『羊と羊飼い』
羊飼いが、羊を守り、養う事が彼らの仕事であるように、牧者は、信徒のために祈り、み言葉で養う事が使命である。しかし34章前半にはその使命を果たさない牧者について書かれている。主はそのような牧者を退けると言われる。
神様は、まことの牧者としてイエス様を送って下さった。主が牧者をたてられるのは、羊を心から愛しておられるからである。そして、‘良い羊飼い’であるイエス様は、羊である私たちのために命をも捨てて下さった。
羊が羊飼いの守りの中で、安心しているように、私たちも主の守りの中に、過ごすことが出来る。過去には、囚われ苦しめられたところから、主は解放して下さった。私たちは、その恵みをしっかりと受け止め、感謝する者となりましょう。また、養われ、与えられた恵みを分かち合う者となりましょう。
エゼキエル34:20〜31
『み霊のとりなし』
8章のはじめには、いのちの法則と罪の法則について書かれていて、私たちが以前には、罪の中にあり、肉に従って生きていた。しかし今は、キリストを信じ、御霊に従って生きる者とされている。つまり、神の相続人であり、子としての特権が与えられている、と言っている。
‘今の苦しみは’と言うのは、肉体をもって生きている以上、動物たちも含め、罪の誘惑や様々な苦しみがある。私たちクリスチャンは、子としての特権があるが、苦しみも主と共に味わい、完全なものにあがなわれる事を待ち望んでいる。
信じた私たちには、み霊が宿っている。私たちがどんなに弱くても、聖霊なる神様が弱い私たちと一緒に、また私たちに代わって、私たちの重荷を背負って下さる。主に信頼し、聖霊に導かれて日々を過ごしましょう。 ローマ8:18〜26
『見張り人』
度重なる背信行為のために、悲惨な状況に落ち入っていたユダを神様は、見捨てず暗黒から回復して下さり、新しくして下さる。
忘れられたか、と思える時も、主はユダを愛し、決して見捨てられないように、私たちをも愛して下さり、守って下さる。敵の略奪や征服の手から救われ、穀物やぶどう酒を食し、主をほめたたえる時が来る。そのことを‘右の手をさし’‘力強い腕により’誓って下さる。
主に愛され、守られている私たちは、しっかりと主に信頼し、従っていきましょう。問題のある時には『見張り人』として、主に祈りの手を挙げとりなして祈り合い、主の勝利が現わされるように、また証し人とされるように祈り求めてまいりましょう。
イザヤ62:1〜12
『母の愛』
二人の母が、ソロモン王の元に、就寝中に圧死させてしまった赤ちゃんをめぐっての裁判を持ってくる。問題を、王にまで持ってきたのは、密室で、2人にしか分からない、双方一歩も譲らない状態を役人たちは、裁ききれなかったと考えられる。
‘生きている子供を二つに分ける’という一見馬鹿げた方法で、ソロモン王は、本当の母を見分けようとする。母にとって、わが子が死ぬ事は、耐えられない。たとえ相手の手に与えたとしても、生きていてほしいはずである。
聖書の中の‘神の愛’は、このような親の愛に例えることができる。神様にとっても私たちが滅びる事は、耐えられない。そのために神様は、イエス様を送って下さった。私たちは、神様の無限の愛に生かされているのである。
列王上3:16〜28
『主と交わる』
とても有名な聖句であり、ここを賛美で歌う事もあり、暗記しているほど慣れ親しんでいるが、実行するには難しいところではないだろうか?
‘喜ぶ’‘祈る’‘感謝する’ことは、クリスチャンの基本的な姿勢で、それなりにしている積りである。しかし、この≪いつも≫≪絶えず≫≪すべてことについて≫となると、不可能に思える。
全国聖会で、講師の先生が、「何時間テレビを見ますか?」「趣味にどれくらい没頭しているか?」など数々の質問を通し、私たちの生活で主との交わりの時間が、いかに削られているか、気づかされた。
日々の生活の中で、主との交わりの時を造り出して大切にしていくことで、また、交わって聖霊の力を頂くことで、この聖句を実現できるのではないだろうか? 1テサロニケ5:16〜18