『クリスチャンの祈り』
ヤコブは、教会が成長するつれ、おろそかになりがちな実践的な事を教えた。そのまとめの部分。主が再び来られるまで、信仰を持ち続けるには、忍耐が必要である。これまでの預言者やヨブの忍耐を例に挙げて励ます。
‘苦しんでいる者があるか…喜んでいる者があるか…’といろいろな状況の中で、どんな時にも、主の前に出て、心を向ける事を勧めている。それは、イエス様が十字架を通して、備えて下さった道である。そして、病いの者のために祈り、互いに罪を告白しあって、関係を修復するように教える。
神を敬い、み心を行う者≪義人≫の祈りは、大いに力がある。と言われている。困難もあるかも知れないが、主が来られるまで忍耐を持って、主に従い、どんな時も主に期待して、近づいて祈る者でありましょう。 ヤコブ5:7〜20
『次の世代に』
歴史の中でイスラエルの民を神様がどのように導いて来られたか、それに対して民はどれほど逆らっただろうか?主は、先祖たちが、陥った罪を避けるように、主にのみ信頼して歩むように、祭などを通して、子孫に語り継ぐように教えている。
過越しの祭の中で、鴨居に塗られた血によって、エジプトから解放された事を、仮庵の祭では、苦しかった荒野の旅を表し、その家族たちに、それらの祭の中で、彼らの信仰を語って聞かせた。
しかし、イスラエル民たちは、祭さえしていたら良い、という形だけの信仰に陥っていった。それは私たちにも言えないだろうか?礼拝にさえ出ていたら、献金さえしていれば良いという形ばかりの信仰姿勢になっている事がある。真実に主を見上げて歩む姿勢を、子供たち、孫たちに、見せ語り継ぐ者でありましょう。
詩篇78:1〜8
『つまずきの石』
イスラエルの歴史は、神様の選びが実現していく歴史でもあった。そして主は絶対的権威をもって、それぞれの時と場所で人を選び、用いて来られた。その選びは、異邦人をも‘あわれみの器’として選び、救いの中に入れて下さった。
異邦人は、ユダヤ人たちのように、律法を守ったり、立派な行いはできなかったが、信仰によって義とされた。ユダヤ人は、信仰によらず、律法を守り、立派な行いを追い求めたために、義に至らなかった。
ユダヤ人にとって、ナザレのイエスを救い主と信じる事が出来なかっただけでなく、‘ただ信じるだけ’という事が、つまずきの石となった。同じように、‘イエス様の十字架を信じるだけ’と言う救いは、私たちの周りの人も信じがたい、と言う。しかし、信仰によって受け入れた私たちには、救いの岩であり、神の力である。
ローマ9:24〜33
『恵みに生きる』
あちらこちらで戦争があるが、私たち自身の周りでも、大なり小なり争いがある。それは、お互いの争いであれ、自己との争いであれ、私たちの内側を活発に動き回る欲望が原因であると言える。
食欲など、無くては困る‘欲’もある。しかし、自分の快楽のために、悪い動機で願う祈りを聞かれないのは、主が、私たちに、真に求めるべきもの、真の満足、真の平安を与えようとしておられるのである。そして、私たちを‘ねたむほど深く’愛し、豊かに恵みを与えて下さる方である事を、私たちは、知るべきである。
私たちは、これほど大きな恵みを下さる主に従い、悪魔に立ち向かいましょう。そして、罪を犯したなら、熱心に悔い改め、神様に近づきましょう。主はへりくだる者を高く引き上げて下さいます。
ヤコブ4:1〜10
『知恵のある者』
これまで、行いのない信仰はむなしい。とヤコブは、その人の心の思いが行動となって現れる、と語って来た。言葉もそのうちであるが、‘口は災いのもと’と過ちを犯しやすい器官でもある。
ヤコブは、知恵について、‘上からの知恵’と‘地や肉に属する偽りの知恵’があるという。偽りの知恵は、ねたみや党派心から出て、混乱や忌むべき行為に発展する。それに対し‘上からの知恵’は、清さ、平和、寛容、温順などで、私たちに良い実を結ばせる。
『知恵がある人は、・・柔和な行いをよい生活によって示す』ように語られている。しかし自分の言葉を制し、‘上からの知恵’を持つためには、私たち自身の努力では持ち得ない。主に助けられ、み霊に満たされて、頂くことが出来る。主にその力を頂きましょう。
ヤコブ3:13〜18