょう。

                         マルコ7:1〜16

 


投稿者 : ryokos2004peter 投稿日時: 2014-05-09 17:56:40 (1218 ヒット)
メッセージ

『耐え忍んで実を結ぶ』


イエス様は、神の国の奥義をたとえで語られ、ある者にわかりやすく、ある者に奥義を隠された。ここで語られた‘種蒔きの譬え’の種は、福音であり、蒔かれたものが、成長して実を結ぶ事が大切である。

 種は、道端、岩の上、いばら、良い地、どのような土壌に落ちたかによって、それぞれの成長に違いが出る。道端に落ちた種は、芽さえ出ないが、岩の上やいばらは、芽を出して少しは成長するのに、枯れてしまったり、十分に成長できない。

 私たちに蒔かれた福音の種は、同じものが蒔かれている。しかしどのような心で、受け止めるかによって変わってくる。‘種’は、自分で受け変わる事は出来ない。しかし、私たちの信仰生活の環境を整えて、心を耕し‘良い地’に変える事は出来る。また主が変えて下さり、耐え忍んで実を結ぶ者に成長させて下さるのです。 


                         ルカ8:4〜15


投稿者 : ryokos2004peter 投稿日時: 2014-05-02 19:36:27 (1339 ヒット)
メッセージ

『共にとりなして祈る』

 神様の許しでサタンは、ペテロたちを誘惑に陥れる。イエス様の十字架、復活は、主のご計画の中にあったことであるが、誘惑に陥らないように祈っていなさい」と注意されていた。


弟子たちがこれから通らなければならない事がどんなに大変なことなのか、またそれに負けて主を裏切ってしまう事も、主は知っておられ、弟子たちのために信仰がなくならないようにとりなして祈っておられた。自分は大丈夫と思っていても、弟子たちの、また私たちの弱さをご存じなのである。

 ペテロに主は、‘立ち直ったら’他の弟子たちを力づけるように命じられる。私たちも、落ち込んだりする。しかし主は、私たちの弱さをご存じである。同じ所に留まっていないで、主を見上げて立ち上がり、兄姉のために、共に祈り励まし合う事を求めておられる。                                           ルカ22:31〜34


投稿者 : ryokos2004peter 投稿日時: 2014-04-24 14:34:22 (1278 ヒット)
メッセージ

≪イースター礼拝≫


      『見ないで信じる者』


イエス様がよみがえられ、主と会ったというマリヤの話を聞いても、弟子たちは、半信半疑であった。「安かれ」という言葉と共に入って来られたイエス様を見て弟子たちの恐れは一変した。主が与えて下さる平安は、世の与える平安とは違う。


その場にいなかったトマスは、「その手に釘あとを見・・なければ信じない」と、ひどい言い方をしているようであるが、すぐに信じる事の出来なかった弟子たちと大差はない。主のよみがえりを信じる事は、難しい事かも知れないが、「見ないで信ずる者は、さいわいである」と今の私たちに言われている。


 私たちは、肉眼で主を見る事はできない。しかし聖霊によって主を信じる力が与えられる。この後、弟子たちが聖霊を受けて、力強く変えられたように、私たちも、聖霊により、深く主を知る事ができるのです。        


                 ヨハネ福201931


投稿者 : ryokos2004peter 投稿日時: 2014-04-18 19:27:26 (1325 ヒット)
メッセージ

『新しい契約の始まり』


イエス様は、旧約聖書に預言されていたように、ご自分の受難について予告され、‘あがないの死’に向かって進まれた。それは、私たちの罪を負うという最大の目的であった。

過越しの食事は、出エジプト以来、ずっと行われてきた祭であり、神様が人と結んで下さった罪の赦しの‘契約’であった。イエス様が、最後の食事をされ、パンとぶどう酒で、十字架の上で、ご自分の肉体が裂かれ、流される血によって、‘新しい契約’が結ばれる事を教えられる。

イエス様は「すべてが終わった(完了した)」と神様との契約を完成して下さった。私たちは、イエス様の与えて下さった‘新しい契約’の中に生かされているのです。この受難週、また聖餐式の度、この新しい恵みの契約を覚えて感謝しましょう。

                         ヨハネ福192330


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