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投稿者 : ryokos2004peter 投稿日時: 2013-09-06 19:53:15 (1557 ヒット)
メッセージ

『主の僕イエス』


 片手の悪い人を安息日であっても、羊より優れたものと癒された事は、この章のはじめの記事も含め、‘安息日問題’に発展し、彼らはイエス様を殺そうと相談する。イエス様は、それを知って去られた。

 ここはイザヤ書42章の中にも、主の僕としての預言がされている。それは、神の使命を全世界に果たすために、神が支持され、選び、喜ばれ(心にかなう)、その霊を与えられたイエス様の姿が表されている。

 世界ではいろいろな紛争がある。しかし、イエス様は、僕としての使命を全うするために、決して争わず、叫ぶ(絶叫して相手を威嚇する)ことなく、弱い者一人一人を顧み、異邦人に至るまで、望みに生きるように、あがないを全うされた。私たちは、この恵みに感謝すると共に、イエス様のように、争うことなく、弱さの中にある人たちを覚えて、祈り、助ける者となりましょう。       マタイ12:9〜21


投稿者 : ryokos2004peter 投稿日時: 2013-08-30 20:43:36 (1515 ヒット)
メッセージ

 


『み言葉をみつめて』


 私たちは、主に愛されている者であり、主が変わることなく、私たちに良いもの、完全な賜物を与えて下さる方である。

 「そんなに怒る事でもなかったのに…」と反省する事がある。神の愛によって新しく生まれた者として、知っておくべき事は、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくと教えている。真意を理解しない先に、口を出したり怒ったりせず、いち早く主のみ心を知り、語る者でありたい。

 主のみ前に悪から離れ、清められた者となるためには、み言葉を素直に受け入れ、み言葉を実行する事が大切である。洗い清めの洗盤が鏡になっていたように、み言葉は、鏡として私たちの姿を映し出す。鏡を見て‘寝グセ’を直さなければ鏡の前から離れると直さずに終わってしまう。み言葉に教えられたなら、行う者になりましょう。                ヤコブ1:1725


投稿者 : ryokos2004peter 投稿日時: 2013-08-23 19:43:09 (1448 ヒット)
メッセージ

『成熟した信仰を目指して』


 この手紙は、主の兄弟ヤコブが書いたものである。彼は、イエス様を受け入れず、反発していたが、十字架、復活を通して、変えられ主を信じ、‘主のしもべ’として働いた。この手紙は、離散しているクリスチャンたちに、また信仰生活でおろそかになりがちな実践的な部分の大切さを語っている。

 この神様を信じたら、何も問題が無くなると言うのではない。信仰生活を歩む時に、私たちは‘試練’を経験する。それは主を信じて、新生した神の子どもである私たちが成熟した大人のクリスチャンになるために神が通されると言って過言ではない。‘試練’を通る事によって、忍耐が生み出され、「完全な、でき上がった人」になるからである。

 ‘試練’は当初、喜ばしいと思えない。しかし主は、それを通るための知恵を与え、私たちを完全なものに近づけ、いのちの冠を得る者と成長させて下さるのです。    


                           ヤコブ1:1〜8


投稿者 : ryokos2004peter 投稿日時: 2013-08-16 20:00:12 (1373 ヒット)
メッセージ

『心を定めて』


 8月15日は、終戦記念日であり、教団では、『信教の自由を守る日』でもある。今は、平和が当たり前になり、自分の信仰を自分で決めて当然の世の中にいるが、その分真剣に考えなくなっているのではないだろうか。

 今日の記事は、王の宮に仕える者としてバビロンに連れて来られた青年ダニエルたちを、王は、教育(洗脳)しようしていた。何を信じ、従うのか、見るべき方がハッキリと定まっていたダニエルたちは、偶像習慣に染まった食事で自分たちを汚すまいと‘心に思い定め’。その姿勢に神は、恵みとあわれみを与えて下さり、水と野菜だけであっても他の若者より健康的であった。

 信教の自由が守られているからといって、適当でいいのではなく、だからこそ、自分は、どのような信仰を持って主に仕えていくのか、しっかりと‘心を定めて’主を見上げていきましょう。 


                              ダニエル1:1〜16


投稿者 : ryokos2004peter 投稿日時: 2013-08-09 19:24:40 (1566 ヒット)
メッセージ

『神に近づく』


 自分を義人と他者を見下げている人について、イエス様は、パリサイ人と取税人の祈りにたとえて、語られた。取税人と比べ自分こそが相応しい者と高ぶっていたパリサイ人を退け、自分の罪を認め、神に祈った取税人を義と認められた。

当時、取税人が神の前に出てくるには、相当の勇気と信仰が必要であった。彼が‘どうせ自分なんか’と出てこないとすれば、ある意味での自己中心であり、赦しを受け取る事は出来なかっただろう。しかし彼はへりくだって、目を上に向ける事もできなかったが、主の赦しを受けとる事が出来た。

 悪い裁判官でもあきらめずに近づいたやもめのように、屈託なく近づく幼子のように、私たちは、事ごとに信仰を持って、そしてへりくだって主に近づく者でありましょう。主は、へりくだって近づく者に恵みを下さるのです。                ルカ18:9〜14


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