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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2015-05-05 21:47:56 (993 ヒット)
メッセージ

『平安あれ』ヨハネ20章19〜23節
「信仰」の対義語は「不信仰」ではなく「恐れ」である。弟子たちは、イエスと同じように自分たちも捕えられ殺されるのではないかと恐れ、戸を閉めて息を殺し潜んでいた。不安や恐れ、様々な思念に囚われていた彼らを一変させたのは復活のイエスだった。
「平安あれ」イエスは弟子たちに声をかけられ、受けた傷を見せ、ご自身であることを現された。イエスの言う「平安」は神との関わりの中で与えられる満ち満ちた状態である。「私はあなたがたに平安を与える。あなたがたは心を騒がせず、恐れるな。」
ご自身で預言された通りよみがえられ栄光の姿を現されたイエスは弟子たちに「わたしはあなたがたを遣わす」「聖霊を受けよ」と言われた。私たちも主の平安を受け、罪の赦しと神との交わりの回復から来る喜びを分け合うため福音を携え世に出ていこう。      


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2015-04-16 23:26:12 (1022 ヒット)
メッセージ

『誰を捜しているのか』ヨハネ20章11〜18節
 イエスの十字架による死から三日目の週のはじめの朝早く、イエスの墓が空になっているのを見たマグダラのマリヤは悲しみに沈んだ。愛する主の遺体がどこにも見あたらないからである。
「誰を捜しているのか」と問われた時、彼女はその人を墓の管理者だと思っていた。何故、すぐにイエスだと気づかなかったのか?(死人が復活するなど)ありえない、という思い込みは真実から目をおおってしまう。「マリヤよ」と生前と同じように親しく語られた時、彼女の心の目は開かれ、それがイエスだと分かった。
「いつまでもここで私にすがりついてはいけない、他の兄弟達の所へ行って、このことを告げ知らせなさい。」失意の内にあった彼女は喜びながら墓を出て行った。「私は主を見ました。」主の復活の最初の目撃証言者となったのである。私達も主の復活を信じる時、聖書を理解する力が与えられ、悲しみが喜びへと変えられるのである。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2015-04-16 23:19:55 (1039 ヒット)
メッセージ

『十字架による赦し』ルカ23:32〜49
 十字架を背負いゴルゴダの丘を上るイエス。刑場に向かっていくイエスを人々はあざ笑った。イエスに関する出来事は、彼の死でもって終わると人々は思っていた。
 しかし、肉体の滅び=死ではない。罪による神との関係性の断絶、それが死なのだ。〈永遠のいのち〉〈天の御国〉とは時間的、場所的なものだけではなく神との関係性のことを指している。神殿の幕が裂けたのは、神と人との隔てが取り除かれ、神との関係性の回復を象徴している。「完了した」イエスを信じる者は罪赦され、永遠のいのちにあずかるという神の御心が成就したのである。
 今でもイエスに対する多くの人々の反応は、〈自分には関わりがない〉〈むしろ関わりたくない〉だ。私たちは神の悲しみとイエスの痛みを知ろう。そして人々が十字架の贖いを信じることによって神の御もとに帰ることを祈ろう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2015-04-16 23:11:35 (988 ヒット)
メッセージ

聖書箇所ルカ19:28〜44
 イエス様が再度、受難の予告をされるが、弟子たちは理解出来なかった。
人は見たいように見、聞きたいことだけを聞く。弟子たちさえもイエス様の真意が分からなかった。イエス様の見ているものと弟子たちが見ているものが違っていた。イエス様のそのまなざしには人々に対する憐れみとその先には十字架があった。
 かつてソロモン王が即位の際に軍馬に乗りエルサレムへ入城したが、イエス様は軍馬ではなく、弟子たちに連れてこさせた子ロバに乗り柔和な平和の王としてエルサレムに入城した。
パリサイ人や祭司たちのイエス様に対する悪意は彼らの真理に対する目を曇らせた。
 私たちは自分の願いや思いに囚われていないか。共に歩んでくださるイエス様のまなざしは何をみているのか。どこに向かっているのか。祈り尋ね、真理を求めてまいりましょう。


投稿者 : ryokos2004peter 投稿日時: 2015-03-13 19:39:36 (1128 ヒット)
メッセージ

『ヤコブの礼拝』
私たちは、なぜ礼拝するのだろうか?神様は、今も生きておられる方であって、私たちを愛して
下さる方である。私たちは、だから礼拝するのである。

 ヤコブは、祝福を受けるために手段を選ばなかった。結果、彼は挫折を味わったが、神様は、天使を見せ、父イサクやアブラハムにされたと同じ約束の言葉をかけられた。ヤコブは、神様がすぐそばにいて下さる事を知り、礼拝した。

  私たちは、罪深さゆえに、神様にたやすく、近づく事は出来なかった。しかし、イエス様の十字架により、神様に近づく事ができるようになった。ヤコブが『主がおられるのに知らなかった』と改めて、主を恐れた。私たちの礼拝の中に主はいて下さる。ここにいて下さる主に心から近づいてまいりましょう。   
創世記28:10〜22


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