アーカイブ | RSS |
投稿者 : ryokos2004peter 投稿日時: 2013-08-09 19:24:40 (1566 ヒット)
メッセージ

『神に近づく』


 自分を義人と他者を見下げている人について、イエス様は、パリサイ人と取税人の祈りにたとえて、語られた。取税人と比べ自分こそが相応しい者と高ぶっていたパリサイ人を退け、自分の罪を認め、神に祈った取税人を義と認められた。

当時、取税人が神の前に出てくるには、相当の勇気と信仰が必要であった。彼が‘どうせ自分なんか’と出てこないとすれば、ある意味での自己中心であり、赦しを受け取る事は出来なかっただろう。しかし彼はへりくだって、目を上に向ける事もできなかったが、主の赦しを受けとる事が出来た。

 悪い裁判官でもあきらめずに近づいたやもめのように、屈託なく近づく幼子のように、私たちは、事ごとに信仰を持って、そしてへりくだって主に近づく者でありましょう。主は、へりくだって近づく者に恵みを下さるのです。                ルカ18:9〜14


投稿者 : ryokos2004peter 投稿日時: 2013-08-02 18:38:25 (1474 ヒット)
メッセージ

『共に生きるために』


 イエス様は、再び来られる、と約束された。その時、教会でありクリスチャンたちは引き上げられ、主にあって死んだ者たちはよみがえり、空中で主と会う事が出来る。

 それでは、他の人たちはどうなるのか?不法を働く者の力を阻止している教会が挙げられるので、かつてない程の困難な時代がやってくる。今の世の中を見ると、反キリストの出現や地震などの天災で、「これが大患難時代かも?」と思うような時もある。しかし、それでは済まない程の困難がやってくる。

 しかし、私たちは、キリストにより‘怒りにあわせるように、ではなく‘救い’を得るように定められ、世の終わりの時も、主と共に生きるようにされているのである。だから、この恵みに感謝し、自分だけでなく、まだ救われていない人のために、祈る者になりましょう。                   


                           第1テサロニケ5:111


投稿者 : ryokos2004peter 投稿日時: 2013-07-26 18:22:09 (1519 ヒット)
メッセージ

『何のために』


 イエス様の十字架、復活、昇天、そしてペンテコステの出来事から教会が誕生して、現在の私たちに続く。そしてこの先、イエスキリストが、「昇天された時と同じ有様で再臨される」と聖書は語っている。

再臨された時、‘キリストのさばきの座’がクリスチャンを待っていて、イエス様の前に出る時がやってくる。私たちの罪は、すでにイエス様が十字架の上で、背負って下さり、赦されているので恐れる必要はない。ここでは、クリスチャンの地上での歩みがどうであったか?が問われ、火でテストされるのである。誰かにほめられるために、また地上での見返りを求めての働きは、わらが燃え尽きるように簡単に消え去ってしまう。

私たちの地上の歩み、教会での奉仕など、人に評価される事を求めるのでなく、主に対して捧げていきたい。そして主に‘忠実な僕よ良くやった’と言われる者でありたい。           

                    第1コリント31015


投稿者 : ryokos2004peter 投稿日時: 2013-07-20 11:44:54 (1481 ヒット)
メッセージ

 


『主を喜ばせる』


 社交辞令で、『お多幸をお祈りいたします』と手紙に書き添えられていたりするが、パウロは、関わった教会の祝福を、心から祈り続けていた。彼の祈り、願いは、彼らが主を知ることであった。

社会科の勉強などでイエスキリストを知っている人は多い。けれどもここでいう‘知る’というのは、聖霊により、内面がてらされ、弱さ足りなさが示された上で、霊的な知恵と理解力で神様のみ心を知ることである。

 私たちは、時折り「神様のために」と思ってやっている奉仕でさえ、単に‘自分のやりたいこと’に過ぎない事がある。主は、何を求めておられるのか?祈りつつ、み旨を知り、み心に沿った生活をすることで主を喜ばせ、良い実を結ぶことが出来る。そのような主との関係がさらに、主を知る事になり、主を喜ばせる事が出来るのです。      


                              コロサイ1:9〜10


 


 


 


投稿者 : ryokos2004peter 投稿日時: 2013-07-12 19:55:27 (1503 ヒット)
メッセージ

『内なる光』


 目が見えないと言うのは、大変困難な事である。当時のユダヤ人たちは、選民意識が強く、自分たちを‘光の子’として、誇っていた事にイエス様は、彼らの心の目が開かれていない事を指摘し、内なる光が暗くならないように注意される。

手を洗わないで食事をされるイエス様に不信感を持ち、様々な言い伝えや慣わしに囚われている人々にもまた、主は外側でなく、内側を清める事の大切さを、教えられた。

 イエス様は、私たちの内側にある闇を照らし、罪をきよめ、内なる光を与えるために十字架にかかって下さった。私たちは、外側ばかりを取り繕い、悪い思いで満ち、内なる光が暗くなっていないだろうか?主によって、清めていただき、光を持つことが大切である。そうすれば、人にも光を照らすことが出来るからである。     

                              ルカ11:3341

 


« 1 ... 100 101 102 (103) 104 105 106 ... 120 »
ID : Pass :