『自由の律法で』
律法で裁かれるなら、私たちはすべてを守り徹さなくてはならず、救いから遠い。しかし、私たちは、イエス様の十字架により与えられた、自由の律法によって生きている。罪が赦され、あわれみを受けた者として、喜び感謝し、弱さのある人とも共に生きる事が出来るのです。 ヤコブ2:1〜13
『主の僕イエス』
世界ではいろいろな紛争がある。しかし、イエス様は、僕としての使命を全うするために、決して争わず、叫ぶ(絶叫して相手を威嚇する)ことなく、弱い者一人一人を顧み、異邦人に至るまで、望みに生きるように、あがないを全うされた。私たちは、この恵みに感謝すると共に、イエス様のように、争うことなく、弱さの中にある人たちを覚えて、祈り、助ける者となりましょう。 マタイ12:9〜21
『み言葉をみつめて』
主のみ前に悪から離れ、清められた者となるためには、み言葉を素直に受け入れ、み言葉を実行する事が大切である。洗い清めの洗盤が鏡になっていたように、み言葉は、鏡として私たちの姿を映し出す。鏡を見て‘寝グセ’を直さなければ鏡の前から離れると直さずに終わってしまう。み言葉に教えられたなら、行う者になりましょう。 ヤコブ1:17〜25
『成熟した信仰を目指して』
‘試練’は当初、喜ばしいと思えない。しかし主は、それを通るための知恵を与え、私たちを完全なものに近づけ、いのちの冠を得る者と成長させて下さるのです。
ヤコブ1:1〜8
『心を定めて』
信教の自由が守られているからといって、適当でいいのではなく、だからこそ、自分は、どのような信仰を持って主に仕えていくのか、しっかりと‘心を定めて’主を見上げていきましょう。
ダニエル1:1〜16